アート・アーカイブ探求
相阿弥《瀟湘八景図》水墨画のメロディー──「島尾 新」
影山幸一
2016年04月15日号
自然の循環
今年の桜は花の散り方が美しい。萼(がく)から花がぽたりと落ちていた昨年とは異なり、花びらが一枚一枚ひらひらと舞っていた。日本は桜の種類が豊富で名所も多い。緋寒桜、染井吉野、えぞ山桜などと沖縄から北海道へ日本列島を桜前線が上り、開花日を心待ちにしながらも、満開の桜が散りゆく風情にも心を寄せる。花びらを撒いたかのような川沿いの散歩道を花吹雪を受けて歩いていると、川面に花びらが集まった花筏(はないかだ)が流れ、時の移ろいを見せてくれた。花筏という言葉は、室町時代(1392-1573)の歌謡集『閑吟集(かんぎんしゅう)』にすでにあるという。約500年前の人々の創造した言葉が現代の日常にも生きている。
桜を見て5年ほど前に寺院で見た絵がよみがえってきた。時を経て思い出す絵の魅力とは何なのだろうか。その襖絵は薄墨の静かな水墨風景画だった。包まれるような柔らかな様相は、空(くう)や無に近い世界だ。余白の多い絵は、鑑賞者の心の趣きに応じてもあもあとイメージが湧いてくるようだった。色や形が止まらない自然の循環そのものを表わす。京都の大徳寺大仙院が所蔵する相阿弥(そうあみ)の《瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)》である。
絵の記憶は体験と強く結びついており、大仙院の建築とは切り離せないと思った。大仙院は日本最古の「床の間」と「玄関」を設え、枯山水の名園として知られ、寺院中央に広大な眺めの《瀟湘八景図》を大胆に配置している。特に滝の描かれた襖絵4面が印象的であった。
この水墨風景画の実物は、京都国立博物館に保管されており、襖絵から改装した掛幅として展覧会会場でも見ることができる。日本中世絵画史が専門で水墨画に詳しく、「相阿弥の研究」(『鹿島美術財団研究報告』1993)を執筆し、2014年には『日本美術全集 第9巻 室町時代 水墨画とやまと絵』の責任編集をされた学習院大学文学部教授の島尾新氏(以下、島尾氏)に相阿弥の《瀟湘八景図》の見方を伺いたいと思った。
ポスト応仁の乱
大学を訪ねると、通路の壁に水墨画が数点掛けられているのを発見し、島尾氏の研究室とすぐにわかった。以前このインタビューシリーズで雪舟について伺ったこともあり、挨拶もそこそこにすぐ本題に入った。島尾氏は、1953年東京に生まれた。東京大学大学院博士課程を中退後、東京国立文化財研究所、(独)文化財研究所東京文化財研究所を経て、多摩美術大学では教鞭を執り、2012年より学習院大学で日本美術史を教えている。学生時代島尾氏は、美術史で仏像を専攻しようと思っていたそうだが、好きなモノクロ映画に近い水墨画を感覚的に選択し、卒業論文では如拙(じょせつ、生没年不詳)の国宝《瓢鮎図(ひょうねんず)》(妙心寺退蔵院蔵)をテーマにした。
室町時代の水墨画を研究するうえで大きな境目となるのが、応仁の乱(1467-1477)と言う。応仁の乱が始まったとき画家が何歳だったのかは、判断の目安のひとつになるそうだ。雪舟は数えで48歳。相阿弥は、はっきり生誕年がわからないが大仙院建立(1513)時は生きており、先代の芸阿弥(1431-1485)から仕事を受け継ぐのは応仁の乱の後のため、ポスト応仁の乱と言える。
大仙院方丈室中(ほうじょうしつちゅう)に設えられていた相阿弥の《瀟湘八景図》20面(北側12面〔中央のやや幅広い4面とそれをはさんで幅の狭い襖が左右に4面ずつ〕、東側4面、西側4面)の襖絵は、本物に代わってすでに複製となっていたが、それを学生時代に初めて見たという島尾氏の第一印象は「もやっとした絵だった」と言う。実物は現在、襖絵から掛幅に改装され、北側12面のうち幅の狭い8面の襖絵は2面で1幅になったために北側が8幅、東側4幅(今回掲載の絵画)、西側4幅の合計16幅の掛幅となっている(図参照)。
東山文化の祖
能の世阿弥、立花の立阿弥、作庭の善阿弥などの名で思い浮かぶ阿弥号は、時宗の僧の名にならったと言われる。しかし相阿弥の場合は同朋(どうぼう)たちに附せられた一種の称号であったようだ。相阿弥は下の字を略して、相阿とも自称し、禅僧風の鑑岳真相、また松雪斎とも称した。
室町時代の足利将軍家に仕え、連絡係や話し相手などの役に当たり、各種芸能に長じた同朋として、室町前期から中期の能阿弥(のうあみ、1397-1471)、中期に在世した芸阿弥、末期の相阿弥のいわゆる阿弥派の父子三代が三阿弥として活躍した。「同朋」という言葉によって代表される彼らの世界は、一般の社会的階層・秩序からはずれたところにいる者として、はっきりとした輪郭をもっておらず、その存在様式の曖昧さを体制は求めた。
相阿弥は庶民の出だが、8代将軍義政(1436-1490)に仕え、中国から輸入された絵画や工芸といった唐絵(からえ)や唐物(からもの)に関わる管理や「代付(だいづけ)」と呼ばれる美術品の鑑定や値付け、室内装飾など、足利将軍家の美術コンサルタントとしてさまざまな仕事にあたっていた。しかし将軍家の没落に伴い、将軍家コレクションを取り仕切った経験、特に普通は見ることのできない、中国の名画をいつでも見ることができた特権を活かして画家を生業とし、当時最も人気のあった中国の画僧牧谿(もっけい、生没年不詳)や、玉澗(ぎょくかん、生没年不詳)らの画風を取り入れて、当代一流の画家として墨のトーンで穏やかな山水の景観をつくり上げていった。1525(大永5)年に没したがその生年は未詳である。
すべての美術に通じ、一方で自ら絵を描き、連歌を詠むマルチな文化人でもあった相阿弥は、能阿弥以来蓄積されてきた唐物や座敷飾りについての知識を『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』としてまとめ、東山文化(足利義政の東山山荘〔慈照寺銀閣〕を中心とした唐物趣味)のエッセンスをいまに伝えている。そして相阿弥は武家、公家、禅僧、町人らの文化が融合して生まれた香道、生花、造庭など東山に淵源(えんげん)をもつ文化の祖として伝説化されていった。制作時期の推定できる相阿弥の基準作に大仙院の《瀟湘八景図》がある。
【瀟湘八景図の見方】
(1)タイトル
瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)。「山水図」とも呼ばれる。英名:Eight Views of the Xiao-Xiang Region。八景とは、山市晴嵐(さんしせいらん)、漁村夕照(ぎょそんせきしょう)、遠浦帰帆(えんぽきはん)、瀟湘夜雨(しょうしょうやう)、煙寺晩鐘(えんじばんしょう)、洞庭秋月(どうていしゅうげつ)、平沙落雁(へいさらくがん)、江天暮雪(こうてんぼせつ)。
(2)モチーフ
自然の風景。滝、雲姻(うんえん)、山、木、岩、水面、舟、空、民家、人。
(3)制作年
1513(永正10)年頃。相阿弥50歳代後半の円熟期に描かれたと推定する考えがある。
(4)画材
紙本墨画。掛幅。
(5)サイズ
16幅のうち4幅:各縦174.8×横139.0cm。
(6)構図
パノラマ的大画面(16幅)に、陰陽五行説に基づき東西南北に対応した春夏秋冬をめぐらせて八つの景色を配置した。大仙院東側の夏にあたる4幅画面の左端第一面には「山市晴嵐」、第二面は「瀟湘夜雨」、第三面は「遠浦帰帆」、第四面は「漁村夕照」。
(7)色彩
黒、灰色。
(8)技法
湿潤な大気を実感させる牧谿の水墨技法を意識したものだが、牧谿とは異なりモチーフは単純化され平面的。漢と和をまぎらかすような柔らかな線と墨の階調で、スケール感豊かな山水の景観をつくった。点描で山を描く「米法山水(べいほうさんすい)」もあり、木々や山のかたちは、やまと絵に通じる柔軟流麗な行体による水墨画となっている。
(9)落款
なし。方丈仏間須弥壇(しゅみだん)の小襖に相阿弥筆と伝わる《八景図》には、相阿弥の「真相」朱文方印がある。また本図と共通する点の多い六曲一双の《山水図屏風》(米国メトロポリタン美術館蔵)の落款(左右隻両端に「鑑岳真相筆」の署名と「真相」の白文重郭方印)の存在が、無款の本図を相阿弥作と確証させた。
(10)鑑賞のポイント
京都・大徳寺塔頭の大仙院の方丈(本堂)に、同院の開祖である古嶽宗亘(こがくそうこう、1465-1548)の要請かは不明だが、方丈で最も格式の高い室中に相阿弥が茫洋とした柔らかな雰囲気の山水図を描いた。禅的精神を象徴しながら、宗教的装飾として用いられている。中国的な主題であるが、日本の自然と日本人の感覚とになじむ水墨表現。瀟湘八景の形を保ちつつ、日本の四季の日常空間として表現した。光と大気の織りなすドラマが感じられる。フランスのルーブル美術館にも出展された相阿弥の代表作。重要文化財。
絵全体が旋律
《瀟湘八景図》の見方について、島尾氏は「まずは全体を見る。そしてもとは襖絵だったので想像力を働かせ、柔らかな和室の光の中にこの水墨画があることをイメージし、美術館での鑑賞とは違う体感を味わってもらいたい。山水の景が屋内に出現してくる。もうひとつはこの絵は瀟湘八景が露骨には描写されていないため、八景がどこにあるのかを探す楽しみがある。瀟湘とは、いまの中国湖南省北部・洞庭湖(どうていこ)の南で瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこう)という二つの川が合流する地域のこと。古来景勝の地として知られ、多くの文人墨客が訪れた。この地方の八つの名風景を瀟湘八景として描くことは、北宋時代の士大夫(したいふ、官僚・地主・文人など旧中国社会での上流階級)である宋迪(そうてき、生没年不詳)が創始したと言われる。夕暮れ時や夜の情景、雪景色など、水墨の表現に適したものばかりで、山水画を描く者が追究するべき基本メニューとなってきた。「美しい風景」の代名詞ともなり、画題としての自由度やバリエーションの豊かさ、そして中国への憧れが、日本で瀟湘八景図が好まれた要因であろう。相阿弥のこの《瀟湘八景図》の特徴は、ぱっと目を惹くビューポイントがなく、強い筆使いもないこと。それがとてもいい湿潤な全体のアトモスフィア(雰囲気)を醸し出している。とにかく形象は単純化してしまうので、さまざまな景物も象徴的な表現になっていく。“ないからこそ面白い”というのは、いかにも日本的だが、単純化して何が起きるかというと、それで画面を維持するためのリズムが必要になってくる。山や木が奏でる旋律、絵全体の旋律。それがとても静かで、フォルティッシモのような大きいモチーフがない。そんな絵が奏でるメロディーが、この絵の魅力だろう。相阿弥が、将軍家の蒐集品東山御物(ごもつ)の名品中の名品である牧谿筆《漁村夕照図(ぎょそんせきしょうず)》(国宝、根津美術館蔵)を意識していることは明らかなのだが、具体的な表現には似ていないところが多い。黄昏へと向かう時間の、霞む大気や光と影を、深い空間の中に描き出す牧谿に対し、相阿弥は単純化された木々や山の形を反復することにより、穏やかな風景をつくり出している。相阿弥は瀟湘八景図を意識的に和様化したのか、あるいは牧谿のようには描けなかったのか。しかし湿潤な空気感や光の表現には共通しているところがあり、造形上のテーマは共有している。さらに、山の描き方はいわゆる米法山水に近いところもあって、遙かなる北宋の画家の米芾(べいふつ、1051-1107)の末裔というところもある」と語った。
弱い絵のインスピレーション
宋元画的な厳格性から日本画的な平明性へ、日本の水墨画の転換期である室町時代に相阿弥は、父の芸阿弥に画技的基礎を学び、牧谿や粱楷(りょうかい、生没年不詳)などの作品を鑑賞し独自の画風を構築していった。
《瀟湘八景図》を和様化と言ってもなんの意味もないと言う島尾氏は、「和様化というものを一般化することはできない。例えばこの相阿弥の画風は和様化であり、伊藤若冲の絵も和様化だけれど、その方向はまったく違う。和様化は、結果から見れば拡散なのである。ただ水墨の文脈でいうと、和様化ではある。それは中国は筆墨の国で、いわゆる「筆」と「墨」。相阿弥はどちらかというと、面的な表現で筆が出てこない。相阿弥は静かな面にする。じっくり見ないとわからない弱い絵でもある。「筆」の中国、「墨」の日本みたいなところがある」と述べた。
長谷川等伯が前代の画家や画跡、鑑賞方式などについて語り、日通上人(1551-1608)が筆録した『等伯画説』には「常観云く、狩野元信に謂つて云わく、我を折つて墨を相阿弥に問へと。元信尤もと領掌せり。観ことの外御機嫌よしと。時は同時の人々也」(源豊宗『美学論究』p.19)と、狩野元信が相阿弥の作風を学んだとある。狩野派の出現に影響を及ぼし、そして弟子の単庵智伝(たんあんちでん、生没年未詳)らに滋潤で柔軟な水墨画風を伝え、等伯など後世の日本画家たちに与えたインスピレーションは計りしれないものがあった。
島尾 新(しまお・あらた)
相阿弥(そうあみ)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献