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小林古径《髪》──静寂と拮抗する品格「笹川修一」

影山幸一

2012年05月15日号

音のする盆

 哲学者の梅原猛氏を名誉館長に迎えた小林古径記念美術館では、古径の本画や資料など、古径芸術の源泉というべき約1,300点を収蔵している。東京・大田区南馬込から移築復原された小林古径邸と、再現された画室もあり、古径の生活を体感できる。美術館のある高田城跡公園には、日本三大夜桜に咲く桜4,000本があり、夏は東洋一と呼ばれる蓮が外堀を埋め尽す。日本におけるスキー伝来の地で、冬は全国有数の豪雪地帯である上越市だが、奈良から平安には越後国府の所在地と推定され、また中世には上杉謙信の居城である春日山城、江戸時代には徳川家康の六男である松平忠輝によって高田城が築かれた。四季折々の自然の変化が美しい歴史のある地域である。
 古径は「本当にいい絵というものは、こちらが黙らせられてしまうものですね」(藤森淳三「日本畫家 小林古徑畫談」『芸術新潮』p.45)と言っており、さらに「こゝにあるこの盆一つにしても、ぢつと見てゐると生きてゐる気がする。叩けば音がするし盆には盆の生命のあることがわかるのだ。ところが、それを絵にすると、なかなか音がしない。音のする盆をかくのは大変だ。写実といふのも、そこまで行かなければ本当の写実ではない」(小林古径「ウソといふこと」わが技巧論『美術評論』4-4, 1935年5月より引用。図録『小林古径展』p.220)と、師である梶田半古(かじたはんこ)が重んじた「写生と画品」の出来具合を音に変換し、確認している。無音とも思える研ぎ澄まされた静寂と拮抗するほどの品格を形成している古径作品。その作品誕生の環境には、鳥のさえずりや風の音、あるいは人の声や遠く車の走る音が聞こえる。

日本美術院の三羽烏

 早世した兄が洋画を習っていたのを真似て、雑誌の口絵を写しているうちに古径は絵に関心を持ち始めた。11歳頃、新潟で横山大観と東京美術学校同期だった山田於菟三郎(おとさぶろう)に手ほどきを受け、12歳頃には松本楓湖(ふうこ)門の青木香葩(こうは)に歴史画を学んだ。しかし新潟では十分な修業ができないため、1899(明治32)年16歳のときに上京し、梶田半古に師事、この年“古径”の号をもらい、初めて日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会に《村上義光(よしてる)》を出品した。1910 (明治43)年、今村紫紅(しこう)、安田靫彦(ゆきひこ)に誘われて紅児会(こうじかい)に入会。1914 (大正3)年の第1回再興日本美術院展(再興院展)には《異端》を出品して同人に推挙された。前田青邨(せいそん)、安田靫彦とともに、“日本美術院の三羽烏”と呼ばれ、日本美術院の中心的な画家として活躍した。
 また、紅児会の活動が機縁となり、横浜の豪商原三溪(本名:青木富太郎。1868-1939)から精神的・経済的支援を受け、1922年古径39歳のとき、前田青邨と彫刻家・佐藤朝山(ちょうざん)と一緒に日本美術院留学生として、ヨーロッパ(エジプト、フランス、イタリア、オランダ、スペイン、ギリシャ、イギリス)へ派遣された。

線の生命感

 古径が最もヨーロッパで惹かれたのは、古代エジプト美術とイタリアの初期ルネサンス美術だった。西洋画に影響を受けて生まれた朦朧体(もうろうたい)★1に代表されるように、明治後半から大正時代にかけて、日本画壇では線よりも光や色彩、空気感が重視されていた。「エジプト美術のはっきりとした力強い線が古径には新鮮だったのかもしれない」と、笹川氏。
 大英博物館では、東晋時代(317-420)の画家・顧愷之(こがいし)の作と伝えられる中国古典絵画の名品《女史箴図巻(じょししんずかん)》の「化粧部屋での二婦人の仕度図」を模写した。六朝時代の“高古遊絲描(こうこゆうしびょう)”と呼ばれている古代の描線は、細さが一定で、運筆も伸びやかな線で「春蚕(はるご)の糸を吐く如きものとも、高貴なる」(吉村貞司「線に日本画の本質を求める」『三彩』p.24)と言われている。約50日をかけて模写を終え、青邨と一緒に帰える途中、古径はひと言「あー勉強になったな」と発したという。後年《髪》と同様のポーズに《女史箴図巻》との関連を思い出したのは古径自身だったが、意に介しなかったそうだ。
 そもそもなぜ、古径は髪を題材に絵を描いたのか。「考えるほど不思議な題材。ただ《髪》を制作した前の年に、《清姫》という作品を院展に出品しており、髪を振り乱して表わしている。感情や生命感が髪に凝縮されているところがあるような気がする。しかし、古径にとって女性の髪の毛が何を象徴していたのかは、わかるようでわからない」と、笹川氏は言う。

★1──伝統的な日本画の線描技法を用いず、輪郭を空刷毛でぼかし空気や光を現わす絵画表現。

美しき日本の文化

 歴史画から出発し、南画風大和絵、細密描写などを試み、西洋画と日本画を融合した“線”に辿り着いた古径。観察のなかから生まれてきた肥痩のない本質の一本の線が、肌ざわりや重さ、香りや音までも感じられるような生命力を持った。古径の作品に冷たさや窮屈さを感じる人もいるが、小林古径は、生活の様子をありのままリアルに写すことで“存在の本質”へ迫り、的確な写実の技術によるかけがえのない輪郭線をもって、描く対象とその背景を溶解させ、時間と空間を含むその全体性を、物理的な存在を超えたひとつの宇宙として表現したのだ。
 笹川氏は、「実際にヨーロッパ留学の影響は何かというとあまりなく、どちらかというと日本文化を見つめ直すことができたのではないか」と述べ、「古径芸術とは、大和絵や琳派などの日本の古画を徹底的に追究し、そのうえで近代的な感覚を取り入れて成熟させている」。一言で表わすと“品格”だと笹川氏は言い切る。失われつつある日本の文化の警鐘として、古径はかつての「美しき日本の文化」への回帰を促すよう寡黙に訴えかけている、と笹川氏は語った。





主な日本の画家年表
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笹川修一(ささがわ・しゅういち)

小林古径記念美術館資料係長。1969年新潟県三条市生まれ。1992年富山大学人文学部人文学科卒業。1992年上越市教育委員会社会教育課学芸員、1996年上越市立総合博物館学芸員、2002年小林古径記念美術館学芸員、2007年より現職。主な著書:「滝川毘堂について」『滝川毘堂彫刻作品集』編著(滝川ひろ子, 2010)、「原三溪と小林古径」『原三溪と小林古径─三溪園所蔵品展』図録(小林古径記念美術館, 2011)、「小林古径の生涯」『花美術館』(花美術館, 2012)など。主な展覧会企画:『上越市発足30周年記念 小林古径特別展』(上越市立総合博物館, 2001)、『牧野虎雄展〜郷土が生んだ孤高の洋画家』(上越市立総合博物館, 2003)、『原三溪と小林古径三溪園所蔵品展』(小林古径記念美術館, 2011)など。

小林古径(こばやし・こけい)

日本画家。1883〜1957。新潟県高田生まれ。本名茂(しげる)。1894(明治30)年頃山田於菟三郎に日本画を学び、次いで青木香葩に歴史画を学ぶ。1899年梶田半古の画塾に入門し、「古径」の号を授かる。1908年岡倉天心の訪問を受ける。1910年紅児会に参加。1911年天心の斡旋で原三溪から経済的援助を受ける。この頃速水御舟と知り合う。1912年三好マスと結婚。1914年第1回再興院展に入選、同人となる。1918年日本美術院評議員。1922年日本美術院留学生に選出され、渡欧、翌年帰国。1930年日本美術院経営者同人。1934年東京・大田区南馬込に住居を新築(設計:吉田五十八、棟梁:岡村仁三)。1944年東京美術学校教授、帝室技芸員。1950年文化勲章を受章。1957(昭和32)年パーキンソン氏病・脳軟化症のため74歳にて永眠。代表作に《出湯》《芥子》《鶴と七面鳥》《清姫》《髪》《弥勒》《孔雀》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:髪。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:小林古径, 1931年, 絹本着色, 額一面, 170.0×108.2cm, 重要文化財, 永青文庫蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:永青文庫。日付:2012.3.27。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 25.1MB。資源識別子:FUJIFILM CDUII30255 AF GHGE(6-137, H8.5, D)。情報源:永青文庫。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:永青文庫。






【画像製作レポート】

 作品画像を借用する申請書を永青文庫のホームページからダウンロード後、プリントアウト。必要事項を記入し、社版を押印、企画書を添えて永青文庫へ郵送。7日後4×5カラーポジフィルム(カラーガイド付き)を宅急便で受領。プロラボにてポジフィルムを350dpi, 20MB(8bit)にスキャニングし、TIFFファイルに保存、1,785円。永青文庫の画像利用料金は26,250円。
 iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、図録の画像を参照しながら、目視により色調整。0.1度時計回りに回転し、作品の縁に合わせ切り抜く。Photoshop形式:13.5MBに保存する。
 セキュリティーを考慮して画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。
 ポジフィルムにカラーガイドは写っていたが、グレースケールがなかったため明度を決めるとき不便だった。またフィルムがやや古く、汚れが何点か写り込み、発色も芳しくなかった。作品とともに額も一緒に表示したかったが、カラーガイドが額縁の上に付いており、作品のみを切り抜き、額縁は諦めることにした。カラーガイドは額にのせず、作品から少し離して撮影してもらいたい。作品とともに額縁から得られる情報は多く、経年変化の目安となるばかりか、時代背景や作品に対する所有者の思いなども伝わってくる。
[2021年4月、Flashのサポート終了にともない高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]



参考文献

藤森順三『小林古徑』1944.12.15, 石原求龍堂
今泉篤男「小林古徑の藝術」『三彩』55号, pp.42-46, 1951.9.1, 美術出版社
藤森淳三「日本畫家 小林古徑畫談」『芸術新潮』第三巻第五号, pp.44-45, 1953.5.1, 新潮社
福田清人「小林古径〔髪〕昭和六年」『現代の眼』No.25, p.2, 1956.12.1, 近代美術協会
矢代幸雄『日本美術の特質』1965.8.14, 岩波書店
後藤茂樹 編『現代日本美術全集5 小林古径』1971.12.25, 集英社
図録『巨匠が描いた 日本画のなかの女性展図録』1975, 朝日新聞社東京本社企画部
図録『巨匠の素描展──御舟と古径──』1977.4, 山種美術館
図録『開館10周年記念 近代日本画三巨匠展 小林古径・安田靫彦・前田青邨』1978.10.1, 広島県立美術館
吉村貞司「線に日本画の本質を求める」『三彩』No.408, pp.23-24, 1981.9.1, 三彩新社
『小林古径画集』(著作権者:松井昌)1982.3.30, 朝日新聞社
図録『小林古径・安田靫彦・前田青邨 巨匠三人展』1982.6, 高島屋東京店美術部
図録『生誕100年記念 小林古径展・図録』1984.5, 京都新聞社
河北倫明 監修・草薙奈津子 責任編集『週間アーティスト・ジャパン 小林古径』第34号, 1992.10.13, 同朋舎出版
図録『小林古径展』2005, 日本経済新聞社
Webサイト:『近代日本画の名匠 小林古径展』2005(http://www.momat.go.jp/Honkan/Kokei/)東京国立近代美術館, 2012.5.10
笹川修一「[特集]近代日本画の名匠─小林古径〔小林古径展〕によせて──小林古径記念美術館からの発信」『現代の眼』No.552, pp.2-4, 2005.6.1, 東京国立近代美術館
尾崎正明「近代日本画の最高峰 古径が今に伝えるもの」『美術の窓』No.268, p.54-p.60, 2005.6.20, 生活の友社
古田亮・中村麗子「小林古径の落款、印章について」『東京国立近代美術館研究紀要』第10号, pp.5-32, 2005.12.28, 東京国立近代美術館
図録『いのちを線に描く──日本画家 小林古径』2009.1.5, 佐野美術館
高階秀爾 監修『「美人画」の系譜──心で感じる「日本絵画」の見方』2011.11.20, 小学館
笹川修一「小林古径の生涯 美しい描線と清廉な色彩」『花美術館』Vol.24, pp.8-25, 2012.2.20, 花美術館
笹川修一「小林古径を育てた二人──梶田半古と原三溪」『花美術館』Vol.24, pp.26-31, 2012.2.20, 花美術館
市川高子「小林古径と欧州留学」『花美術館』Vol.24, pp.32-39, 2012.2.20, 花美術館
市川高子「素描の魅力」『花美術館』Vol.24, pp.43-45, 2012.2.20, 花美術館
Webサイト:「永青文庫コレクションの主な収蔵品[重要文化財 髪]」(http://www.museum.pref.kumamoto.jp/eiseibunko/tenjihin.html#pht07)熊本県立美術館, 2012.5.10

2012年05月

  • 小林古径《髪》──静寂と拮抗する品格「笹川修一」