アート・アーカイブ探求
土田麦僊《舞妓林泉》──近代日本画における人工美「中村麗子」
影山幸一
2015年05月15日号
対象美術館
黄緑色の奇妙な絵
新緑ですがすがしい季節の到来に、遠い昔の少年期に収集していた切手を思い出す。郵便切手の中央に座る舞妓の白い顔、華やかな振袖や帯に白、朱、青、黄、緑と鮮やかな装飾を施してあったが、舞妓の表情は曖昧で空虚だ。それはきれいな舞妓さんではなく、違和感のある奇妙な黄緑色の絵として心に残っていた。大人になりその切手となった絵が土田麦僊(ばくせん)の《舞妓林泉(ぶぎりんせん)》(東京国立近代美術館蔵)であることを知った。舞妓を「ぶぎ」と読ませること、切手ではカットされていた上部に庭園が描かれていることを知り、また戸惑った。
細部まで点描画のように丹念に描き込まれている庭園であるが、猫の頭か、キャラクターの頭部に見える。舞妓の足元に目を移すと、かまぼこ板のような素っ気ない下駄を履いている。それらは麦僊独自のユーモアかと思えば、足元の四角い敷石から始まる形の連鎖は、四角い下駄、三角形の扇子、丸い舞妓の顔へと、着物の意匠と配置を上手に連ねて視線を下から上へと導いている。舞妓と庭園の対比が強調されるように池と空は溶け合った青一色の背景である。完成度の高い作品とは思うが、枯淡の美とは正反対の過剰な装飾。なんとも不思議な絵なのだ。
この作品について「麦僊の庭──土田麦僊《舞妓林泉》について」(『現代の眼』No.543)の著者であり、作品を所蔵する東京国立近代美術館の主任研究員である中村麗子氏(以下、中村氏)に、話を伺ってみたいと思った。北の丸公園内に建つ日本で最初の国立美術館、東近美(トーキンビ)本館へ向かった。
「タペストリーみたい」
皇居を廻らすお濠や、緑の木々からのそよ風を感じる東近美では、中村氏が企画担当した「片岡球子展」が始まっていた。ウィークデーにもかかわらず多くのシニアが美術館へ入って行った。中村氏は2003年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を中退し、同年に東近美の研究員となった。近代日本美術史を専門とし、土田麦僊の師である竹内栖鳳(せいほう, 1864-1942)の回顧展「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」を2年前に企画開催している。子どもの頃から絵は好きで、美術館に行けばじっくり見るタイプだった。だが画家になろうとは思わず、憧れの仕事は変遷し、最初は看護士、また裁縫が好きで中学生の頃はファッションデザイナーになりたいとも、しかし普通高校に入り東大へ、美術史を専攻した。文字や文章だけを追う学問よりも、ビジュアルを対象にして、文字を使いながら読み解いていくのが面白かったと言う。そのなかで学芸員の仕事を知り、求人のあった東近美へ就職した。
大学生時代の中村氏は、幕末の歌川国芳(1797-1861)周辺を研究しようと考えていたという。ところが1997年に東近美で開催されていた「土田麦僊展 日本画の偉才──清雅なる理想美の世界」を何気なく見に行き、《舞妓林泉》と初めて出会った。「背景と人物が噛み合っていない。へんな作品。織物や刺繍のようで、タペストリーみたいと思った」。以来とても気になる作品となり、卒業論文は土田麦僊《舞妓林泉》をテーマに選んだ。そして竹内栖鳳を修士論文に。麦僊を理解するためには、栖鳳のことを研究しておかなければわからない部分も多いと考えたそうだ。
麦僊が描く作品イメージの出所は、西欧絵画のなかにあるなど、麦僊の絵を探求する見方は諸説紛々とあり、卒論の段階ですっきりと答えが出るようなものではなかったという。「“気韻生動”を追究し写生に重きを置いていた師匠の栖鳳や、精神性の表現を追究した横山大観(1868-1958)等と麦僊を比べると、麦僊は現実の世界との整合を無視したなかで、自分の理想の形をつくり上げていった。栖鳳と麦僊の世代の差であり、一線を画す。《舞妓林泉》がそれを示している」と中村氏は述べた。
舞妓といえば麦僊
土田麦僊は、1887(明治20)年新潟県佐渡生まれ。農業を営み村長を務めていた父千代吉と母クラの三男で本名は金二、美学者の杏村(きょうそん, 1891-1934)は弟。子どもの頃から画家に憧れた麦僊だったが、父の勧める僧侶の道をいったんは歩み、16歳で京都の智積院に入るが、画業への思いが募り出奔する。曾我蕭白(1730-1781)の再来と評された鈴木松年(1848-1918)に入門、息子の松僊(しょうせん, 1872-?)に教えを受けたが、新しい日本画創造の趨勢を知り、1904(明治37)年に17歳で竹内栖鳳に改めて入門し、「麦僊」の号を授かった。1908年第2回文部省美術展覧会(文展)に《罰》を出品し、三等賞を受賞。四条派の伝統的写生に西洋絵画の写実性を融合した栖鳳の画風を身に付けた麦僊は、パリからの帰国者や美術雑誌『白樺』などを通して西洋絵画が個性の表明であることを学ぶ。20歳頃には「ドガといえば踊子、舞妓といえば麦僊」と自分自身に言い聞かせ、京都画壇の新進として注目された。
1909年京都市立絵画専門学校の別科に入学し、欧州帰りの美術史家・田中喜作(1885-1945)を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノワール)」や、それを発展させた「仮面会(ル・マスク)」に参加する。1915年祇園の舞妓・大道千代と結婚。ゴーガン(1848-1903)やルノワール(1841-1919)に憧れる一方で、南画家の富岡鉄斎(1836-1924)や清代文人画の石濤(せきとう, 1642-1707)、桃山の障壁画や江戸初期の風俗画、さらには宗・元の院体花鳥画など、あらゆるものを手本とし、自らの信じる独創的な作品を文展で発表した。しかし旧弊な文展はそれを認めず、1918(大正7)年麦僊は、小野竹喬(1889-1979)、榊原紫峰(1887-1971)、村上華岳(1888-1939)らと「国画創作協会」を結成し、自由な創作を展開して画壇を刺激した。
形・色・線
麦僊は、1921(大正10)年10月から一年半、ヨーロッパに遊学し、ルノワールやセザンヌ(1839-1906)らの近代絵画、ベルナルディーノ・ルイーニ(1480?-1532)やフラ・アンジェリコ(1387-1455)といったイタリア・ルネサンスのフレスコ画やテンペラ画などに共鳴する。弟に宛てた手紙に「日本に帰ったら又兵衛と伊太利のルイニを合した様なものを描きたいと思ふ」(『三彩』第307号, p.28)と記している。帰国後初めてとなる1924(大正13)年、第4回国画創作協会展(国展)に《舞妓林泉》を出品。
「若し私の遥に求めてゐる憧憬や、緊密なる構成、自然の持つ最も美しい線、色、或は日本民族に流れてゐる優美等が幾分でも表現されて居れば満足なのです」(『アトリエ』第2第1号, p.127)と、東西両美術の融合といえる構成的な形・明るい色・冷徹な線による絵画を描出した。
麦僊は1927年に仏政府よりレジオン・ド・ヌール・シュバリエ勲章を受章。1928年国画創作協会日本画部を解散、翌年には帝国美術院展覧会(帝展)に《罌粟(けし)》を出品し、活躍の場を移す。1933(昭和8)年朝鮮に滞在して古美術を取材し、《平牀(へいしょう)》を描く。1934(昭和9)年帝国美術院会員に任命され、1936(昭和11)年49歳で逝去した。
【舞妓林泉の見方】
(1)タイトル
舞妓林泉(ぶぎりんせん)。英名:“Maiko”in a Garden。「まいこ」を「ぶぎ」と読ませ、舞妓と林泉とを並置させて絵の重要な二つのファクターであることを表わしている。
(2)モチーフ
舞妓、庭園。
(3)制作年
1924(大正13)年。
(4)画材
絹本彩色。状態は非常によく、修復歴はない。
(5) サイズ
縦217.7×横102.0cm。額一面。大勢の鑑賞者に見せることを前提にした縦長の大きいサイズ。
(6)構図
庭石に腰掛ける舞妓の全身像を手前に、後ろには林泉を描き、縦長の四角い画面に収めた。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の《モナ・リザ》(ルーヴル美術館蔵)との関連が見られる。麦僊は、この作品を描く直前までヨーロッパに行っていたため、西洋絵画の構図を参考にした可能性が高い。しかし、空間のとらえ方は一点透視法ではなく多視点で平面的である。
(7)色彩
多色であるが、補色関係である赤色(朱)と緑色の組み合わせに特徴が見られる。画面全体の配色と色調が計算され調和している。特に緑色は多彩で、平安時代から用いられた伝統ある若草色や萌黄(もえぎ)色、大正時代に流行した若竹色などを考慮した様子が伺える。緑色の使い方や松の描き方に「やまと絵」を感じる人もいるだろう。
(8)技法
肉眼では特別な技法は見られないが、顔や着物などの無機質な輪郭線、まつげや瞳をも描く細密な線描、首には影を差し、また舞妓の背景には無数に打たれた微細な点描が見られる。さらに朱と緑で描かれた舞妓の頭髪に特徴がある。
(9)落款
なし。麦僊は完成した作品には署名と印章を入れているが、本作品の表にも裏にも落款は見当たらない。未完成なのかもしれない。
(10)鑑賞のポイント
極度につくられた庭園とつくられた舞妓。麦僊は舞妓と庭園を自分の感覚に引き付けて、東洋と西洋の美術を融合させ、香気を漂わせる象徴的な日本画を描いた。ヨーロッパから帰国後初めてとなる展覧会である第4回国画創作協会展で発表した麦僊37歳制作の代表作である。麦僊は、当初から風景の中に舞妓を配することを考えていたようで、京都の景観の日本的近代化を推進していた東山一帯の庭園と、舞妓に題材を求めたスケッチが多く残されている。舞妓のモデルとなったのは、祇園舞妓の三栄(さんえ)と鈴江。庭は京都・南禅寺塔頭(たっちゅう)天授庵のものを参考にしている。実際の木々は枝を自由に茂らせており、丸く刈り込んだ感じではないが、松やもみじなど木の種類を忠実に再現し、形は整形して単純化し、画面を様式的な形態につくり込んでいった。これは麦僊の手による造園行為とみることができる。また、顔や着物の輪郭は冷徹とも思える揺らぎのない線で描き、庭園の緑色に対して、舞妓の朱色を補色関係として呼応させるなど、明るい色彩を用いて色を徹底的に整理している。庭園と着物の人工美が一体となり均一に描かれたが、池の縁がいきなり地面になって石が置かれ、そこに舞妓が座っているため、舞妓と背景の処理をしていないなど、空間としては整合性がない。麦僊の盟友小野竹喬は「舞妓林泉圖に見る背景の林泉は、セザニズムと土佐派との實に美しい醇化(じゅんか)であった」(『塔影』第12巻7号, p.14)と述べている。
庭園と日本画の近代性
《舞妓林泉》の背景にある庭園について中村氏は、「麦僊が《舞妓林泉》を制作した頃は、ちょうど明治時代から大正時代にかけて京都・東山周辺が近代化の庭園づくりのシンボリックな場所になった時期で、琵琶湖から京都へ疏水を引く一大開発事業があった。日本庭園の伝統的な型を踏まえた景観を守ろうという京都市においてコントロールされ、その疏水を鉄パイプで引き、個人の邸宅や別荘に新しい感覚を織り込んだ庭がつくられた。その中心的役割を担ったのが植治(うえじ)こと七代目小川治兵衛(1860-1933)。植治は従来の作庭法を批判し、池ではなく小川、苔ではなく芝生を好んで採用し、周囲の自然景観と庭園の景観に連続性を持たせた、明るく豪壮で雄大な庭園づくりを行なった。植治の作庭は、近代化にともなう京都の再開発政策と結びついていた。近代といっても西洋化するのではなく、西洋技術を取り入れながらも自分たちのアイデンティティを活かす“人工の自然”である。代表作に山県有朋(1838-1922)の別荘、無鄰菴庭園や円山公園の新設、平安神宮庭園などがある。数寄者たちの日本文化に対する嗜好に合致し、伝統を意識しつつ脱皮をはかるという都市の近代化の一端を担っていた。麦僊は、こうした近代化の状況を知り《舞妓林泉》を描いた。この庭は南禅寺の天授庵で、新しい感覚でつくられた庭とは異なるが、麦僊は庭を描くにあたりいろいろな庭を巡っており、植治がつくった庭も多くスケッチしている。庭園スケッチは麦僊の造園行為であり、近代日本の数寄精神のなかに身を置きながら、自らの美的感覚を発揮した。日本庭園が持つ文化的社会的近代性と、絵画制作における近代性。不要なものを排除し、理想の美のみを表わすべく画面上でひたすら造形の構成に力を注ぎ、融合させたことで日本画に別の一面を切り開いた」と語った。
郷土佐渡と麦僊
麦僊の出身地新潟では、麦僊をどのように思っているのだろうか。2009年に新潟県立近代美術館で開催された「土田麦僊展」の担当学芸員のひとりであり、現在、新潟県立万代島美術館の主任学芸員である長嶋圭哉氏に、麦僊と郷土との関連や新潟県民の麦僊に寄せる思いを伺ってみた。「新潟では、郷土出身の日本画家として、小林古径(1883-1957)、土田麦僊、横山操(1920-1973)の3名の知名度が高い。古径は院展(東京画壇)、麦僊は国展(京都画壇)、操は戦後日本画の代表的作家。2009年の新潟県立近代美術館における麦僊の回顧展は、全国的には12年ぶり、新潟県内では28年ぶり(前回は1981年、新潟県美術博物館)のことで、展覧会を通して新潟県出身者にすごい人がいたことを発見したとか、麦僊が身近に感じられた、という声が寄せられた。麦僊の出身地に建つ佐渡博物館には、麦僊の下絵等500点が遺族から寄贈され、佐渡の人にとってはより身近に麦僊と接することができ、親しみも深いものと思われる。佐渡島は、歴史的に見れば、多くの知識人が配流され、都の芸術文化が流入した土地で“佐渡は日本の縮図”という見方がある。麦僊は、文化レベルの低い僻地からただ新奇なものを求めて京都に出たというわけではなく、伝統文化に対する理解もそれなりにあり、むしろそこから抜け出そうと新しい芸術表現を希求したのではないか。何でも吸収して自分のものにしてやろうという欲求は、やはり離島出身である麦僊においては、人一倍強かっただろうし、それは東西美術のあらゆる要素を旺盛に学習し、画面の中に混淆させてゆく彼の作風に通じる。几帳面で神経質な画家の気質と佐渡の風土とを結びつけるのはやや性急かもしれないが、儚(はかな)げな白い花を描いた《菊》(個人蔵)、《山茶花》(新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵)など晩年の作品が、仄暗い越後・佐渡の冬を知る新潟県民の心に響く絵画であることは確かである」。
「個性と云ふものは案外小さなもの」
中村氏は、麦僊について「嫌なものは嫌と、ものを言うときははっきりと言うタイプ。そういう意味では京都の人ではないと思う。表に出て外面のいい人ではなかった。真摯でストイックで苦悩しながら自分の形と色を追究する人ではないか」と印象を述べた。
麦僊は「自力よりも他力だ。自然の前に謙譲であり、人生の前に敬虔なる時自分の個性は内に甦る。それが本当の個性だと思ふ」(『土田麦僊─その人と芸術』図録, p.79)と語り、また小野竹喬には、「個性と云ふものは案外小さなものではないか」(『塔影』第12巻7号, p.14)と語ったと言う。普遍的な作品に通じる個性を求めての日本画。麦僊はその日本画に対する回答として、日本画独自の様式を提示したのかもしれない。自然と人工、伝統と近代、日本・中国の古画と西洋絵画を統合して、“伝統の人工美と近代の自然美”に新しい日本画を模索した麦僊。内なる理想美の世界を開き、近代日本画に多大な影響を与えた。
中村麗子(なかむら・れいこ)
土田麦僊(つちだ・ばくせん)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献