アート・アーカイブ探求

小林古径《髪》──静寂と拮抗する品格「笹川修一」

影山幸一

2012年05月15日号

少年と切手

 ほくほく線の直江津駅の手前で電車は止まった。日本海からの強風でよく止まるのだそうだ。信越本線の高田駅では風はなかった。駅前の郵便ポストの上に設置された上杉謙信の小さな騎馬像の彫刻が思いのほか精巧であった。雪よけの雁木(がんぎ)造りの軒が連なる静かな町は、映画の一コマのように思えた。
 笹川氏は、学芸員として2002年の美術館開館前から古径の研究を始め、古径展の企画も行なっている。刃物屋や鍛冶屋の多い金物の町、新潟県三条市に生まれ、富山大学では日本史を学んだ。卒業後は歴史のある上越市の教育委員会社会教育課で文化財調査担当になった。1996年に上越市立総合博物館の学芸員となり、展覧会の企画や、所蔵品の調査などを行ない、そのとき美術展に携わる仕事を経験した。2002年博物館から分離し、新しく開館した小林古径記念美術館の学芸員となった。2007年からは学芸業務を兼任する資料係長を務めている。
 笹川氏は子どもの頃、漫画『ブラックジャック』の影響で医者を夢見た少年だったが、中学生の頃から数学が苦手で断念した。ちょうどその頃、部活動で吹奏楽部に入ってホルンに出会い、高校時代に音楽教諭から音楽大学への進学を勧められたが、長男という期待を感じて富山大学人文学部へ進むこととなった。また笹川氏は幼少の頃、切手を集めるのが好きで、切手趣味週間には「近代美術シリーズ」があり、美術に触れる切っ掛けはそこだったと、振り返る。5年前に切手収集帳を探して見ると古径の《髪》があったと言う。切手の発売は笹川氏が生まれた昭和44(1969)年。「《髪》は縁がある作品と思いました」と笹川氏。小さな切手が少年に与える影響は色々である。

優しく寡黙な人

 笹川氏は総合博物館に勤務しているときに、地元の画家を調べていくなかで古径と出会い、深く研究するようになっていった。最初に《髪》の実物を見たのは、2001年に笹川氏が企画して総合博物館で開催した「上越市発足30周年記念 小林古径特別展」だった。「こんなに大きいのか」と実物のもつ大きさに感動しただけでなく、「本当にきれいな色だった」と回想する。
 古径はとても口数の少ない人だったようだ。1883(明治16)年2月11日、父株(みき)、母ユウの次男として雪深い新潟県中頸城(なかくびき)郡高田南土橋(現在の上越市大町一丁目)に生まれた。本名は茂。高田南土橋は、高田城跡の南西部に位置し、付近には青田川がいまも静かに流れている。「画人 小林古径ここに生まれ育つ」の標柱が橋のたもとにひっそりと立っている。
 古径の父は、最後の高田城主であった榊原家の家臣で、明治維新後は新潟駅逓出張局長心得兼新潟郵便局長心得の役職にあった。9歳年上の兄と2歳年下の妹の三人兄弟だった。しかし、古径が4歳のときに母ユウが他界し、兄は古径が12歳のときに亡くなり、その翌年父も48歳で亡くなった。他人の家で生活しなければいけなかった幼少期の境遇や、厳しい自然環境、そして高田藩士の血を引くことなどが、古径を寡黙な人と呼ばせ、同時に面倒見のよい、他人を気遣う優しい心を芽生えさせた、と笹川氏は見ている。
 当時の評論家である藤森順三は「この人のやうな烈しくて強い情熱の持主を、未だ嘗て私は見たことがない。しかも、それは一見固苦しげな謹嚴さの裡に深くつつまれてゐて、表面は水のごとく冷かでもあれば、どうかするとまた、行ひ澄した高僧のやうに静かに見える」(図録『小林古径展』p.9)と、書いている。またアンデルセンの『即興詩人』(森鴎外訳)を愛読した古径は、奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子、岡本弥寿子など多くの画家や文化人に影響を与え、新潟県人で初めての文化勲章受章者となった。74歳の生涯であった。

【髪の見方】

(1)モチーフ

髪、二人の女性。湯上がりの女性の髪梳きの場面である。日本画で裸体を描くことは少ない。

(2)構図

画面の中心に髪。画面下半分に人物を配し、その人物を斜め向きに配置。余分なものをすべて削ぎ落とした無駄のない構図である。

(3)構成

長い黒髪が人と人をつなげている。線や色彩のバランスを考えた緊張感漂うシンプルな構成。

(4)制作年

1931(昭和6)年。第18回再興院展出品作。

(5)サイズ

174.0×108.8cm。画面は想像以上に大きい。

(6)画材

絹本彩色。顔料、膠(にかわ)、墨。

(7)技法

線描が先で色はあとで塗るのが普通だが、輪郭を強調することもあり、色を塗ったあとに線を描き起こしている部分がある。髪の毛の生え際などは細い筆で緻密に描き、また墨で髪を一度線描きしたあとに再度膠を混ぜた濃墨で何回も描いて髪の質感と量感を出している。古径の線は冷たく表情がない「鉄線描」と言われるが、抑揚がなく真直ぐに引くことができるのはひとつの技術。法隆寺金堂壁画の菩薩像の輪郭線にも見られる、肥痩のない一定の太さの硬い線が特徴である。

(8)色彩

色数は少ないが、濁りのない澄んだ色。抑制を効かせて、地味ではなく、色の濃淡を活かして効果的に配色している。

(9)落款

なし。院展に出品した作品だが、古径はまだ手を加えたいと思っていたのかもしれない。古径は未完成と言っているが同時にどこに手を入れていいかわからないとも言っている。これが完成かもしれないという不思議な作品。

(10)鑑賞のポイント

《髪》に先立つ1918(大正7)年の院展にも二人の女性の裸体である《出湯(いでゆ)》を発表したが、《髪》のような胸を露わにしている作品は珍しい。それも官能的ではなく健康的に描いている。古径には「裸婦の絵を床の間に掛けることがどこまで可能なのか」というテーマがあったらしい。和の空間や、日本の文化のなかで裸婦というものが受け入れられるのか、チャレンジであったと思う。しかも二人が裸体ではなく、裸婦と着物の女性というところが効いている。この二律背反はほかでも見られる。長い髪に対する短い髪、成熟した女性と若い女性、色の濃いと薄い、線の細いと太いなど、対比するものを画面のなかに同居させて、イメージの振幅に幅をもたらしている。丸く黒い瞳と太く切れ長の目の線は、断髪と長髪の黒色のアクセントとなり、明快な画面を強調し、また腰にまとった布の薄緑は、着物の紺地と帯の朱によって、爽やかで清々しい印象となっている。髪の毛の表現が写実的であり、あとは単純化された表現の《髪》。その表現の調和が艶めかしさを排除する要素ともなっている。手の組み方がエジプト美術に似ていることや、目の表現がエジプトのミイラの棺にあるツタンカーメンと類似している指摘はあるが、なぜかの結論は出ていない。2002年重要文化財に指定された。

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