アート・アーカイブ探求
岸駒《猛虎図屏風》未見の虎へ挑む──「石田佳也」
影山幸一
2015年07月15日号
対象美術館
「トラノガンク」
古来より絵画には動物が描かれてきた。現存する人類最古の絵画といわれる1994年に発見されたフランスのショーヴェ洞窟壁画には、260点あまりの野生動物が描かれている。数万年前の先史時代から狩猟や呪術など人間は生存するために動物を描いてきた。畏れ、癒し、愛おしさ、権力の象徴など、人が動物に対して抱く気持ちはさまざまで、描かれた時代が色濃く反映されるので、動物画に見る美術史も成立しそうだ。
日本では12世紀半ばの作と伝わる《鳥獣戯画》がユニークだが、江戸時代の動物絵画は実に多彩だ。鳥、猫、犬から見たことのない猛獣や象など、人々は動物のイメージを膨らませ、絵を通して動物を楽しむ時代が到来した。日本には棲息していない動物、なかでも十二支の虎は勇ましく魔除けに用いられる用途もあって数多く描かれている。
2010年、岸駒(がんく)の《猛虎図屏風》(サントリー美術館蔵)を「おもてなしの美 宴のしつらい サントリー美術館所蔵品展」で見ることができた。「トラノガンク」とは聞いたことがあったのだが、偶然にも「岸駒の虎」に出会えた。六曲一双屏風一隻に一頭ずつ、どちらも獰猛(どうもう)な顔がリアルに描かれており、虎の迫力と岸駒の気迫を感じさせる。「おもてなしの美」という展覧会に虎というしつらえは、ただごとではなさそうだ。岸駒は虎を通して何を表現しようとしたのか。どうして岸駒は虎なのか。作品を所蔵するサントリー美術館の石田佳也学芸部長(以下、石田氏)に《猛虎図屏風》の見方を尋ねてみたいと思った。
石田氏は日本近世絵画史を専門とし、1998年に「動物表現の系譜展」を企画、《猛虎図屏風》を展示した。その図録には論文「動物はどのように描かれてきたか 中国、朝鮮、日本にみる動物表現の諸様相をさぐる」が掲載されている。東京・六本木、ミッドタウン内のサントリー美術館を訪ねた。
画家の気宇
石田氏は「どうしてこの虎図に注目されたのですか」と疑問に思ったようであった。この岸駒の《猛虎図屏風》は、屏風形式の作品収蔵数が多いサントリー美術館のなかでも確かに主要な動物画であるが、岸駒によって描かれた虎図はほかの館にもあり、動物表現であればもっと目立つ作品は他にもあるのではないか、ということだろう。しかし先の展覧会で《猛虎図屏風》と対面した筆者にとって、このいかめしい虎の表情は「トラノガンク」という響きと相まって、とらえ難かった岸駒をぐっと近づけてくれたのである。
1957年岩手県に生まれた石田氏は、中学生の頃に切手を収集し、その流れで絵に関心をもつようになったという。切手をストックブックにレイアウトすることが、いまから思えば美術館で作品の展示を工夫するのと同じような心の動きだったと話す。ルネサンスや印象派の画集に親しみ、美術部や美術サークルにも参加していたが、次第に人間文化の歴史として美術に深く関心をもつようになったという。1985年東京大学大学院を修了し、サントリー美術館の学芸員となった。
「生活の中の美」というテーマを掲げるサントリー美術館が、《猛虎図屏風》を新に所蔵したのは石田氏が学芸員となった同じ1985年という。「虎になりきれなかった猫の絵のいかに多いことだろう。虎や獅子を描ききるには、筆をとる画家の気宇の大きさが必要とされたのである」(石田佳也『動物表現の系譜』図録 p.102)と石田氏は書いている。
有栖川宮家の障壁画
岸駒の出生については明らかでない。生誕は1749(寛延2)年と1756(宝暦6)年説があり、出生地も石川県金沢説と富山県東岩瀬説がある。生い立ちは極貧であったようだ。加賀藩資料『政隣記』(31冊)では、1756(宝暦6)年金沢に生まれ、12歳の頃染物屋に丁稚奉公し、着物の紋や裾模様の白抜きの部分に色をさす仕事に従事。1780(安永9)年25歳で京へ上り、一時円山応挙から指導を受けていた可能性があり、門人になったかは不明だが、当時京都で大流行だった応挙の影響を強く受けたことは確かである。1782(天明2)年には27歳で『平安人物志』の画家の部に円山応挙・伊藤若冲・与謝蕪村(1716-1783)・長沢芦雪らとともに名が挙がっている。
岸駒の出世のきっかけとなったのは、有栖川宮家に出入りが許されたことにある。1784(天明4)年に東町奉行所同心公事役である寺田官左衛門の推挙を得て、有栖川宮家御学問所の障壁画を描き、有栖川宮の近習(きんじゅ)となり雅楽助(うたのすけ)の名を賜った。後年の1804(文化元)年官左衛門の娘を岸駒の長男、岸岱(1782-1865, がんたい)の嫁に迎えている。
1799(寛政11)年、岸駒44歳のときに長崎の通詞(つうじ)を通し、清(しん)人より実物の虎の頭骨を入手。岸駒は虎頭館(ことうかん)とも号し、虎の頭骨を徹底的に写生し研究した。同年、虎の足4本(富山市郷土博物館 佐藤記念美術館蔵)も入手する。虎の目から鼻先までの長さや、巨大な牙と歯の数も数え、前足が後ろ足より大きく、前足の膝から踵(きびす)までの間にもうひとつ関節があること、毛の流れる方向は複雑で一定していないことなどを観察し、解剖学的な理解を深めた。
1801(享和元)年には、従六位主殿大属(とのもだいさかん)生火官人(いけびのかんにん) に補任され、1808(文化5)年越前介に転ずる。翌年岸駒54歳で前田候の招きを受け、故郷に錦を飾るべく「二万石之道中行列」の行粧(旅のいでたち)で金沢へ下り、金沢城障壁画を描く。1837(天保8)年には従五位越前守となる。岸(きし)派を開き門人多数を擁して、応挙、呉春没後の京都画壇で活躍した。享年は83歳、あるいは90歳と伝えられる。
【猛虎図屏風の見方】
(1)タイトル
猛虎図屏風(もうこずびょうぶ)。
(2)モチーフ
二頭の虎。
(3)制作年
1822(文政5)年。岸駒67歳、あるいは74歳の作品。《虎に波図屏風》(1823, 東京国立博物館蔵)の一年前。同じ虎の頭蓋骨を参考にしているためか、頭部の表現は向きが反対だがほぼ一致。
(4)画材
紙本金泥墨画。金泥が後世の補修なのかは不明。
(5)サイズ
六曲一双。右隻・左隻ともに縦154.5×横355.0cm。
(6)構図
両隻とも無背景の大画面中央に、虎を一頭ずつ配した構図で虎のみを表わした。右隻は足を踏ん張り、機を窺っている状態、左隻は据わって後ろ向きに威嚇する姿勢をとり、阿吽の対照を見せている。左隻の足の裏側を見せるのはよくある定番ポーズ。
(7)色彩
黒、灰、金。
(8)技法
水墨画。水分をたっぷりと含んだ柔らかな筆法と、濃淡墨を使い分けた精緻な毛描き描法が合体。
(9)落款
右隻「文政壬午仲秋寫 越前介岸駒」、左隻「同功館(どうこうかん)岸駒」の署名と、両隻に「岸駒」白文方印と「同功館」の朱文長方印の印章。
(10)鑑賞のポイント
虎を生きた姿で観察することがかなわない時代のなかで、岸駒が可能な限りリアルに描こうと挑んだ作品。描かれた目的はわからないが、「岸駒の虎」と当時宣伝された岸駒がひとりで描いた。虎の頭蓋骨や毛皮、脚の剥製を手元に置き、毛並みや一本一本の毛の長さ、密度など、できるだけ忠実に描き、質感までも写し取ろうという態度が見受けられる。しかし、虎の瞳が黒い真ん丸でなく、キャッツアイになるなど、限界も見られる。「岸駒は生涯に厖大な数の虎図を遺しているが、そのなかでも最も迫真性に満ち、丁寧な筆致が麗しい作品がこの屏風であろう。概念的な虎ではなく、あくまでもリアルな虎の相貌と姿態は、円山派などのそれと一線を劃すというべきである」(狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』p.184)。到達できない目標へ挑戦するその全力の表現に、心を動かされるものがある。岸駒代表作のひとつ。
虎を極める
石田氏は「18世紀、19世紀の江戸時代後半において、リアルな動物表現を極めようとした絵師のひとりが岸駒である。そして伊藤若冲の鶏、森狙仙(そせん, 1747-1821)の猿と同様に、岸駒の虎という定評が確立した。そもそも虎は国宝《玉虫厨子(たまむしのずし)》や《鳥獣戯画》など、古くから描き継がれてきている。日本に棲息しない虎が多く描かれた理由は、中国、朝鮮の文化の影響によるもので、虎と拮抗するパワフルな龍とともに描く『龍虎図』や、虎に竹を取り合わせた『竹虎図』などもある。特に勇猛さが武家に好まれてニーズは絶えなくあったろうし、十二支の寅に関する発注もあったかもしれない。岸駒は、そういう文化史に深く根を下ろした虎というテーマを選んだからこそ、一層画名が挙がったというところがあり、何より実物の虎の頭蓋骨と脚の剥製を手元に置いて制作したことが迫力の源となったのだろう。牙と歯の本数や形状、大きさの比率は見事に実物に則している。しかし、生きた虎の写生ではないので、観念上の猛虎というイメージがひとり歩きしている部分も感じられる。決定的に違うのは目。虎の瞳はキャッツアイではなく、本来は黒く真ん丸い。虎の骨格や毛並みは、手元の骨や剥製で学べても、生きた虎の目玉はわからなかった。情報に制約があるなかで、岸駒は見たことのない生きている虎を想像しながら、迫真の動物表現に挑んでいたのだろう」と語った。
成り上がり
岸駒についての主な文献に、岸家(岸大路家)に伝来する家系資料『天開翁略年譜』と前述の加賀藩による『政隣記』がある。そのほか1793(寛政5)年御所の障壁画を描く際に考えを記録した『言上書(ごんじょうしょ)』、作品の納入先を記載した『應詔(おうしょう)畫圖目録』、晩年期の自筆日記『岸駒揮毫(きごう)日記』、『岸駒作品目録』などがあり、また上田秋成著の随筆『胆大小心録』で岸駒は、応挙と等しい高い画料、金銭欲に憑かれた人物として山師呼ばわりされ、朝岡興禎(おきさだ)の著した画人伝『古画備考』でも田舎者の成り上がりとして誹謗されている。しかし、こういう話題は同時に世間では宣伝にもなり、画家の地位向上に貢献したという見方もある。
今日、円山応挙や呉春の名が残り、当時の活躍に反して岸駒の名が廃れてきたのは、その悪評を買う性格とも、長年の制作による画風の変化によるものともいわれる。世の中の需要や流行に頭を巡らせたプロデュース能力を持った画家だったのかもしれない。「岸駒は幼い時から一人で世間に放り出されたために、早くより大人ぶり、老成ぶるなどのはったり精神が身に染みこんだもののようである。絵が好きではあったが、同時に絵は立身の道具でもあった」(宮島新一『没後150年記念 特別展 岸駒』図録p.13)。
治世の英雄
一方で、岸駒の弟子・白井華陽(?-1836)の画人伝『画乗要略』は、「岩蔵(倉)の里に隠る」「廃寺を修理して、之に居る」と岸駒の晩年を記し、紀州和歌山藩の国学者である長沢伴雄(ともお, 1808-1859)の京の見聞記『都の日記』には、「一とせこの岩倉の証光院をかりて住りしが、この寺いたくあれはてゝ、床の中より薄生ひ出たりし書院をかく麗しう修理して、襖の方は新しく建替、その外、大垣土塀石垣様の事までみなあたらしう仕なしたり。また後の山上二丁に鬼子母神堂を建立して雲閣と号し、麓の方寺内に土蔵造りに仏殿を建て、……」(狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』p.178)と書かれており、そして終わりに岸駒を「治世の英雄」と称えて締めくくっている。
「明治初年、来日したフェノロサは米国ボストン美術館収蔵の駒の『鹿』の絵をもって、『中国および日本の美術史』(エポック オブ チャイニーズ アンド ジャパニーズ アート)のなかで、『世界動物画中の最高傑作』と激賞し、最晩年に描いた『自画像』(岸昌子蔵)は日本肖像画中の傑作とされている」(道正弘『岸駒』pp.1-2)。
地方の一介の町絵師が、筆の力によって宮中人にまで昇りつめた。それがゆえに妬みもあろうが、画代を貪るといった悪評も多く噂され、社会から忘れられる傾向にあった。しかし近年その実態が明らかになってきており、これまでの岸駒像を鵜呑みにはできない。岸駒の出身地北陸での関心は徐々に広まり、また、岸駒の絵は現在も京都に多く残されている。
石田佳也(いしだ・よしや)
岸駒(がんく)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献