アート・アーカイブ探求
歌川国政《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》生々しい構成美──「渡邉 晃」
影山幸一
2015年06月15日号
対象美術館
真横の顔
歌舞伎を知らない人にとっては、その浮世絵が人の顔なのか何なのか、あるいは人の顔であれば誰なのか、理解するまでには多少時間がかかるかもしれない。三角形や直線、曲線などの図形の要素を組み合わせてつくられたような人の横顔が、歌舞伎役者の市川鰕蔵(えびぞう)とわかるのは作品の題名からだ。しかし、歌舞伎を見たことがなくとも、一枚の絵として力強く、興味深いものがあった。
2014年に江戸東京博物館で開催された「大浮世絵展」(国際浮世絵学会創立50周年記念)。抽象絵画を思わせるインパクトのある顔を見て、正面を向くエルビス・プレスリーやマリリン・モンローなど、アンディ・ウォーホル(1928-1987)のシルクスクリーン肖像画を思い浮かべた。この《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》(東京国立博物館蔵)を描いたのは、江戸時代の浮世絵師歌川国政である。
世間から10カ月で姿を消したという東洲斎写楽に比して、国政は現代では知名度は低いが、役者の特徴を表現しつつも芝居要素の構成美に配慮した役者絵を描く絵師なのだ。斬新な真横の顔に国政のいさぎよさを感じる。歌川国政とはどんな絵師なのだろう。
東京・原宿にある浮世絵を専門とする太田記念美術館主幹学芸員の渡邉晃氏(以下、渡邉氏)に話を伺ってみようと思った。渡邉氏は、先述の「大浮世絵展」図録でこの《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》について解説文を著しており、学生時代には「役者大首絵に関する研究」という博士論文を書いている。街路樹の緑が心地よい表参道を通り美術館へ向かった。
豊国・写楽・国政
日本の若いファッションが集結する原宿に、こぢんまりとした美術館はある。観光都市を目指し、オリンピックを控えた東京にとって、日本の文化を知らせるのにふさわしい存在だ。渡邉氏は、次回展覧会「江戸の悪」の展示作業のなか快くインタビューに応えてくれた。1976年東京生まれの渡邉氏は、現代美術的な日本画を母親が描いていたため、子どもの頃からよく展覧会へ行っていたと言う。絵を描くことと、文章を書くことが好きな少年で、高校生時代に職業として学芸員という専門職があることを知った。そして、好きなことができそうな学芸員を目指して1995年筑波大学芸術専門学群に入学、2005年筑波大学大学院博士課程芸術研究科を修了。2007年より太田記念美術館で学芸員を務めている。
浮世絵との出会いは、大学生時代の課題だった。歌川国芳(1797-1861)と歌川広重の風景画、写楽と歌川豊国(1769-1825)について発表し、そのとき初代豊国の大首絵が好きになったのが始まりと言う。豊国はお芝居のいい瞬間を素直に描き、さわやかでさっぱりしていて粋、どこか品があるところがよいという。
「豊国は同時代の写楽とよく比較される。写楽は現在人気があるが、実際江戸時代に人気があったのは豊国で、その人気の陰で写楽は負けてしまったのが事実だ。豊国はいい絵を描いているのに、現代では不当と思えるような扱いを受けるのはなぜなのか、豊国を研究してみたいと思った」と渡邉氏。
そして豊国のことを調べていた大学生時代に、豊国の高弟である国貞(1786-1864)と並ぶ国政の《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》を初めて見た。「国政はすごいと思った。豊国は品がよく、オーソドックスでまとまりがあるが、国政は豊国風のさわやかさを保ちつつ、ちょっと攻めている感じがした。当時の評価も団扇絵などでは、豊国よりも国政の方がうまく、江戸時代の人は国政にも一目置いていた。やっぱり国政は素敵だと思った」と言う。
構成のダイナミズム
浮世絵師は町人のようなもので、生涯の記録がしっかりと残っている人は少ない。歌川国政も不明なところが多く、名は甚助、1773(安永2)年福島県会津に生まれ、江戸に出たと伝わる。別号を一寿斎と号した。紺屋(染物屋)の職人であったが、芝居好きが高じて役者の似顔絵を描くうちに、紺屋の主人と交際のあった初代歌川豊国の門人になったという。
現存する国政の作品は120図ほどと少なく、作画期間は1795(寛政7)年から1799(寛政11)年までの約4年間に集中している。寛政7、8年には版元である上村与兵衛から、また寛政10年から11年前半は鶴屋金助から版行。鳥居派の初代清信(1664-1729)と二代清倍(きよます。生没年不詳)の二人によって創始したといわれる役者絵版画を、国政は画面一杯に大きく描きダイナミックな構成で可能性を拓いた。そして国政は、「三代沢村宗十郎」や「三代瀬川菊之丞の白拍子桜木・三代沢村宗十郎の陀仏坊・三代坂東彦三郎の阿仏坊」などの団扇絵作品も製作し、師豊国も及ばない人気を得た。
世界的な浮世絵研究者のロジャー・S・キーズ(Roger S.Keyes)氏は、「格別に藝術的価値の高いものであり、そのいくつかは日本版画史上最高の傑作のなかに数え入れられている。しかし、率直に言って、国政作品の質にはかなりむらがあり、凡庸としか言いようのないもの、あきれるほど稚拙なものもある」(『浮世絵聚花 9』p.220)と国政作品を評している。
【市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光の見方】
(1)タイトル
市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光(いちかわえびぞうのうすいのあらたろうさだみつ)。英名:Ichikawa Ebizo(Ichikawa Danjuro V)as Usui Sadamitsu in a Shibaraku Role。「市川鰕蔵の暫(しばらく)
」「市川鰕蔵の薄井荒太郎貞光に扮しての暫」「五代目市川團十郎の暫」など、表記はいくつかある。(2)モチーフ
碓井の荒太郎定光を演じる歌舞伎役者五代目市川團十郎
こと、市川鰕蔵(1741-1806)55歳の横顔。この荒事の役柄を表わす筋隈(すじぐま)は、初代市川團十郎が創始者。(3)制作年
1796(寛政8)年。
(4)画材
墨の黒のほか、主に植物系染料が用いられる。紅花の赤、ウコンの黄、露草の淡い青、本藍(ほんあい)の濃い青など。
(5)サイズ
竪(たて)大判。おおよそ縦39cm×横26.5cm、B4サイズに近い大きさ。
(6)構図
鰕蔵の顔を真横からクローズアップ。素襖(すおう)の袖の三升(みます。團十郎の定紋[じょうもん])を手前に大きく配し、その向こうに役者の横顔を描くダイナミックな構図。鬘(かつら)に付ける力紙(ちからがみ)や鬢(びん)の生え際、素襖の袖、いずれもほぼ直線で描かれ、画面を鮮やかに分割している。
(7)色彩
錦絵。黒、白、朱、茶、紺、黄、緑、水色、灰色など多色。
(8)技法
絵師、彫師、摺師の分業によって製作される版画に手彩色を加えている。眉毛など幅が同一の線や、衣装の皴に見られる肥痩(ひそう)のある線など、細い・太いを巧みに使い分けて量感と質感を出している。また顔の輪郭線をはっきりと描かないことによって顔を浮き出させるなど工夫が見られる。初摺は200枚といわれることが多い。
(9)落款
国政画(くにまさえがく)、山善(版元の印)、極(きわめ印)
。(10)鑑賞のポイント
1796(寛政8)年11月に都座で行なわれた顔見世「清和二代遨(おおよせ。「大寄」の表記もある)源氏」の一場面である「暫」を取材している。鰕蔵一世一代の舞台として知られる。明快な直線と曲線によってつくられた大胆な色面構成であり、荒事で勇気・正義・強さを表わす役に使われる赤い筋隈は、装飾的な抽象模様のようだ。高くて大きな鼻の鰕蔵の特徴と、全身に力を入れ、口元を引き締めて見栄をきった一瞬をとらえた。「にらみ」を表現するために、黒目の瞳孔と虹彩を二色で描き分け、白目の端にはうっすらと青く筆で彩色を施し、澄んだ光を放つ白目をより強調した(図参照)。この手法は国政の師である豊国の表現に基づくものであろう。この舞台後、鰕蔵は成田屋七左衛門を名乗り、「をしまるゝ時ちりてこそ世の中の花も花なれ鼻も鼻なれ」と心境を狂歌に託し引退した。当時ブロマイドのように20文(現在の価値で400〜500円)ほどで販売されていた浮世絵版画。デザイン的で近代的な国政の代表作である。
ポップカルチャー歌川派
歌川派は、歌川豊春(1735-1814)を始祖とする江戸後期から明治にかけて浮世絵の最大流派であった。豊春は西洋の銅版画から透視遠近法を学び、浮絵(実景が浮き出して見えるように描いた劇場内部などの絵)を多作し、肉筆美人画にも力を注いだ。この豊春の門人である豊広(?-1829)の系統に広重。同じく豊春の門人豊国の系統に国政、国貞、国芳(1797-1861)、さらに国芳門に月岡芳年(1839-1892)、鏑木清方(1878-1972)、伊東深水(1898-1972)ら、多くの有名絵師を輩出して名所絵や風景画、美人画など、幅広い領域の浮世絵を発表し、一大勢力を誇った。国政は、初代豊国の最初の弟子として名前のランクが高く、二代国政、三代国政が出ている。
渡邉氏は「御用絵師として室町後期から江戸を通じて繁栄した狩野派は、徐々に形式化していったのに対して、歌川派は町人文化から派生し、あらゆる表現領域へ展開を見せた。ある意味ライバルであった葛飾派は、風景画なども手がけたが読本挿絵などの版本や肉筆画が多く、どちらかというと玄人好みを題材にしている。それらに比べ歌川派は、ポップカルチャーとして役者絵や美人画、風景画、武者絵など、時代の風潮を取り入れ、優れた浮世絵版画を市井に提供した」と述べた。現代でも華やぐわが国特有の歌舞伎劇のほか、江戸文化の興隆に浮世絵の果たした役割は計りしれない。
大首絵という様式
国政のこの絵は浮世絵でも珍しい真横の構図である。勝川派の勝川春章(1726-1792)らが、鼻の高い四代目市川團十郎を描くときに横向きに描いたという流れはあるが、真横の構図を創案し、国政は鼻の高い立派な鰕蔵(五代目團十郎)の横顔を絵に描きたかったのだろう。また浮世絵を購入する人も、市川鰕蔵といえば鼻だよね、というのがすでに庶民の下地にあり、当時歌舞伎は江戸に浸透していた。
歌川派誕生以前の勝川派が大判錦絵の役者半身像の大首絵形式を考案し、勝川春章の弟子の春好(しゅんこう。1743-1812)が、大首絵をさらに拡大したような“大顔絵(おおがおえ)”という大きな顔の絵を描いて一時期評判となった。その後1794(寛政6)年5月写楽が登場して、江戸三座(都座・河原崎座・桐座)の興行に取材した大判黒雲母摺(くろきらずり)による役者大首絵28枚を売り出し一躍人気を得た。その写楽がいなくなったあと、豊国は大首絵を盛んに描き出し、弟子の国政も短い期間のなかでたくさんの絵を一緒に描いた。大首絵という様式そのものがブームになっており、浮世絵は歌舞伎とともに日本文化の独特の型を生み出し、ユニークな様式美を育てていった。数年間のこの流行のなかで《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》が生まれた。「この絵は本当に素晴らしく、違う世界、別次元に行っている。デザイン的に斬新だがそれで終わらない。国政が込めた情熱がデザインを超えて、役者の生々しさや躍動感となって伝わってくる」と渡邉氏は語った。
国政は晩年画業を廃して役者似顔の仮面を製作販売していたらしく、1810(文化7)年38歳の若さで亡くなってしまった。ただひたすらに当世風を追う「浮世」の絵が浮世絵ならば、歌川国政は浮世の世界を一気に駆け抜けて行った絵師と言えるだろう。しかし残された国政の作品からは、不易流行の価値を活力に変えた江戸庶民の粋を現代でも伺うかがい知ることができる。《市川鰕蔵の碓井の荒太郎定光》の浮世絵は、東京国立博物館のほか、大英博物館、ボストン美術館、シカゴ美術館、ホノルル美術館、平木浮世絵財団が所蔵する。市川鰕蔵の象徴的な国政の役者絵が、江戸文化をいまに伝えている。
渡邉 晃(わたなべ・あきら)
歌川国政(うたがわ・くにまさ)
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参考文献