2021年07月15日号
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アート・アーカイブ探求

鈴木春信《雪中相合傘》カラリストの白と紙──「田辺昌子」

影山幸一

2013年08月15日号

じわーっとくる絵

 現在、田辺氏は展覧会「江戸の面影──浮世絵は何を描いてきたのか」(2014年1月25日から3月2日まで)に向けて準備を進めていた。浮世絵に描かれた事象を、来館者に意識的な視点を与えて絵を理解してもらうことを目的とした内容で、江戸から明治初期までの優れた浮世絵約200点で構成するという。
 子どもの頃から絵を描くのが好きだったという東京生まれの田辺氏は、高校時代は美術部へ入部し、油絵を描いて洋画実技の道へ進もうと思っていた。しかし、才能がないことを自覚して、美術史学を選択したと笑う。大学が決まり時間に余裕ができたとき、東京・原宿の太田記念美術館へ浮世絵を見に行った。浮世絵版画を見るのは初めての経験だったが、そこで見た北斎はなんともフレッシュな感覚で、日本美術に関心を持つ動機となった。
 大学生活に慣れた頃、東京国立博物館から江戸の絵画を専門とする小林忠先生が学習院大学へ移って来られ講義を受けるようになり、卒業論文は鈴木春信を選んだ。リッカー美術館(現在は平木浮世絵美術館)にも足を運ぶようになり、佐藤光信館長や館員の方にいろいろ教えていただくようになる。春信は「強烈な印象でもなく、なんとも言えない繊細で華奢な感じが新鮮、しみじみとそこはかとなく、じわーっとくる感じで好きになった」、と田辺氏。「鈴木春信研究─祐信絵本からの図柄借用」と題した卒論を準備する中で初めてよく勉強をするようになり、一方で多くの学生と同様に民間企業への就職活動に入ったが、当時女子学生に求められることはどの企業でも同じであり、やる気をアピールする能力にも欠け、当然の結果として落ちたと言う。人並みに落ち込んでいる中で、小林先生が「大学院を受けてみたら」と、“なぜか”声を掛けてくれてエントリーし、大学院へ進むことになった。
 その後卒論の延長で春信の修士論文「鈴木春信の図柄借用──見立の趣向としての再評価」を書いた。最初に学芸員として働き始めた永青文庫に浮世絵の所蔵はなく、いつか浮世絵と関わりのある美術館で働きたいと願っていたが、1991年からは千葉市美術館開設準備室学芸員を経て、現在に至っている。

錦絵の誕生

 残されている資料が少ない鈴木春信は、謎に包まれている浮世絵師である。1725(享保10)年頃に生まれ、江戸っ子で現在のJR神田駅辺りである神田白壁町の家主だったようだ。姓は穂積、後に鈴木を名乗る。通称次郎兵衛または次兵衛。長栄軒、思古人とも号した。1760(宝暦10)年頃、細判の3色程度の色版による紅摺絵(べにずりえ)の役者絵でデビュー。1770(明和7)年人気絶頂の中40歳余(一説では46歳)で没し、絵師としては10年間の短い人生だった。
 春信は、鳥居清満(1735-1785)ら、前の時代の江戸浮世絵師の流れを汲み、関西の浮世絵師・西川祐信(すけのぶ, 1671-1750)の構図を学び、市場の要請に応えた春信スタイルを築いていった。
 明和期(1764-1772)の初め、裕福な趣味人の間で絵暦(えごよみ)★1の交換会が大流行した。この絵暦ブームを先導した人物のひとり、1,600石の旗本大久保甚四郎(俳名:巨川〔きょせん〕)は主に春信に作画を依頼していた。より色彩豊かで豪華な絵暦を求めるところから、木版画技法が発達し、1765年頃に錦絵の技法が生まれた。
 春信は、錦絵創始期の第一人者として知られる。絵の主題に高尚な見立絵(みたてえ)★2が多く、享受者の中心は、教養のある裕福な層であったと思われる。また絵具も高品質なものにこだわり、赤は、紅花から精製される色料で、本紅(ほんべに)とも呼ばれる紅花の黄色分を抜いた最高級の紅、黄は日本では採れない東南アジア原産でガンボージ樹脂が原料の高価な藤黄(とうおう)、青は退色しやすく今日確認することが難しい露草などを用い、紙は最高級の奉書紙(ほうしょがみ)を使用、優れた彫師や摺師が腕をふるい、春信の錦絵は高価な版画商品として流通していった。《雪中相合傘》もこうして完成した。多色摺りの木版画である錦絵は、錦のように美しい絵の意で、江戸の名物として吾妻錦絵、あるいは東錦絵の名で親しまれた。

★1──江戸時代、毎年変化する陰暦の大小の月(大の月は30日、小は29日)を絵によって描き示した浮世絵版画。好事家たちが私的に制作した一種の絵入りカレンダーで、その趣向を楽しみ、優劣を競うための交換会が盛んに行なわれた。
★2──和漢の古典物語や故事を、江戸時代当時の風俗に置き換えて描くという一種のパロディー的趣向をもった作品群。鑑賞者はその原典を当てたり、置き換えの機知に感心したりして作品を楽しむ。

美人画の指標

 《雪中相合傘》が制作された翌年、1768(明和5)年頃から、錦絵は徐々に大衆に向け普及していく。江戸で評判の町娘や吉原の遊女、また江戸名所など、江戸に実在の題材を作品に多く取り込んだ。笠森稲荷の水茶屋鍵屋のお仙や浅草奥山(おくやま)の楊枝店本柳屋のお藤という当時評判の美人を描く作品は大ヒット。薄利多売の採算のなかで、絵具や紙などの材料も精査され、流通も整備され、安価に、早く、多量に販売していった。生来色彩感覚に優れていた春信は、合理性も備え、経済的に画材を工夫しつつ、優雅で詩情豊かな世界をつくり時代の寵児となった。
 春信没後、磯田湖龍斎(1735-1790?)ら、春信にならう絵師たちは多く、春信は次世代の浮世絵美人画の指標となった。鈴木春重こと司馬江漢(1747-1818)は、春信画の偽作を描いたことを自著の『春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)』に告白しており、春信人気が没後も続いていたことを思わせる。

  • 鈴木春信《雪中相合傘》カラリストの白と紙──「田辺昌子」

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