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ジャポニスム2018 パリで観る能舞台
栗栖智美(美術ライター、通訳、コーディネーター)
2019年03月15日号
立春を過ぎ、だいぶ日が長くなったある夜、パリ外れのシテ・ド・ラ・ミュージックという音楽ホールで能と狂言の舞台があった。これは昨年から行なわれている「ジャポニスム2018」の文化イベントのひとつ。能の演目がパリで上演されるとあって、兼ねてから興味があったイベントだ。
通常はオーケストラなどの西洋音楽を聴くためのホールなのだが、この日は日本から能舞台をまるごと輸送し、たった5日間の公演のために能の檜舞台を一から再現したというから、その熱量に驚くばかりだ。9割ほどのフランス人観客のなかには、ヒノキの香りが鼻腔をくすぐる会場に足を踏み入れ、老松の絵が描かれた舞台を初めて見て驚いた人も多かったのではないか。少数派の日本人観客のなかには着物姿の女性もいて、オペラに匹敵する日本の伝統的な演劇をパリで味わえる稀有な機会に胸が高鳴った。
テクノロジーがガイドする日本の古典芸能
この日の演目は、狂言『木六駄』と、能『清経 恋之音取』。5日間で狂言が2演目、能が4演目と、毎日違う組み合わせで楽しむことができるのも古典芸能ファンには嬉しいプログラムに違いない。
また、日本の古典芸能は日本人ですら聞きなれない表現が多いのに、フランス人にわかるのだろうか、という心配は無用。なぜなら、舞台の頭上に電光掲示板でセリフや解説をフランス語訳で読むことができたのだ。ただし、舞台の演者や演奏からいちいち目を離さないと掲示板は見られないため、大日本印刷株式会社(DNP)が開発した観劇用ARガイドシステム
で使用するスマートグラス(メガネ型の機器)も一部の観客に貸し出された。これをかけると、舞台の演出の邪魔にならない画面下部に、リアルタイムでセリフや解説が現れる。舞台を見ながら同時に解説も読めるため、集中して演目を鑑賞することができる。隣に座ったフランス人親子も、鑑賞の助けになり大好きな日本の伝統芸能をしっかりと楽しむことができたと賞賛していた。そういった配慮があったため、フランス人にも言葉のハンデなく楽しめる舞台となった。
狂言の『木六駄』は、太郎冠者物に分類され、上演時間が比較的長く狂言のなかでも見所の多い演目だ。雪が吹きすさぶなか、木と炭を6頭ずつの牛(駄)に乗せて、酒樽と送り状を年末の挨拶に届けるようお使いを頼まれた太郎冠者の話。途中、一休みした茶屋で、あまりの寒さに持ってきた酒を主人とふたりで飲み干してしまい、さらに酔っ払って木六駄まで放置して先方の家に着き、届け物が足りないことをこっぴどく叱られるというオチなのだが、言うことを聞かない12頭の牛を難儀して歩み進める場面や、ちょっとだから大丈夫とお酒を飲んでしまう場面など、表現豊かでわかりやすい。すべてのセリフが翻訳されたため時折笑い声がこぼれ、フランス人とも狂言の面白さを分かち合えたのが嬉しかった。
休憩をはさみ、いよいよ能が始まる。『清経 恋之音取』は平家物語からの題材で、平家が追い詰められ、入水して自死した平清経の形見を、京都で待つ妻のもとに届ける場面から始まる。悲しむ妻がせめて夢でも会いたいと願うと、清経が夢に現れ、自死の理由、最期の様子などを語り成仏するという、世阿弥が生み出した夢幻能の傑作のひとつだ。こちらは、セリフは翻訳されず、ところどころの解説だけで、あとは舞台に集中するという演出だった。セリフのフランス語は配布されたパンフレットにあるので、それを読みながら鑑賞する人もいた。狂言と違い、こちらは大鼓、小鼓、笛、そして8名の地謡が演奏をする音楽を楽しむものでもある。大小の鼓の音色のシンプルさや微妙な違い、笛の豊かなメロディ、そして8名が揃ってユニゾンで唄う重厚な声は、日本独特の音楽で、きーんと張り詰めた空気が流れ、固唾を飲んで隅から隅まで注意しながら鑑賞しているフランス人が多かった。実は日本人である私でさえも、セリフは聞き取れず理解が難しかったのだが、音楽の強弱や、舞の静のなかの動を感じていると、ストーリーの展開が理解できるような気がしてくる。650年前に誕生した能楽という日本の伝統芸能のエスプリを、フランス人も感じとれたのではないだろうか。
フランス人が味わう日本の「道」の世界
日本の伝統芸能のなかで、能楽はかなり異彩を放っていると言えるだろう。激しい舞もなければ、セリフや感情の抑揚も少ない。静寂のなかでの微妙な動きを感じ取るとても繊細な演劇だと思う。この世界観をフランス人は理解できるのか、と思ってしまうのだが、ホールが埋まるほどの観客の顔を見ると、心配することはなさそうだった。それぞれに能と狂言の舞台を興味深く楽しんでいたようだ。私事であるが、フランス国立東洋言語文化学院というフランスにおける日本語教育を最初に始めた学校に通っていた時、フランス人の教授陣から日本文化を隅々まで教えていただいた経験がある。音楽の授業では、雅楽、能楽の楽器、歌舞伎の楽器、声明にいたる日本の音楽をとてもマニアックに学んだし、美術の授業でも、日本人の専門家も一目おく優秀な教授に学んだ。卒業後も、書道や香道などの日本の伝統文化を継承しフランスに広めていく「フランス人弟子」に何人も出会っている。彼らは、日本人が何百年もそのままの形を受け継いできた「道」を尊敬の眼差しで鑑賞し、学び、自らも伝道者となろうとするのだ。現代の日本人以上に「日本人」らしいフランス人も少なくない。フランスにおける日本文化の受容については、日本人が想像する以上に深く浸透しているように思う。
フランス人が味わう日本の「道」の世界
ところで、この能と狂言のプログラムは、一連の「ジャポニスム2018」イベントの最終月に開催された。「ジャポニスム2018」は、日仏友好160年と、明治維新・開国150周年を祝して開催された、過去に類を見ないほど大々的な日本の文化を紹介するイベントである。2018年7月から8ヶ月におよび、パリを中心にフランス国内およそ100の施設で、展覧会・コンサート・映画・演劇・ダンス・食文化・伝統文化のイベントが行なわれた。エッフェル塔のプロジェクションマッピングや、パリ市庁舎前に設置された巨大風呂敷のインスタレーションなど、パリに突如日本の文化が現れ話題になった。また、バーチャル・シンガーの初音ミクのコンサート、中村獅童と中村七之助率いる松竹大歌舞伎、宮内庁三の丸尚蔵館蔵の作品も出品された伊藤若冲展など、このたびフランスで初めて行なわれたイベントも多数あった。30万人以上を動員したチームラボの展覧会、縄文時代の土偶から現代の最新技術のアートの紹介など日本の話題に事欠かなかった8ヶ月であった。
このイベントにつけられた副題は「響きあう魂」。150年前には、ゴッホやモネが浮世絵に着想を得て美術におけるジャポニスム旋風を巻き起こしたが、その後も神秘的で多様性に富む日本文化はフランス人を魅了し続けた。日本の伝統芸能が芸術家や多くの文化人に好まれたのはもちろんだが、その裾野は若い世代や一般の人にまで広がり、マンガやアニメなどのポップカルチャーや、テクノロジー、食文化など日本のものとは知らずに人気を博しているものも数多い。フランスにおいて日本はあらゆる面で一目置くに値する国なのである。
一方、フランスの文化もまた、日本人に多大な影響を与えている。過去には黒田清輝がフランス留学を経て日本に洋画をもたらし、藤田嗣治がフランス滞在中に同時代芸術家たちに与えた影響も今や皆が知るところだ。フランスのバレエダンサーやオペラ歌手の来日公演を観に行き、フランスの映画や音楽を愛で、フランスの食文化を学んだシェフたちのレストランでディナーをする。現代日本人の生活にもフランス文化が浸透している。
両国が抱きあっている憧れにも似た友好関係は、日仏文化交流というかたちで、日常生活から非日常の体験まであらゆるレベルに浸透し、新しい文化の創出に一役買っていると言えるであろう。これまで、フランスにおいて日本の文化は憧れをもって「ながめるもの」とされてきたように思うのだが、今回のイベントではたくさんのワークショップや関連商品販売もあり、文化の「体験」を自分の生活に取り入れる機会となった人も多かっただろう。この日本国外で行なわれた最大規模の日本文化紹介事業は、フランスにおける日本の知名度をあげることに貢献した。もっとも、東日本大地震から8年たった今、およそ27万人のフランス人が日本を訪れているという。今回紹介された日本文化を、現地でじっくり楽しんでみたいと思うフランス人がこれからも増えるのではないか。日本人が気づいていない日本の素晴らしい文化を、フランス人は気づき、敬い、憧れの眼差しで見ている。これからも双方の文化交流を通じて、お互いの美意識が洗練されることだろう。10年後、20年後の日仏文化交流イベントが楽しみだ。
ジャポニスム2018 「能楽」
会期:2019年2月6日(水)〜10日(日)
会場:シテ・ド・ラ・ミュージック
Cité de la musique - Philharmonie de Paris
221, avenue Jean-Jaurès, 75019 Paris
主催:国際交流基金、日本経済新聞社、フィルハーモニー・ド・パリ
協力:KAJIMOTO
出演:野村萬、梅若実、浅見真州 他