アート・アーカイブ探求
丸田恭子《マイナスの質量》──空間が生動している「谷川 渥」
影山幸一
2012年06月15日号
抽象美術の可能性
初めて会った美学者は思いのほかフレンドリーな方だった。戦後の1948年、東京に生まれた谷川氏は、鉱物学者の父親のもと雑誌『ナショナルジオグラフィック』や『航空情報』などを読んでパイロットに憧れていた。高校生のとき身体を壊して世界観が変わり、東京大学文学部を受験することにした。精神病理学が好きだったので転部を考えて迷ったが、結局関心のある芸術を実践面からではなく、純粋な思考によって思弁的に語ることのできる美学芸術学科へ入った。1978年同大学大学院美学芸術学専攻博士課程を修了し、文学部の助手や他大学の非常勤講師を経て、1989年國學院大学に就職した。しかし、当時の哲学科には美学を専任する人が誰もおらず、新設された美学芸術学コースを谷川氏ひとりで担当していくことになった。
丸田の作品との出会いは、20年くらい前、東京・銀座かその周辺の画廊で見たのが最初だと谷川氏は言う。総合月刊誌『中央公論』の「表層の冒険」というシリーズで、表紙の裏に美術作品を載せてエッセーを書いていた谷川氏。「抽象」という問題にこだわっており、20世紀美術の特徴はひとことで言えば「抽象」だと言う。「表層の冒険」とは「抽象の美術」を指し、「抽象美術の可能性」というのはどういう形でありうるか。そのときに丸田の作品も取り上げた。
「初期の頃の丸田さんの作品は、僕の言葉で言えば、背景の“地”があって、“図”であるところの螺旋の形象があって、それを取り囲むように、空間の奥行きを持たせるように黄色い四角い枠みたいな矩形がくっつけてあった。そうすると遠近法的になる。僕はこういうやり方をしていたら心配だと思っていたら、いつの間にか矩形が消えてよくなった。《マイナスの質量》はこうして出てきた」と谷川氏は述べた。
薬剤師の現代美術家
丸田恭子は、1955年長野県に生まれ、現在も長野県で制作を続けている。薬剤師の資格を持つ特異な経歴の美術家である。「薬は人類の歴史と共に、自然界からあるいは人工的に造られることによりずっと使用されてきた。薬はその症状の程度により慎重にその分量を見極めなければならないが、わずかな違いで死に至る危険を伴う。しかし、その適正範囲(中間領域)においては見事にその効力を発揮し、人体と薬の力強い対話が行われる。何が現実かいなかわからない不安感いっぱいの範疇に身を置かれることもある一方、ある領域においては安心感に包まれ、まるで人間社会の縮図がそこにあるようにも思えるのである」と丸田は2009年にコメントを残している(丸田恭子Webサイトより)。
明治薬科大学卒業後に渡米し、Cy TwomblyやGeorgia O’Keeffe、James Rosenquist、Jackson Pollock、Robert Rauschenberg、Mark Rothko、国吉康雄などが教え、あるいは学ぶために通ったというThe Art Students League of New Yorkで絵画を2年間学んだ丸田。1875年設立の伝統ある美術学校に支えられ独自の美術家スタイルを築いている。「現代美術作家です。キーワード:螺旋 波動 矛盾 循環 浸透 ダイナミズム。作品の可能性はもちろん、社会との関わり方の可能性も模索中です」。丸田のTwitterに書かれている自己紹介文である。絵画を描いていながら自らを画家と呼ばず、現代美術作家と呼ぶ。絵画と関係する空間領域まで責任を持つという意志の表われなのだろう。薬学出身の理系的な感性が鼓動する自然エネルギーをとらえようとしている。
【マイナスの質量の見方】
(1)モチーフ
渦巻。
(2)構成
陰と陽、静と動、白と黒、点と線など、対極をひとつの画面に組み合わせた構成。
(3)構図
回転している螺旋を横に倒した構図。画面を立てると竜巻になるが、横にすることで抽象度を増している。
(4)サイズ
縦198cm×横398cm。3枚のキャンバスをひとつに合わせている。これは三連祭壇画というキリスト教の形式でもある。
(5)画材
アクリル、エナメル、木炭、キャンバス。エナメルの張りのある線と、木炭のデリケートな線が共振しつつも、ほつれた糸のように交錯している。
(6)色彩
メタリックな輝きでありながら、モノクロームの静謐な色彩。
(7)技法
大胆にして繊細、緩急の制御を活かしたドローイング技法を用いている。丸田による制作方法「まずは紙にドローイングをし、内から出てくる形を具現化。キャンバスを床に置き、角材を橋げたのようなものの上にのせ、そこを足場にして縦横無尽に筆、パレットナイフなどを使い絵具を定着。時にはキャンバスを上下させ薄溶き絵具を交差させたりもする。時々キャンバスを壁に立て掛けて全体を把握、確認。また床に置き、先ほどの作業で足したり、引いたりの繰り返しにより全体が呼吸するように構築する」。
(8)タイトル
マイナスの質量(Minus Mass)。生成するエネルギーが重さにつながらないということか、自由度の高い題名。
(9)表現内容
左側から右側の空間の中に、ある種のエネルギーが渦巻いている。単純な渦巻の内側にポロック風に絵具をしたたらせ、背景の「地」と螺旋の「図」に対する第三の媒介的要素を加えて、空間の広がりや深み、質感を増している。爆発的に成長する始原の生命体を写した一瞬のようでもある。身体の動きがつくり出した予測不可能な線と、クールで硬質な光とが渾融した不思議な印象。大きな作品だが、こういう形象を描くと素人っぽい作品という人がいる。しかし垂直の壁に掛けると作品としての強度が足りない多くの日本人の絵画作品のなかで、この作品は素晴らしい存在感を持っている。特に無機的なビルの垂直の壁が合う。生き生きとした空間をつくろうというのが、丸田の根本的な制作動機だろうが、それで気が付いたのが螺旋的な形象なのだろう。“空間が生動している”ということだ。初期の「陰陽」から「螺旋」、「浸透」と変容していった丸田恭子。「螺旋」時代の頂点を成す作品である。