アート・アーカイブ探求
三岸好太郎《海と射光》──虚ろな詩情「速水 豊」
影山幸一
2016年07月15日号
対象美術館
明るく乾いた哀感
近年の熱帯化した日本の夏では、浴衣を着て打ち水をし、風鈴の音を聞いて、妖怪やお化けの絵を鑑賞して涼むという遺風(いふう)の知恵が復活してきている。ゴーヤのグリーンカーテンの生育に一喜一憂しながら、窓辺の炎熱から緑の葉陰がデジタル機器を守るのも夏の楽しみになってきた。心地よい海からの微風を感じる絵も涼をとるのにいい。三岸好太郎の代表作のひとつ《海と射光》(福岡市美術館蔵)は、真夏の浜辺が描かれて、ふっとバカンス気分に誘われる。しかし、三岸の生きた時代は、バカンスとは縁遠かったに違いない。
日本の風土から生まれた作品にしては明るく乾いた画面。しかもどこか哀感をそそる。横たわる裸婦の顔と足には布が巻貝のように巻かれ、砂浜の貝殻は種類がまばらで、灼熱の太陽の下での不穏な風景に思えてくる。背景を直線で区切り、曲線の多い裸婦と貝殻を配置し、単純そうでありながら練られた絵であることが伝わってくる。
《海と射光》の見方を、三重県立美術館館長の速水豊氏(以下、速水氏)に伺いたいと思った。速水氏は20世紀美術史を専門とし、『シュルレアリスム絵画と日本』(日本放送出版協会、2009)を著し、近年では論文「絵画空間のなかの西洋と東洋:三岸好太郎《海と射光》について」(『紫明』第34号、2014)を発表している。名古屋駅から近鉄線に乗り換えて三重県の津へ向かった。県立美術館は津駅から徒歩10分ほど、緩やかな丘の上にドンと現われた。
パリで出会った日本の前衛
今年2016年4月から館長という要職を務める速水氏は若々しい方であった。大学の卒業論文ではマルセル・デュシャン(1887-1968)を取り上げ、また修士論文ではコラージュ的技法を発明したマックス・エルンスト(1891-1976)について書いた。1963年大阪に生まれた速水氏は、神戸大学で西洋美術を専攻し、修士論文を書き上げた後にパリへ向かった。戦前の日本洋画に関心を持ったのは、ポンピドゥー・センターで開催していた「前衛芸術の日本 1910-1970」展を見たことがきっかけだった。網羅的な展示だったこともあり、見たことのない戦前の作品が驚くほどたくさんあったと言う。
《海と射光》はピンク色の明るい絵画という認識で、いつということなく画集などで見ていた。三岸好太郎については日本の近代美術史において、フォーヴィスムからシュルレアリスム への移行を考えるなかで、早い時期にシュルレアリスム的絵画を、独立美術協会展(以下、独立展)に出品した重要な画家のひとりとして注目するようになった、と速水氏は述べた。
1929年に古賀春江(1895-1933)が二科展に《海》《鳥籠》を出品したとき、日本にもシュルレアリスムがやって来たと言われ、1931年にはパリ在住の福沢一郎(1898-1992)が第1回独立展に、これまで日本になかった奇妙なイメージのシュルレアリスム的作品を37点出品した。それ以降、シュルレアリスム的絵画は徐々に広がって行った。三岸好太郎も第1回の独立展から参加しており、1934年第4回独立展に出品した作品のひとつが《海と射光》であった。古賀の作品は、制作年が早いにもかかわらず、シュルレアリスム絵画と見なしがたいのは、潜水艦や工場などモダニズムの要素が強いのが一因だろうと速水氏。機械を描くときは、文明に対する批判的な方向で描くことがフランスのシュルレアリスムには多い。しかし古賀はどちらかというと文明を礼賛しているようにも取れるような、モダニズムの意識で描いていると思われるところがある。また福沢一郎は、不条理な世界を持ち込んで本格的にシュルレアリスム絵画を日本にもたらしたと言われているが、エルンストのコラージュの影響が強い。古賀と福沢の後、数年を経て三岸の《海と射光》の発表があり、作品としての質の高さや詩的な官能性などから、日本におけるシュルレアリスムの記念碑的な作品とも評価されている。
図画教師・林竹次郎
1903(明治36)年札幌に生をうけている三岸好太郎の人間的な魅力は、複雑に絡み合う生い立ちに因るものかもしれない。父・橘巌松(いわまつ)は、旧加賀藩前田候に仕えた御殿医の家に生まれながらも、医学修業中に吉原通いで身を持ち崩し、北海道の石狩の料理店「角鉄」梅谷十次郎のもとに流れつく。十次郎の養女イシと相愛の仲となった巌松は、剛気な十次郎に結婚を阻止され、二人は梅谷家を出て札幌へ向かい好太郎を生んだ。
母イシは梅谷家の養女になる前は、十次郎の妻(養母)の兄、三岸卯吉の養女であった。その縁により、三岸の姓を受け、中学2年で父に先立たれた好太郎は、異父兄である小説家の子母沢寛(しもざわかん、1892-1968、梅谷松太郎)宅に下宿していた。近くにあった東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の教師だった有島武郎(1878-1923、小説家)によって創立された絵画サークル黒百合会を通じ洋画の新風を受けていたが、何より北海道立札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の図画教師であった林竹治郎(はやしたけじろう、1871-1941)と出会い、美術部「霞会」で三岸の画才は発現していった。
「巴里・東京新興美術同盟展」
1921年中学の卒業と同時に、親友で東京美術学校に入学した俣野第四郎と上京する。白樺派のメンバーによって開催された白樺美術館第一回展覧会でセザンヌ、ゴッホを初めて見て驚嘆する。俣野と下宿し、新聞配達、夜なきそば売り、画家大野麦風(1888-1976)の書生を経て、下谷郵便局のスタンプ係になって生活をつないだ。この頃アンリ・ルソー(1844-1910)に感銘を受ける。上京して1年、第3回中央美術社展に《静物》が初入選し、さらに翌年の1923年第1回春陽会展に《檸檬持てる少女》が入選した。母イシと妹の千代と西巣鴨宮仲に居を構え、関東大震災を越え1924年には、第2回春陽会展で《兄及ビ彼ノ長女》などが入選、春陽会賞を首席で受賞した。萬鉄五郎は「この人は形式の点より内容の点で素朴味がある」と評した。この年女子美術学校を卒業した吉田節子と結婚した。
三岸は1926年同郷の画友岡田七蔵と上海、杭州、蘇州など中国を3カ月旅行している。「上海の絵本」という散文詩を綴り、サーカスや道化、白馬などをモチーフにかげりを湛えた人間の奥深さを表現するようになる。鳥海青児(1902-1972)らと交友し、1930年には独立美術協会の結成に最年少で参加。日本で初めてフランスのシュルレアリスム絵画が実物としてまとめて紹介された、1932年開催の「巴里・東京新興美術同盟展」(東京府美術館)で、三岸はヨーロッパの前衛芸術作品の手法に魅せられた。ルオー風の輪郭線が目立つ作品を描いていたが、精密で明快な画面と秩序ある空間性を特徴とする“純粋主義”、厳格な幾何学的抽象表現を特徴とする“構成主義”、新しい表現方法に重きを置くことを特徴とするシュルレアリスムなど、多くの作品を果敢に制作していった。「三岸は、ヨーロッパにおける前衛美術の歴史を、反動の反動、否定の否定による発展過程(弁証法的進化)と理解し、新しい社会的環境から新しい美的価値が生まれることを確信した」と速水氏は言う。
変化は進化
1934年3月、それまでとは作風が一転した「蝶と貝殻シリーズ」を第4回独立展(東京府美術館)に発表。100号の《海と射光》のほか、《旅愁》《ビロードと蝶》《飛ぶ蝶》《海洋を渡る蝶》《貝殻》《のんびり貝》を出品。新しいアトリエを計画し、バウハウスで学び帰国した友人の建築家山脇巌(1898-1987)に設計を依頼する。節子夫人と「貝殻旅行」と称して京都、奈良、大阪に遊んだ。しかし、同年名古屋にあった銭屋旅館で吐血し、心臓発作を併発して客死、31歳だった。
新スタイルを貪欲に吸収し変化し、飄々と進んで行く野生味のあるパワー、そして天真で、うぶな優しさが息づく繊細さ。ロマンとファンタジーを求める三岸の特性は、北海道の風土抜きには考えることができない。大自然を開拓し、伝統にこだわらず、新しいことに果敢に取り組んでいく道産子の気風、モダニスト三岸には北の大地のエネルギーが感じられる。1967年三岸の遺作(油彩61、水彩・素描等159点)を三岸家が北海道庁に寄贈し、現在北海道立三岸好太郎美術館として三岸の偉業が継承されている。
【海と射光の見方】
(1)タイトル
海と射光(うみとしゃこう)。蝶と貝殻シリーズのひとつ。英名:Sea and Sunshine
(2)モチーフ
海、影、空、浜辺、ひとりの裸婦、巻貝・平貝・赤貝・アワビ・サザエ・ハマグリなど大小さまざまな貝殻。
(3)制作年
1934(昭和9)年。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5) サイズ
縦162.0×横130.8cm。F100号。生前最後の展覧会となった第4回独立展で出品した作品中では最大。
(6)構図
三分割された背景に、裸婦と貝殻を配置し単純化した構成。「『海と射光』のイメージは、幾何学的な形態をもった色彩平面(すなわち空は水色の五角形、海は青色の鋭角三角形、砂浜は桃色の台形)に抽象化されているのである」(山田諭「限りなく純粋な背景」『日本の近代美術10』pp.39-40)。
(7)色彩
薄桃色、肌色、橙(だいだい)、黄色、緑、水色、茶、灰、白、黒。鮮やかさと渋さが混じり合った独特の明るい画面。
(8)技法
平明な具象、平坦な画面により色彩が際立つ。
(9)サイン
画面右下に「K, migishi 1934」と水色で署名。
(10)鑑賞のポイント
薄いピンク色をした浜辺に、茶褐色のジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)的な影を描いた白蝋(はくろう)のような女体が横たわり、貝殻の散乱する浜辺の彼方は海と青空につながっている。貝は遠い所から、こちらへやって来た。ここではない、どこか遠いところとの虚ろな関係を思わせる。画面左上から注ぐ強い太陽光とその影。白日夢のような幻想的な光景を現出し、乾いたエロティシズム、生と死を共存させた東洋的な叙情をも漂わせている。「海洋ノ微風/射光ハ桃色ダッタ/バタ色ノ肉体/赤イ乳首ハザクロノ実ノ如クニハレテイル/角貝、平貝、のんびり貝/虚無ヨリ生活ヲ始メタ/生活トハ/イタリアネルノ白キ触覚ト同様ニ/嫉妬デアル」(匠秀夫『三岸好太郎』p.390)という三岸の長編詩「蝶ト貝殻(視覚詩)」の一節は、《海と射光》の自作解説になっている。射光がすべてを支配している世界を、詩と絵画両方で表現した。三岸は手彩色素描集『蝶と貝殻』を限定出版したのち、7月1日名古屋で客死する。《海と射光》は絶筆に近い三岸最後の大作であった。第4回独立展出品作。日本のシュルレアリスム絵画を語るうえで欠かせない一点であり、三岸の代表作。
デペイズマン
「《海と射光》は、明るい画面だけれど単純にわかりやすい絵ではなく、謎めいたところがある。裸婦が描かれた絵は世界中にたくさんあるが、顔と足を布で覆って隠しているところが人目を引く。散乱する貝殻と裸婦の組み合わせが、デペイズマン
「貝殻と人物の部分を消すと、空と海と浜辺を示す三色からなる幾何学的で単純な色面構成の背景が出現してくる」(図参照)と、名古屋市美術館の学芸課長山田諭氏が指摘しているが、背景の上に、女性を描き、そして貝殻を配置することで背景が「海」となる。また貝殻の影が描かれているので「射光」が暗示される。タイトルは「裸婦と貝殻」でなく「海と射光」だが、それは「裸婦と貝殻」があるから暗示されてくる。ただ裸婦と貝殻はサンドロ・ボッティチェッリ(1445頃-1510)の《ヴィーナスの誕生》(1483頃、ウッフィーツィ美術館蔵)のイメージも連想される。ルネ・マグリット(1898-1967)が描いた顔を布で覆った《恋人たち》(1928、 ニューヨーク近代美術館蔵)や、アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)の《横たわる裸婦》(1919、ニューヨーク近代美術館蔵)との関連もあるかもしれない。いい作品とはいろいろな見方ができるもので、一面的なものの見方はできない。いくつかの要素が混ざっており、夢幻的な光景が描かれている、と速水氏は語った。
俳句の構造
《海と射光》を含む「蝶と貝殻シリーズ」について、三岸が画廊主に宛てた書簡が残されている。「東洋精神に於ける求心的な寂明美(古池や蛙……の俳句に見る精神)と西洋の遠心的な簡明美とはおいつめられたる頂点である事は、私以外の諸君もこう定して頂ける事を私はうたがわない。私の今度の制作はそのマチエールを極端に迄メカニックな取扱ひ方をして西欧の精神を生かし同時に東洋精神の未来に迄延長し得るところの虚無的な精神を呼吸しようとしたところに手前味噌がある」(三岸好太郎『感情と表現』p.71)。
速水氏は東洋精神の例として三岸が俳句を挙げていることに着目している。俳句という表現形式との類推から《海と射光》の表現構造を紐解く。5・7・5の17文字に収まる限られた数の言葉の組み合わせによる俳句は、広がりのある情景や深遠で複雑な情緒を暗示、表現しうる芸術である。そのことから《海と射光》を考えると、三つの色面の上に“裸婦と貝殻”という要素を配置することで、限りなく広がる空と水平線を望む奥行きある空間が立ち上がってくると言う。
また速水氏は、この「蝶と貝殻シリーズ」には東洋精神と西洋精神の要素があり、三岸が東洋精神を、西洋のモダニズムが進んだその究極において現われてきた、ととらえたところに注目した。そして東洋と西洋の両者が対立しながらも、合一されるような弁証法的なあり方を三岸が志向するなかで生まれたのが《海と射光》ではないか、と語った。
速水豊(はやみ・ゆたか)
三岸好太郎(みぎし・こうたろう)
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【画像製作レポート】
参考文献