アート・アーカイブ探求
作者不明《普賢菩薩像》ピュアな厳飾美──「有賀祥隆」
影山幸一
2015年02月15日号
対象美術館
“しる”ことは“みる”こと
その仏画は突然現われた。初めて見た絵ではないことは確かなのだが、信仰心の薄い者にとっては、宗教画は門外漢と決めつけて、見てもよく知ろうとは思わず、立ち入ることは畏れ多い画像であった。しかし、昨年(2014)の展覧会「日本国宝展」の薄暗い展示場の一角にキラッとした光を感じ引き寄せられた。暗さに目が慣れてくると、茶褐色の画面には優しくもさまざまな色彩が浮かび上がり、極細の金線はキラキラと輝きを増した。信義に反するかもしれないが、繊細でありながら力強い高級ブランドのスカーフを思い出した。これが平安仏画というものか、とその時空を超えた工芸的な精緻さと調和のとれた色彩感覚に普遍的な美しさを実感した。見ようと思って見たのでは味わえない、不意を突くような国宝《普賢菩薩像》(東京国立博物館蔵)との出会いだった。
仏画を“しる”ことは、よく“みる”ことだという『仏画の鑑賞基礎知識』(至文堂)という本をその後手にし、仏画も“みる”でよいのかと気が楽になった。仏画は、宗教や制作時代などの背景を知らずに鑑賞するものではないとさえ思っていたため、既成概念の破壊ともなって、鑑賞の自由度が広がった意味は大きかった。この本の著者である有賀祥隆氏(以下、有賀氏)に話を伺ってみたいと思った。
「紺丹緑紫」と時代の色彩
有賀氏は、現在東北大学名誉教授・東京藝術大学客員教授を務めておられた。平安仏画、桃山障壁画、琳派装飾画など、日本絵画史を専門とし、日本の古画を調査研究してこられ、『日本の美術(法華経絵)』No.269(至文堂)など、仏画に関する著書も多い。有賀氏が籍を置く上野の東京藝術大学(以下、藝大)保存修復日本画研究室へ向かった。
藝大では「第63回 東京藝術大学卒業・修了作品展」を開催しており、寒さのなかではあったが華やいでいた。研究室で待っていると、有賀氏は《普賢菩薩像》の資料一式が入っていると思われる、紙封筒を携えて隣の椅子の上にばさっと置き、中身の資料を取り出した。薄くて柔らかい紙には、作品を調査したときのメモやイラストなどが、びっしりと丁寧に書かれており、有賀氏は作品を思い出すように語り始めた。
「12世紀仏画のなかでも《普賢菩薩像》に匹敵するのは、国宝《十二天像》(京都国立博物館蔵)だが、《普賢菩薩像》は不純物の少ない顔料のため、変色せずに色がよく残っている。またその色の組み合わせは、彩色の基本とされた「紺丹緑紫(こんたんりょくし)」 の法則に従いながら、受容する側の感性も取り入れており、この時代の色彩感覚が優れていたのがわかる」と述べた。
仏画に接する
有賀氏は、1940年岐阜県土岐市に生まれた。絵や美術に特別な関心があったわけではないが、家にあった『国際写真情報』(国際情報社)という雑誌のなかに、日本・西洋の絵画の色刷りページがあり、それを見ていたことを覚えている、と有賀氏。東北大学の「東洋芸術史」という珍しい学科に引かれて大学へ入学。卒論は、江戸時代の渡辺崋山の画論について書いた。卒業後、大学の助手を経て、文化財保護委員会事務局(現・文化庁)に文部技官として就職。当初は近世絵画を担当していたが、その後仏画を任され国宝・重要文化財の指定調査、修理監督、買取りなど、仏画に接する機会が多くなり、仏画への興味も湧いてきた。そして12年余り在職した文化庁から奈良国立博物館へ異動となり、博物館事業に携わることになった。「特別展 平安仏画──日本美の創成」(1986)を企画担当し、8年ほどして再び文化庁に戻り、3年後には母校の東北大学で教鞭を執ることとなる。大学に14年間勤め、そして退官後は、東京藝術大学の日本画研究室に所属し、古典絵画の現状模写や想定復元模写を、美術史の観点からアドバイスしている。
長年仏画を対象に仕事をしてきたせいか仏画も仏像も美術愛好家のように見ることはできず、いつも仕事の目で見てしまうという有賀氏だが、「人と接する時は春風の如く、自分を律する時は秋霜(しゅうそう)の如く」と学生たちに語るそうだ。《普賢菩薩像》を初めて見たときの第一印象を伺ってみると、「素晴らしい仕事だと思った記憶がある」と即答された。
日本絵画の精髄
普賢菩薩は、文殊菩薩と共に、元来は釈迦如来の脇侍(きょうじ)仏であった。智の文殊菩薩に対して、行の菩薩が普賢菩薩である。『法華経』第二八「普賢菩薩勧発品(かんぼつほん)」と法華経の結経である『観普賢菩薩行法経(ぎょうほうきょう)(観普賢経)』とを所依(しょえ)として描かれたのが《普賢菩薩像》だ。法華経をとなえる信仰者を守護するために、東方浄妙国土(とうほうじょうみょうこくど)から六牙(ろくげ)の白象に乗って普賢菩薩が出現することが説かれており、信仰者に厚く信仰された。特に法華経は「すべての人が仏に成れる」と女人成仏が経説にあることから、細身で美しい夢幻的な菩薩像がつくられ、念持仏的な信仰者の一尊として祀られた。
インドで成立した法華経は、中国においてたびたび漢訳され、日本には飛鳥時代(6世紀末〜7世紀前半)に伝えられた。806(延暦25)年、最澄(767-822)によって比叡山に日本天台宗が開かれると、『法華経』を経典とする法華経信仰が広まり、812(弘仁3)年には東塔法華堂(法華三昧堂)の本尊として普賢菩薩像が造顕(ぞうけん)された。真理に到達するための修行である法華三昧の本尊として、藤原氏貴族をはじめ、皇后や妃が住む後宮(こきゅう)でも法華堂を競って建立し、普賢菩薩像を安置したとされる。
政権の中心が、平安京に置かれていた約400年間(794〜1185?)のうち平安時代の後期と、院政時代の美術を王朝美術と呼ぶように、10世紀後半から12世紀末は、雅な宮廷文化が華やかに形づくられた。貴族的な造形は、院政時代になると、さらに耽美的な方向に進み、工芸的手法を進展させた。優美な色彩、繊細な描写、美麗の造形世界を形成していくのである。
なかでも截金(きりかね)の秀麗な美しさや彩色の織りなす装飾は、幻想的な趣きを添えた。
截金とは「金・銀・銅・錫の箔または薄板を線状または三角・四角などに細かく切り、これを貼付して種々の文様を施す技法。主として仏画・仏像[絵画・彫刻とも]の彩色に用い、また蒔絵(まきえ)中にも置く、螺鈿(らでん)に似るので金貝(かながい)ともいう」と広辞苑にある。截金は主に線として使用し、薄い金箔を重ねてつくるらしいが、直線の場合は6枚合わせ、曲線の場合は5枚合わせと微妙な加減が表現を左右する。
平安仏画は日本絵画の精髄であり、理想の古典と呼ばれ、横山大観や小林古径らも模写に励んだという。日本美術が目指すひとつの方向が示されている。
【普賢菩薩像の見方】
(1)タイトル
普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)。普賢菩薩来儀(らいぎ)図、あるいは普賢菩薩影向(ようごう)図ともいう。英名:Fugen Bosatsu(Samanta-bhadra)。「普賢」はサンスクリット語のサマンタ・バドラを漢訳したもので、遍吉(へんきつ)菩薩と訳すこともある。
(2)モチーフ
菩薩と白象。菩薩の優麗な形態が、国宝《十二天像》(大治2[1127]年, 京都国立博物館蔵)のうち「水天像」の右脇侍(きょうじ)に近似している。
(3)サイズ
縦159.1×横74.5cm。
(4)構図
菩薩が画面向かって右(東)から進行し、また天からは散華(さんげ)
が降る動きのある構図。縦長画面の上部には、唐草模様の一種の宝相華(ほうそうげ)の華蓋(かがい)が配されている。(5)色
白(鉛白)、黒(墨)、茶(朱土)、紫(朱と群青の混色)、黄(黄土)、青(群青)、緑(緑青)、赤(朱、丹)に、金や銀など、惜しみなく多様な色を用いた。暈繝(うんげん)
彩色を施し、「紺丹緑紫」という青と赤、緑と紫という2種の色系の組み合わせが定型。微妙な色は白や墨を混ぜ、具色(中間色)を用い、透明感を漂わせている。菩薩の肉身には白色を厚く塗り、淡い朱色で微量の暈(くま) を施す。バルール(色彩の色相・明度・彩度の相関関係)のお手本のように色のバランスがいい。特に白・緑・金の組み合わせは高貴さを増す。(6)画材
絹本着色。一幅。絹本は横糸の太い稠密(ちゅうみつ)な絹で、画絹を横に3枚つないだ三副(ぷく)一鋪(ぽ)である。金箔、銀泥。不純物の少ない良質な顔料。
(7)技法
地模様に精緻な截金文様を置き、浮き出し模様として彩色を施す「地文(ぢもん)截金、主文(しゅもん)彩色」。流麗な線描の肉身表現は、従来の朱線でなく淡墨を用い、また極細線を使いながらも太さを調整、立体感を出すなど、北宋仏画の特質を備えている国宝《孔雀明王像》(仁和寺蔵)との共通点がある。着衣の衣紋線は、ほとんど截金線で表わされており、国宝《五大尊像》(東寺蔵)の截金文様との類似点も見られる。
(8)落款
作者不明。制作者は仏師ではなく、截金と彩色をひとりで施す画所(えどころ)
絵師の可能性がある。(9)制作年
平安時代、12世紀中頃。およそ1130年から1160年頃(鳥羽院政期)と推定されている。
(10)鑑賞のポイント
善美を尽くした截金と彩色の組み合わせは、中国には存在せず、最も日本的な柔らかな文様表現であり、平安時代後期における天台法華仏画の頂点を示す最高傑作と目される。国宝。
截金と彩色
《普賢菩薩像》は、普賢菩薩が六つの牙を持った白象に乗り、向かって右から左へ進んできた様子だが、画面右下は東にあたり、普賢が東方浄妙国土から来たことを意味している。阿弥陀来迎(らいごう)図が画面の左上から右下への構図で描かれるのは、画面左上を西方極楽浄土とみなすためである。菩薩の後には二重円相光背(こうはい)
象は鼻先に未敷蓮華(みふれんげ)の茎を巻き、後方を振り返る。その頭上の蓮台の上には半裸の三化人(さんけにん) が舞い(図1)、胸繋(むながい) ・尻繋(しりがい) から瓔珞(ようらく) を垂らす(図2)。
菩薩は髻(もとどり) の正面に五仏宝冠(ごぶつほうかん) を戴き、両耳上で結んだ冠繒(かんぞう) を長く垂らす。伏目がちな顔、眉は緑青線に濃墨線を重ねて二層とし、目は上眼瞼を濃墨で、下眼瞼は淡墨線で引く。虹彩を青色で塗り、瞳孔を墨で点じ、目の縁には緑青の暈をさす。慎ましやかに合掌し、思念の想をなし、その表情は妖艶でさえある。上半身には条帛(じょうはく) を、両肩には透き通った天衣(てんね) をかける。裙(くん) と腰布を付け、裾は蓮華座(れんげざ) にかけている(図3)。着衣の各部や象の背の障泥(あおり) (図4)などには、卍つなぎ、七宝つなぎ、蓮華唐草文などの細緻な截金文様で厳飾(ごんしょく) する。その描写筆致は繊細巧緻(こうち) 、画致(がち) は優美高尚で、《普賢菩薩像》の制作には貴紳(きしん) 、おそらく高貴な女性の熱烈な法華信仰者が関わっていたことが想起される。
超高精細デジタル画像で再確認
《普賢菩薩像》についての研究会が2014年12月9日に東京文化財研究所であったそうだ。東京文化財研究所企画情報部と東京国立博物館との共同調査「国立博物館蔵 国宝・普賢菩薩像の表現─附論 仏画における『荘厳』」(Research on the artistic technique of Japanese Heian Buddhist paintings by digital image information)と題された《普賢菩薩像》の研究会では、文化財写真撮影のスペシャリスト城野誠治氏による超高精細デジタル写真画像を見ながら、小林達朗主任研究員が発表されたそうだ。目視では観察の難しい作品の微細な構造を細部にわたって探った。主に截金と彩色について、気が付いていないところを再確認したという。その画像から確認された点は、截金と彩色についての4点であった。①截金の線、②截金と彩色の方法、③背景の色、④照暈(てりぐま)(ハイライト)技法である。
①の截金の線とは、截金文様の斜めの対角線に刻線(こくせん)が確認された。大まかに位置を決めるアタリの線と思われるが、通常の截金はそういうことはしない。目視で確認できない刻線がどうしてあるのか、截金の凹んだ斜め線が謎である。②の截金と彩色の方法は、鞍帯(くらおび)の截金の部分。これも目視ではわからないが、截金の上から彩色を施している。どうしてそういうことをしたのかわからない。③背景の色は、目視でも見えるが背景は全面的に群青だと確認された。高価な画材のため通常はこういう使い方はしない。④照暈技法は、光が対象物にあたり光っている部分に白色のハイライトを描き加えるが、《普賢菩薩像》では最初に白色を塗り、ほかの色をその上から描き加える方法でハイライトを表わしていた。
「截金にしろ、色にしろ、ただ綺麗というだけではなく、こういう仏画はほかにないと思う」と、有賀氏。《普賢菩薩像》の色に対する優れた感覚は、桃山、江戸時代前期と長く継承され、日本人にとって色彩美の源流となっている。
有賀祥隆(ありが・よしたか)
作者不明
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献