アート・アーカイブ探求
仙厓義梵《○△□》「わかる」がわかるか──「中山喜一朗」
影山幸一
2016年09月15日号
対象美術館
※《○△□》の画像は2016年9月から3年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
偉大なものは単純
丸、三角、四角の図形は、どのような人がいつ頃完成させたのだろうか。時代や国籍を問わず、誰もが認識できる単純形。和紙にこの○△□を墨で描いた書のような、絵のような作品は一体何を表わしているのか。遊び心で描いたのだろうか、見る者の心にまかせて臨機応変に機能する図として記憶の底に眠っていた。20世紀最高の指揮者といわれるヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の『音と言葉』(新潮文庫)にある「すべて偉大なものは単純である」を思い出し、単純明快な○△□がむくむくと蘇ってきた。現代のコンセプチュアル・アートにも通じる江戸時代の抽象画作品。禅僧の仙厓義梵(せんがいぎぼん)が描いた《○△□》(出光美術館蔵)である。
単純ということが奥深いのだ。多種多様な異質の要素が、相互に作用しながら違いを乗り越え、ひとつのまとまりを現出させていく。単純に至るまでの混沌と苦悩、単純な形態に潜む多様性、あるいは包容力。△の中央部に見える小さな青のにじみと、黒い筆墨線が連結してつくる○△□が哲学的な様相を呈し、絵画のなかに無限の時空を生み出している。
『仙厓の○△□』の著者であり、福岡市美術館で開催された1986年の「「仙厓」展:ユーモアにつつまれた禅のこころ」では企画を担当、1992年には『仙厓──その生涯と芸術(福岡市美術館叢書2)』を編集、出版した中山喜一朗氏(以下、中山氏)に、この絵画の見方を伺いたいと思った。中山氏は日本近世絵画史を専門とし、現在は福岡市美術館の副館長を務めている。福岡市美術館リニューアル(工期2016.9.1〜2019.3)の準備で多忙のなか、東京・目白で話を伺うことができた。
対話する禅画
中山氏は、目白の永青文庫でこの秋開催される「仙厓ワールド展」(2016.10.15〜2017.1.29)の監修のためにお盆休みを返上して上京されていた。中山氏とは初対面であったが、「麦わら帽子をかぶったおやじ」と言われた姿を探すまでもなく、ミュージシャンかデザイナーにも見えたがすぐにわかった。禅僧である仙厓さんのような雰囲気にあふれ、また小さくきれいな手が印象的だった。
1954年大阪市西成区に生まれた中山氏は、子どもの頃から音楽や美術が好きで高校生までは大阪フィルハーモニーのフロイデ合唱団に入り、音楽の道へ進もうと思っていたという。母親の勧めで音楽は趣味で置いておくことになり、二番目に好きな絵の道へ進むことを決めた中山氏は、3年間の浪人生活ののち、実技に関心があったため実技も美術史も学べる東海大学へ進学した。そこでは、フランス中世の絵画の専門家で、東京大学を退職後に東海大学の教授に着任した吉川逸治(1908-2002)のもと、西洋美術史を勉強することができた。浪人時代に著書を読んで感銘を受けた憧れの師である。ところが2年生の頃、東京国立博物館の「日本の山水画展」で長谷川等伯の《松林図屏風》を見た。「なんでこんな絵が描けるのかと衝撃を受けた」と中山氏。それからは桃山時代の障壁画や長谷川派の研究へテーマを変え、卒論も修論も長谷川等伯について書いたという。
1981年、福岡市美術館の学芸員となった中山氏が、最初に担当した展覧会は没後間もない郷土作家を扱った「甲斐巳八郎展」だった。1995年福岡市博物館へ異動し、同博物館学芸課長を経て、2011年より再び美術館に勤務している。ヨーロッパや中国、紀元前5千年の女神形壷を展示した大トルコ展、手塚治虫展など、国やジャンルを超えて展覧会を企画開催してきた。
仙厓との出会いは、35年ほど前の福岡市美術館に就職した頃という。先輩から「地元で何か研究しろ」と助言され、まだ誰も着手していなかった仙厓を仕事としてまじめに調査し始めた。仙厓の一生をたどり、2,000点ほどある作品を調べて、1986年に「仙厓」展を開催した。その後も仙厓に関する叢書を出版するため基礎的な悉皆調査を行ない、『仙厓──その生涯と芸術』を1992年に刊行。「これで仙厓とも別れられると思った」という中山氏。ところが仙厓作品を見る見方が以前とは変わっていることに気がついた。美術史的な見方をしたり、絵画としての見方をしていたら面白くない。仙厓は専門的な目を嫌っていると思ったと言う。純粋にいったい何を考えてこのような絵を描いたのか、と見始めたら面白くなったと中山氏は語る。その面白さというのは仙厓を冷静に見る研究者としての面白さではない。仙厓贔屓の姿勢で、友達感覚で見る。仙厓の作品は、寄り添うことを見る者に求める。それで、禅画をはさんで仙厓と鑑賞者がこうだろう、あーだろうと対話をする。対話する禅画 が仙厓の本質だろうと中山氏は言う。
禅からの脱却
仙厓は、江戸時代中期の1750(寛延3)年に美濃国武儀郡(現岐阜県関市武芸川)の貧農だった井藤甚八の次男として生まれた。11歳のとき臨済宗清泰寺(現美濃市)で古月(こげつ)派に属する空印円虚(くういんえんきょ)のもとで得度し、法名を義梵、道号として仙厓を授かる。19歳で武蔵国永田(現横浜市)の月船禅慧(げっせんぜんね、1702-1781)の東輝庵(とうきあん。横浜市の寶林寺と併合)の門下となり、印可(いんか)聖福寺(しょうふくじ)の盤谷紹適(ばんこくしょうてき、1714-1792)に招かれ、40歳で第123世住職となった。臨済宗妙心寺派の安国山聖福寺は、源頼朝の援助で栄西(ようさい、1141-1215)禅師が創建した日本最初の禅寺である。山門には後鳥羽上皇の宸筆と伝える「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の掲額が現在も残っている(図)。
「禅僧にもかかわらず仙厓はまじめに禅の話はしない。仙厓自身が禅を否定し、禅から脱却することを目指していた。あらゆるものから自由となり、永遠の世界に身を置くことが禅の目的だが、禅を否定しないと最終的な悟りは得られるわけがないと仙厓は思ったのだ。これはすごいことで、どうやって悟ったのかはっきりとわかっていないが、たぶん諸国行脚の途中で命を落としかけ、九死に一生を得た経験があったのだろう。人が野垂れ死にする天明の大飢饉の時代に、一文なしの乞食坊主が地獄のような世界を見、禅の絵空事のような救済に対し、嘘をつけと思ったに違いない」と中山氏は述べた。
博多の仙厓さん
京都の臨済宗大本山妙心寺から仙厓は本山の住職になる資格を得て、黒衣(こくえ)から最高位の衣である紫衣(しえ)を着る瑞世(ずいせ)の儀式の勧奨(かんしょう)を受けたがそれを固辞し、生涯博多に留まった。1811(文化8)年に住職を退任し、境内の虚白院(きょはくいん)に隠居した。しかし、聖福寺再建の大任を託した弟子の湛元等夷(たんげんとうい、?-1855)が事件を起こし、筑前大島への流罪となってしまった。1836(天保7)年、仙厓は再び聖福寺の住職となる。そして1837(天保8)年、のびやかな線で軽妙洒脱な禅画を描いた仙厓は、88歳の生涯を閉じた。都から遠く離れた在野の僧侶として一生を過ごし、日本最初の禅寺聖福寺を中心に悟りを求めて自己開発を行ない、庶民には禅画で教化をし、定型を壊す闊達さを持続してきた。
中山氏は「仙厓は博多に来る前のことはほとんどわからない。仙厓の気質と博多の人たちの明るくてさっぱりしている気質は合ったと思う。その場で即興的にさっと描きあげる当意即妙が仙厓の作画スタイルで晩年の仙厓の逸話がたくさん残っているが、仙厓は博多の人が考える理想的な人物みたいだ。仙厓を通して博多の人や博多の土地がわかる。仙厓は本当に市井の人々から愛されて、幸せな晩年を過ごした」と述べた。禅僧仙厓というよりも、人間愛に篤い「博多の仙厓さん」として現代でも多くの人々に親しまれている。
「厓画無法」
《○△□》を所蔵する出光美術館で学芸員を長年務めていた黒田泰三氏は「仙厓の画は、見る者の思念に奥行きをもたらす。画の余韻といってもよい。それは、画にあらわれた仙厓のものの見方に気づくことによって、われわれがそれまで自覚しなかった自らの心のありように新たな一面を見出すからである。その瞬間われわれは、おそらくわれわれの間尺に合った小さな真、あるいは善を発見しているのに違いない。それこそが実は、仙厓の表現世界における意図するところなのであろう。(略)仙厓にとって画を描く目的とは、すなわち鑑賞するわれわれ自らが心のなかに、世界観を遍く形成することにほかならないのである」。(黒田泰三「あらかじめ描かれた余白─仙厓画研究試論」『仙厓展』図録、p.3)と書いている。
仙厓には絵の師も弟子もいなかった。30歳台から絵を描き始め、全国行脚をしていろいろな絵を見ていただろうが、本格的に絵を描くのは40歳のとき聖福寺に来てからだと中山氏。福岡藩の御用絵師に尾形家があり、そこで狩野派の粉本を写したり、あれこれと試作を40歳台後半から60歳台まで続けていたが、この絵の修業時代は無目的だったかもしれないという。
「臨済宗中興の祖と称された偉大な禅僧の白隠慧鶴(はくいんえかく、1685-1768)と比較される仙厓の絵は、対極にある画風に見えるが、その精神においては白隠の衣鉢(いはつ) を継いでいる。臨済宗古月派の僧侶たちが白隠のもとへ走った時代に、仙厓はそうはしなかった。白隠のもとには行かんぞと単純に決めていたと思う。結局それが白隠が目指した白隠禅画の本質的な部分を、仙厓がまったく違う形で引き継ぐという立場になった。おそらくそこが禅画としての仙厓の位置だろうと思う。悟りを深めるための修行に、悟後(ごご)の修行というのがあるが、仙厓にとってはそれが書、絵画だった。だから仙厓の作品の一番最初に影響を受ける人間は、仙厓自身で、絵を描くことによっていま悟っている自分の境地が自分に跳ね返ってくる。聖福寺の住職を退任した62歳から絵画表現が本格化してくるが、こんな絵しか描けないのか、という自問自答の繰り返しで、どんどん悟りを深めていく、と同時に悟りを忘れる時期がやってくる。それがたぶん70歳台の前半で標榜した「厓画(がいが)無法」のとき。絵画的な技術を表面から払拭した無法による禅画である。絵の勉強をして絵を描こうとしてきた理由がわかった、絵画における悟りでもある。《○△□》はその頃に制作された。絵の力というのは、相手に対話を求め、人と人のつながりをつくり、そして笑いを生む。楽しく平易な賛文に、人生訓や禅的な哲理を託して民衆を教化した点に仙厓画の真骨項がある」と中山氏は述べた。
【○△□の見方】
(1)タイトル
○△□(まるさんかくしかく)。□△○という人もいる。英文:Circle, Triangle, and Square
(2)モチーフ
○△□。
(3)制作年
江戸時代。1819〜1828(文政2-文政11)年頃。仙厓70歳台の作品。手掛かりは基準印のひとつで70歳から使っている達磨型印。80歳台は別印となる。
(4)画材
紙本墨画。掛幅装。
(5)サイズ
縦28.4×横48.1cm。
(6)構図
□△○を部分的に重ねて、明確な図形の横一体感を表わす。それに対して、款記の縦に流れるような漢字の草書体が対を成す。
(7)色彩
黒、灰色。□、△、○と徐々に墨の色が濃くなる。黒のグラデーションと図形の重なりが奥行き感を与えている。
(8)技法
水墨。墨の濃淡と図形の重なりによる装飾。三つの図形はそれぞれが一筆書き。
(9)落款
「扶桑最初禅窟」の款記。「仙厓」の朱文達磨型印。後鳥羽上皇(1180-1239)の勅額(ちょくがく)に由来した「扶桑最初禅窟」は、1195(建久6)年日本で最初の禅寺、福岡県博多の臨済宗妙心寺派の聖福寺を意味する。
(10)鑑賞のポイント
誰でもわかる三つの単純な図形が横に重なって並べてある。□と△の接点を見ると△の濃い墨が□の薄墨へとにじんでいるため、□→△→○の順番で徐々に墨を濃くして描いたことがわかる。□は「すべてを徹底的に考える」、△は「最終的にひとつの解答にまとまったとしても、それもまた不完全である」、○は「そもそもわかる、悟るとは何か」を示す。○△□を三段階で表わし、見る者と同時に仙厓自身にも向けられた問いであり、仙厓が抱えていた根本的な問題意識であった。構造と意味から○△□を探り解答を導き出そうとするが、「わかる」がわかるか、というような問いかけになっており、宗教、宗派、宇宙の根源的な構成要素など、諸説さまざまな解釈が生み出されている。“無限”の豊かさを感じる仙厓の代表作。
すべては結局ひとつ
誰でも《○△□》を見て「これは何だろう」と、疑問に思う。また、いろんな答えをひねり出しても最終的には正解かどうか、証明できず、人が悩んであれこれ考えるように、仙厓は描いている。ただの○△□ではないのだ。
《○△□》は、諸説あるが大きくわけると五つあると中山氏は言う。ひとつ目は宇宙の根本を○△□の三つの形で表わしたとする宇宙原形説。二つ目は、○は無または無限、△は一、□は多、この三つを合わせたユニバース(宇宙の自然)説。三つ目は、白隠の高弟で古月派だった東嶺円慈(とうれいえんじ、1721-1792)が描いた《神儒仏三合法図》を根拠のひとつとした神道(□)・儒教(△)・仏教(○)の三教を表わした宗教融合説。四つ目は、天台(□)・真言(△)・禅宗(○)の三宗を表わした宗派合一説。五つ目は、仙厓が著した『三徳寶図説並序(さんとくほうずせつならびにじょ)』の図に示した三密(仏の身体〔身密〕・言葉〔口密〕・心〔意密〕)と六大(風・水・土・火・空の五大と人間の意識の識大)を表わしたとする三密六大説。その他、六大を象徴する土(□)と火(△)と水(○)を表わしたとする真言密教説や、禅における悟りの端的表象とする解釈もある。
中山氏は「大事なのは、四角と三角と丸が重なっていることがまずひとつ。あらゆるものはひとつに集約できるという考え方が表われている。相対的な価値観や先入観、善悪、右や左、上や下、いろんな世界を構成しているすべては結局ひとつでしょうと。では元の一個とは何か。それを自分自身に問いかけるための作品だとしたら、誰かに説明するための賛文はいらない。実際は人にあげた作品だったかもしれないが、仙厓自身のなかに図像があってその意味をいつも自分に問い返すというものではなかったか。また重要だと思うのは、右から描いたと見える自然な見え方の順序と、実際に仙厓が描いた順序が逆さまになっている事実。このなかで一番重要な図形は円相につながる○。自由な境地、無限、無、究極の図形という思想が仙厓のなかにあった。そして人が○から見ることを仙厓は意識していたのに、なぜ仙厓は□から描き始めたのだろうか。そのヒントは53歳のときに妙心寺の大通和尚に宛てた手紙のなかにある。“私はまだ修行中の身で△です。完全な○にはなれません。もし私が○になれないのであれば命がなくなっても仕方ありません”と書いており、自身の心境と図形を重ね□→△→○の順番で描いたことが推測できる。仙厓は己の道を定めて命掛けで修行をしてきた。《○△□》は仙厓の自画像ではないが、仙厓の根本を表わしていると言っていい」と語った。
1,000点を超す膨大な仙厓コレクションを所蔵する出光美術館が、開館50周年記念として「大仙厓展〜禅の心、ここに集う」(2016.10.1〜11.13)を開催する。《○△□》がどのように心に映るだろうか。仙厓との対話に行ってみよう。
中山喜一朗(なかやま・きいちろう)
仙厓義梵(せんがい・ぎぼん)
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参考文献