アート・アーカイブ探求
長谷川利行《少女》──透明な実在感「尾﨑眞人」
影山幸一
2014年02月15日号
対象美術館
物を見る力
倉庫から息を切らしてやって来た尾﨑氏は、7月から開催される「バルテュス展」(2014.7.5〜9.7)の準備など多忙の様子だった。1908年パリ生まれの画家バルテュスの描く少女や風景画は、利行と同じモチーフが多いが、そのとらえ方は利行とは正反対のようにエロスとストーリーがある。
1952年栃木県茂木町に生まれた尾﨑氏は、1983年早稲田大学大学院文学研究科芸術学を修了後、板橋区立美術館の学芸員として20年間勤務し、平塚市美術館学芸員を経て、2004年より京都市美術館の学芸業務に従事している。中学、高校と美術部に籍を置いていたが、子どもの頃から新聞記者に憧れ、そのために物を見る力をつけようと考えた、と尾﨑氏。大学でのユニークな授業が徐々に美術を面白くさせていった。その日本美術史の授業では、佐々木剛三先生がいままで見たことのない作品のスライドを持ってきて、生徒に預けた。生徒は与えられたスライドに写された作品が本物かどうかを調査し、次の授業で順番に発表していったと言う。6割は模写や贋作だったが、作品一つひとつへアプローチしていく美術史の楽しさと学芸員の仕事を体験した。卒業論文は雲谷等益の《西湖図》について書いた。板橋区立美術館ではアヴァンギャルド、平塚市美術館は地元湘南の作家たち、京都市美術館では京都画壇と、尾﨑氏が扱う分野は幅広い。
対象物のエネルギー
利行の作品の第一印象は「きらきらしたガラクタの楽しさだった」と尾﨑氏は言う。利行のもっている無邪気さや、てらいのなさを感じ、その後“自我”がまったく見えない利行の作品を見ていくうちに、自己の人生を何ものにも染めなかった利行を思うようになった。利行は、対象物のなかに自己を同化させ、その対象物の持つエネルギーをキャンバスに表現するという創作態度を備えていったのではないかと言う。
1988年に板橋区立美術館で開催された尾﨑氏企画の展覧会「東京の落書き1930's 展─長谷川利行と小熊秀雄の時代」のときに初めて尾﨑氏は《少女》を見た。「数ある女性像のなかでも最も透明感がある絵で、作品として意識的に描いた絵だと思った。多くの作品は、男性の視線と対峙する意味の“少女”という記号を作りあげるが、利行は世の中の男性の欲望や視線を、キャンバスに張り付けて少女を浮かびあがらせることなどまったく考えていない。そこまで自分の創作意志や立ち位置という自我のことをなくして描ける作家はいないのではないかという気がしている」。
「生きることは絵を描くことに価するか」
長谷川利行は、警察署に勤務する父の利其(としその)と母テルの三男として、1891(明治24)年京都市の山科に生まれた。中学を中退後の十年ほどは不明な点が多く、結婚していたという説もある。俳号をもつ父親の影響か、はじめは歌や小説で自立を考えていたようだ。利行が画壇デビューをはたしたのは32歳と遅い。関東大震災のあった1923(大正12)年から積極的に公募展へ応募している。靉光、里見勝蔵、麻生三郎、寺田政明ら画家との交流が始まり、やがて二科展で入選、樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞する。しかし二科会では、フランスに留学しマティスに学んだ正宗得三郎(1883-1962)ただひとりが利行の絵を認めたが、利行は会員にも会友にもなれなかった。徐々に酒に溺れ、知人から借金をし、日暮里や千住の簡易宿泊所を転々とし利行の生活は荒れ果てていったが、利行は絵を捨てなかった。猥雑で混沌とした東京を素材に、なぐりつけるような調子で荒々しく絵具をキャンバスに叩きつけ、独自の画風を生み出していった。
ボロを着て、風呂に入らないために臭った浮浪者同然の利行は「絵画のみで存在するとなると、外部の現実との接触を失ひ、超精神的となり無意味になる」(長谷川利行「肉と骨盤」図録『歿後60年 長谷川利行展(序 酒井忠康)』p.7)と現代でも通用することを述べ、「絵を描くことは、生きることに値すると云ふ人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか」(長谷川利行「ある感想」『三重県立美術館(長谷川利行年譜)』Webサイト)と執拗に自問した。また自作を「新絵画」と自尊する一方で「絵などクソみたいだ」と言い捨てもした。ある時タクシーに轢かれ入院したが、医者の引き止めるのも聞かずに逃亡した。似顔絵かきに二十銭で描かせた自分の似顔絵を三円で質入れをしたり、古道具屋で買った油絵に手を入れて自分のサインを入れて売ったりもした。利行を寵愛していた父の死にも故郷へは帰らなかった。
破滅型であったがモデルなどに優しく繊細な面もあった利行は、1940年三河島駅付近の路上で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容され、10月12日誰の看取りもなく胃癌で死去。遺品はすべて焼却された。享年49歳。利行の遺骨は新宿・天城画廊の天城俊彦(本名:高崎正男)が引き取り保管、30年を経て遺族の元へ帰った。京都市伏見区の法華宗妙教寺に長谷川家の墓がある。