アート・アーカイブ探求
横山大観《或る日の太平洋》──無窮のエネルギー「大熊敏之」
影山幸一
2016年03月15日号
対象美術館
唸る線
日本人の多くがその名を知り、近代日本画壇の巨匠と呼ばれる横山大観。大観といえば富士山といわれるほど、大観は繰り返し日本のシンボルである富士山を描いてきた。大御所である大観の絵を積極的に鑑賞してきたとはいえないが、ところどころで《屈原(くつげん)》《生々流転》《夜桜》など大観の代表作は見ており、横山大観記念館を訪ねてもいる。印象深く記憶に残っている作品はやはり富士山の一点。詩情あるタイトルの《或る日の太平洋》(東京国立近代美術館蔵)だ。晩年の葛飾北斎(1760-1849)が描いた《富士越龍図》(北斎館蔵)を思い起こさせる絵である。
作品は掛軸でなく、縦長の額装が施されている。日本を象徴する富士山が画面上方に描かれ遠方に神々しく見える。水墨画を基調としながらも金や青など彩色を加え、龍は海のうねりの一部のように小さい。大画面で具体的なモチーフの多い大観のイメージとは異なる抽象的表現を含んだ作品であり、大観の素が見えてくるようで気になっていた。何よりも目を引くのは太平洋の唸る波。墨の濃淡を活かしてなんとも自由に直線と孤線を重ね、垂直に昇る白い波頭が生気を発している。富士山へ向かう最も濃い直線は、絵を描く理由や形式を超えて思わず描いてしまった、表現者の魂の一線に思えた。
大観晩年の作品である《或る日の太平洋》について、大観の戦前から晩年を『別冊太陽 横山大観』(平凡社)に執筆された富山大学大学院芸術文化学研究科教授の大熊敏之氏(以下、大熊氏)に作品の見方を伺ってみたいと思った。大熊氏は1997年宮内庁三の丸尚蔵館で開催された「横山大観の時代 1920s-40s」展の企画者であり、日本の近代美術に詳しい。埼玉県のご自宅で話を伺うことができた。
フラゴナールから大観へ
小雨の降るなか、大熊氏はご自宅の玄関前で待っていてくださった。家の中は壁全面に版画や植物の標本、額に入ったレリーフ状の貝殻作品などが密に掛けられ、ギャラリーのようだった。大熊氏は、子どものころから物を触ったり、絵を描いたりしながら、美しい数式を扱う数学者や植物分類学者に憧れていたそうだが、数学の壁にぶつかり断念。早稲田大学の文学部へ進学し、西洋美術史を専攻した。18世紀のフランスのロココ(曲線を多用する優美な装飾)様式を代表する画家ジャン・オノレ・フラゴナール(1732-1806)の《揺りかご》(ピカルディ美術館蔵)をはじめとする母子像について研究した。高校生のときから好きだったというフラゴナールは、活き活きとした動きと近代的な描法が特徴で、絵の前に立つと陶酔できるほど美しいそうだ。
大学を卒業後、1983年札幌にある北海道立近代美術館へ学芸員として就職した。陶磁器とガラス工芸、のちに日本の近代の油彩画を担当し、地元作家の回顧展「求美の使徒─田中忠雄展」などを企画。1986年からは6年間函館へ移り、北海道立函館美術館の創設に関わり日本画や書を担当した。再び北海道立近代美術館へ戻り、「日本のリアリズム」展、「日本の抽象絵画1910-1945」展などのテーマ展企画をつとめ、「日本のリアリズム」展では、倫雅(りんが)美術奨励賞 を受賞した。
横山大観について調査を始めたのは、函館にいた頃である。そして1993年、東京・皇居東御苑内の宮内庁三の丸尚蔵館の研究員へ転職する。幕末から明治期以降の日本画、油彩画、工芸、置物、西洋美術を担当。この時「横山大観の時代1920s-40s」展を企画することにより深く大観を研究調査することになった。「宮内庁は、富士山の絵のオンパレード。いったい富士山とは何なのだろう。生涯にわたり富士山を描いていた大観の活動から、従来の院展の巨匠大観像とは異なる見方ができるのではないかと思った」と大熊氏。《或る日の太平洋》の第一印象は暗くて汚い絵だった。
東京美術学校一期生
横山大観は、1868(明治元)年水戸藩士酒井捨彦(すてひこ)の長男として、茨城県水戸市に生まれた。幼名は秀蔵、秀松。1878(明治11)年一家で上京し、大観は東京府中学校(現・都立日比谷高校)へ入学。秀麿(ひでまろ)と改名し、1885(明治18)年建築家を志して東大予備門を受験するが、同付属英語専修科とのかけもちが発覚して両校とも失格となる。しかし、英語が将来役に立つという考えから、後年著名人を多く輩出した私立東京英語学校(現・日本学園)へ入学。毎週日曜には、洋画家の渡辺文三郎(1853-1936)のもとで鉛筆画を学ぶ。二十歳のとき母方の横山家を継ぎ、そして日本画家の結城正明(1840-1904)に毛筆画の手ほどきを受けた。
1889(明治22)年、父の知人である学者・鑑識家の今泉雄作(1850-1931)の勧めで、新設された東京美術学校(現・東京藝術大学)の絵画科へ、第一期生として入学する。教授の橋本雅邦(1835-1908)に師事し、また校長であった岡倉天心(1862-1913)から信頼された。天心は、新しい時代のなかで御用絵師狩野派を、近代のシステムのなかに取り込むときに、狩野派という画法・流派ではなく、その力を東京美術学校と院展というかたちに変換させた。日本東洋の優れた美の遺産を研究することにより、初めて新しい時代にふさわしい理想の美をつくり出せるという天心の強固な思いを大観は終生受けることになる。「一切の藝術は無窮を趁(お)ふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」と言った天心の言葉を座右の銘とした。卒業制作に《村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)》(東京藝術大学蔵)を描き最高点の86点を取ったが、学科がふるわず同期11人の最後から二番目であった。
新描法「朦朧体」
卒業後に大観は古画の模写に従事していたが、京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)校長となっていた今泉雄作から依頼を受け、美術工芸学校の予備科教員となった。その翌年には東京美術学校の図案科助教授に任命され東京へ戻り、大観の雅号を用いるようになる。
しかし、1898(明治31)年、東京美術学校に内紛が起こり、天心や雅邦らと連袂(れんべい)辞職する。天心のもとで下谷区谷中(現・台東区谷中)の日本美術院設立に参画し、下村観山(1873-1930)、菱田春草(1874-1911)、竹内栖鳳(1864-1942)らと共に、革新的な在野の日本画家として活動を開始する。新しい描法として、輪郭線を用いず濃淡によって空気や光を表現する「朦朧体(もうろうたい)」を春草らと創作したが、厳しい世評を受けた。「この朦朧体による表現は、日本画の近代化に大きな意義を持つことになるが、それが広まるにつれ、日本美術院に対する世間の関心は遠のいてしまった」(飯島勇『アート・ギャラリー・ジャパン1 横山大観/竹内栖鳳』p.48)。
1903(明治33)年35歳になった大観は、春草と同行してインドへ渡航した。翌年には日露の国交が断絶した情勢のなかで天心や春草らとアメリカへ行き作品展を開催、好評を博す。これで収入を得たため、天心を通じて2,000ドルを日本美術院に贈り、自宅へも送金した。そして1905年春草と共に和装の姿でヨーロッパを巡遊して教養を深めた。
1,500点の富士
大観の帰国後、日本美術院は経済的破綻と分裂の危機にあり、1906(明治39)年日本美術院は移転する。天心をはじめとする大観、観山、春草らは家族を連れて、太平洋に面した茨城県の五浦(いづら)に移り、新日本画運動を興した。1913(大正2)年天心が死去する。大観45歳、天心の遺志を継いで弟子たちは日本美術院の再興を志す。大観は観山らと日本美術院を再興、経営者として運営にあたった。その後40年余にわたり、院展を日本画壇の一大勢力に育て上げた。
1930(昭和5)年、大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎(1882-1963)の尽力で、ムッソリーニ(1883-1945)の政権下にローマで開催された日本美術展覧会へ静子夫人と共に渡航する。翌年には帝室技芸員を拝名した。満州事変が起こり、日本は非常事態になっていった。1934(昭和9)年、日満美術展に出品した《霊峰不二山》を満州国皇帝に献上し、徐々に国粋主義への傾向を強めていった。1937(昭和12)年文化勲章が制定され、竹内栖鳳と共に日本画家で最初の受章者となる。第二次世界大戦開戦が迫るなか、翌年にはドイツのヒトラー(1889-1945)総裁へ《旭日霊峰》を贈呈した。
1940(昭和15)年画業50年を記念した「横山大観紀元二千六百年奉祝記念展」が開催されシリーズ「山に因む十題」「海に因む十題」を展示、陸海軍両省に五十万円を献ずる。太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年の第28回再興院展には《輝く大八洲》を出品し、天皇に献上した。1943(昭和18)年社団法人日本美術報国会会長に就任する。
敗戦後、大観は戦犯容疑者として取り調べを受けたが、戦犯者にならなかった。「国破れて山河在り」の思いを深くして、1952(昭和27)年《或る日の太平洋》を第37回再興院展に出品した。1958(昭和33)年大観は死去した。享年89歳。谷中墓地に埋葬された。「富士を描くということは、富士に写る自分の心を描くことだ。心とは人格にほかならない。それは気品であり、気迫である」と大観。1,500点を超える富士を描き、絶筆は《不二》であった。
「大観の心中に一番強くあったものは、岡倉先生への恩に報いるため、日本美術院を官へ復帰させる思いだった。結局は、御用絵師狩野派を継承した新狩野派とでも言いましょうか。新狩野派イコール院展とすれば、大観はその運営者。作品だけで大観を評価してはいけない。総体として見て、美術動向として評価し、歴史的に位置づけた方が、大観の本懐だろうと思う」と大熊氏は述べた。
【或る日の太平洋の見方】
(1)タイトル
或る日の太平洋(あるひのたいへいよう)。英名:A Day in the Pacific Ocean
(2)モチーフ
富士山、太平洋上の波、龍。
(3)制作年
1952(昭和27)年。辰年で辰年生まれの大観84歳の作。
(4)画材
紙本墨画彩色。額装。日本家屋内での少人数鑑賞から博覧会場の一般公開へと、鑑賞者の増加と展示空間の拡大が日本画を額縁に収めることになっていった。大観は抵抗なく、作品が展覧会用に額縁に入れられることを想定していた。
(5)サイズ
縦135.0×横68.5cm。
(6)構図
縦長の画面半分以上を波が占め、富士山が遠方上部に見える。江戸後期から幕末、明治初頭にかけて流行した富岳昇龍図。狩野永岳(1790-1867)筆《富士山登龍図》(静岡県立美術館蔵)や葛飾北斎筆《富士越龍図》、北斎の版本《富嶽百景》の「登龍の不二」、酒井抱一の《不二山図》(江戸東京博物館蔵)などから大観は主題や構図の影響を受けた可能性が高い。琳派から着想を得た断ち切りの構図。
(7)色彩
黒、灰、白、青、緑、赤茶、金。
(8)技法
写実的に描かれた富士山を右下から龍が鋭く見つめ、波頭には熟達した胡粉の使い方が見られる。白抜きしたようなジグザグ形の波や表現主義的な伸びやかな線、遠景の霞と近景の波では質の異なるぼかしを用いるなど、大観描法の集大成と見ることができる。
(9)落款
画面右下に「大観」の署名と、鉦鼓洞(しょうこどう)というアトリエ名から「鉦鼓洞主」の白文角印の印章を用いている。
(10)鑑賞のポイント
1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約調印に発想を得て制作された。戦後主権を回復した日本を祝い広い世界に目を開こうと、混迷する日本と日本画壇の行く末を案じながら、富士山を背景に立ち上がる波頭と昇龍を描いた吉祥厄除の図。日米の衝突や古典と前衛の対立を表わしたのか、あるいは岡倉天心とともに苦闘した茨城県五浦での荒れ狂う冬の太平洋を回想したのか、手前には高波と稲妻、そして波間に出現する龍、背後には富士がゆるぎもなく、悠然とそびえている。前景の「動」と背景の「静」の対比が鮮やか。上部空の来光では横への広がりを感じさせ、稲光りは直線的に縦、斜め、波頭はさまざまな方向へと、下と左右の広がりを想像させるように動の部分で構造をつくって描いている。動きが構図をつくり、構図が外への広がりを暗示させる。美術史家の野間清六は、作品発表当時「近ごろ流行のシュールに似ているのは愉快、しかもこれは借物ではない純日本産であるところに味がある」(野間清六『MUSEUM』No.43、p.12)と評し、大観は喜んで野間が勤務していた東京国立博物館へ作品を寄贈した。17点の習作を描き、再興第37回院展へ出品。東京国立博物館所蔵だったが1963(昭和38)年度東京国立近代美術館へ管理換え。大観晩年の代表作。
すっくと穢れなく
大熊氏は「古代から富士山信仰はあったが、江戸時代に富士講をはじめとする富岳信仰が再び高まった。動乱の世に日本の象徴として尊いものは富岳とされ、黒船が近づいてくる時代のなかで、揺るぎない存在として富士山が庶民の間で広まった。また龍は守り神であり、力の象徴である。多くの富岳昇龍図は富士山の下の逆巻く波の中に龍がいる。大観はサンフランシスコ講和条約を、富岳昇龍図が盛んだった江戸後期から明治初頭の時代と同じように、第二の幕末、第二の維新と考えたと思う。《或る日の太平洋》は基本的に本歌取りということになる。《或る日の太平洋》は一見汚い絵に見えるが、富士はすっくと穢れがなく、天空は金泥が入り煌びやかである。富士山だけに陰影を付けて立体感をもたせている。この絵に揺さぶられる気持ちが起こるのは、琳派から着想を得た断ち切りの構図だと思う。さればこそこの金であり、断ち切り構図であろう。線はエネルギーを表わしている。繊細な線、荒々しいが考えられた配置をもった線、最後に画竜点睛のような稲光の線、さまざまな線の動きと線の質の違いが、外への広がりを暗示しているところが見どころ。日本や龍がもっているエネルギーであると同時に、日本が外国と対して行く未来にさまざまな苦難を与える狂暴なエネルギー。それでも美しく日本は立つ」と語った。
日本と皇室賛美
《或る日の太平洋》は戦中に大観が描いていた「戦争画」といわれるものと意識は連続しており、1951年のサンフランシスコ講和条約とつながっている、と大熊氏は述べている。太平洋の向こう側にアメリカや外国諸国がある意識が強く、地政学としての絵画である。
さらに見ていくと《或る日の太平洋》は、大観の国家を挙げて開催された改組第一回帝展の出品作《龍蛟躍四溟(りゅうこうしめいにおどる)》(1936、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や《山に因む十題・龍躍る》(1940、足立美術館蔵)をもとに制作したと考えられ、特に大観が皇室へ献上することを前提に精魂を込めて制作した《龍蛟躍四溟》は発想にあったはずである、と大熊氏。《龍蛟躍四溟》の「しめいにおどる」とは、世界に広く行きわたるという意味。日本、大日本帝国、天皇国、大観自身が世界で大活躍することを願い、日本に対する遺言として残そうとした絵だという。
この大観の《龍蛟躍四溟》は、中国・南宋末の画家で龍画の名手といわれる陳容(ちんよう)伝の《五龍図巻》(東京国立博物館蔵)を手本としている。龍を中国の皇帝として描いた陳容と、龍を天皇とした大観。戦時中、富岳を描いて日本と皇室を賛美していたが、戦前戦中と変わらず戦後《或る日の太平洋》を大観は描いている、と大熊氏は語った。
気魄の余韻
「戦後、藤田嗣治(1886-1968)を含む画家たちの戦犯騒ぎがあったが、大観の意識のなかでは戦争と関係していない。少なくとも反省はしていない。なぜ反省していないかというと、大観は純粋な人、別な言い方をすれば単純な人。日本を代表する絵描きは自分だと思っていた。政治的な動きをしているように見えるが、邪念なく行動している。天皇は日本の姿であり、力であり、第二の開国をしても必ず昇龍するのだと大観は信じている。思いの丈を出した大観自身のメモリアルでもあった。大観にとってこの絵は、習作を重ねたが未完成であったかもしれず、収まっていないようにも見えるが、かえって迫力があるように感じる」と、《或る日の太平洋》を未完成の大作と見た大熊氏は大観の気魄の余韻を語った。
現在、東京国立近代美術館で開催中の所蔵作品展「MOMATコレクション」(2016.3.8〜5.15)3階10室に《或る日の太平洋》は展示されている。
大熊敏之(おおくま・としゆき)
横山大観(よこやま・たいかん)
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参考文献