アート・アーカイブ探求
瑛九《田園B》──発光する反近代「石川千佳子」
影山幸一
2016年10月15日号
対象美術館
点描画の点以外
絵画にとって点は欠かせない。先住民族アボリジニのドットペインティング、東洋画の点苔(てんたい)
無数の点が平面を覆う瑛九(えいきゅう)の《田園B》(宮崎県立美術館蔵)は鮮やかな色彩点描の抽象画だが、青い背景にオレンジや黄色が華やかな印象でブーケの花束に見えた。しかし具体的なものは何も描かれてはいない。光の玉が弾けて飛び散る一瞬のようにも見える。色彩の点々が画面を覆い尽くしているかと思いよく見てみると、キャンバスの端に描き込みのない余白を所々発見し、日本的な平面性を感じた。ほかにも絵具を擦ったり、絵具をチューブから直接出して塗ったような、点描ではない部分がある。薄い色の絵具で色面を描いているところや、重ねて打った重層的な点は絵具が混ざり合い、点として認識できないものもある。即興的な点表現に比べ、色彩は念入りに計画されたように見える。発光する白と闇を感じさせる黒っぽい丸が画面の中央に縦に並び、黄色を引き立たせる補色の青紫を使い全体を調和させている。微小な色点が圧倒的ではあるが、強さよりも柔らかさを感じる。瑛九の点描画を見て、点以外のこだわりが気になっていた。一体瑛九は何を表現しようとしたのだろうか。瑛九って何者なのだろう。
「生誕100年記念 瑛九展」の図録に、瑛九の作品全般を貫いているのは「主観的イメージを直接に表現しようとする欲望の過剰さであり、湿った抒情である」と書いている宮崎大学教育学部の石川千佳子教授(以下、石川氏)に、《田園B》の見方を伺いたいと思った。石川氏は美術理論を専門としており、瑛九の出身地である宮崎で教鞭を執られている。日本列島に台風の襲来が続くなか、宮崎に飛ぶことができた。
網膜に刻印
夏の陽射しが残る宮崎は青空で光がまぶしかった。高さ20メートルほどのヤシの木「ワシントニアパーム」が道路沿い植えられ南国の風景が広がっている。宮崎大学へ向かうバスは、窓に日よけのロールカーテンが下ろされて車内がうす暗く涼しかった。
大学の美術棟はシーンと静かで、石川氏は待っていてくれた様子で迎えてくれた。石川氏は、宮城県仙台市に生まれたという。1985年、東京藝術大学大学院美術研究科を修了し、展覧会を企画する学芸員か、芸術を考える研究者か悩み、1986年宮崎大学教育学部の助手として初めて宮崎の地を踏んだ。
「とにかく驚きました。いまの宮崎公立大学の辺りに教育学部があり、校舎が昔の小学校のような木造だった。正直なところ、えらいところに来たなという感じでした。それと教育学部なのですが、当時の学生さんたちは美大のような雰囲気をもって制作に打ち込んでいるなど、学芸学部的な色彩を強く残していて、面白いところだと思いました。また、瑛九の作品にも関係してきますが、光と雨が東北や関東とはまったく違います。空の色は深い青というよりも、ペンキを塗ったような原色です。それは衝撃でした。そして雨滴がものすごく大きい」。
子どものころから音楽や美術が好きで、最初は音楽の方に関心があり、高校1年生のときに音楽理論を専門にしてみたいと思ったそうだ。しかし国立の東京藝術大学音楽学部の楽理科には、ハードルが高いピアノの実技もあった。美術の先生に相談してみると、美学を専攻すれば音楽も美術も研究できるし、美術研究ならば学芸員という途もあると教えてもらい、学芸員を目指して美術を選んだと言う。
小学生のときに、印象派が好きだった両親に連れられて、東京にルノワール展を見に行った。モネ(1840-1926)などの印象派から入り、ドイツ表現主義、そして独特の抽象芸術理論を展開したカンディンスキー(1866-1944)に惹かれていった。同時に仙台市立博物館での「長谷川等伯展」を見て以来、日本美術にも関心を持っていた。そうした実物の大作に触れた体験が、美術を志向する決め手となったと言う。
石川氏が瑛九の《田園B》を最初に見たのは、1979年東京の小田急グランドギャラリーで開催された「現代美術の父 瑛九展」だった。日本でこういうタイプの抽象画が描かれていたのか。新印象派の点描とは違う点で、これは何だろうと、そのときの感動を鮮明に覚えていると言う。特に晩年の油絵の大作が、頭でも心でもなく網膜に刻印されたような形で残った。宮崎に来て、瑛九が宮崎出身と知ったときには本当に驚いたそうだ。
Q Eiのフォト・デッサン
瑛九の作品は、油彩、水彩、ガラス絵、コラージュ、墨絵と実に多彩だ。当時新しい技法であったエッチング(銅版画)、リトグラフ(石版画)にも独学で取り組み、また印象主義、シュルレアリスム、キュビスム、抽象と次々に吸収し、表現様式も変転していった。
瑛九は、本名を杉田秀夫といい、1911年宮崎県宮崎市の眼科医で俳人でもある杉田直の七人兄弟の次男として生まれた。3歳のとき母と死別し、2年後に新しい母を迎えている。空想世界を文章や絵にすることが好きな少年は、14歳の春に上京して日本美術学校に入学、油絵を始め、16歳には「逝ける万鉄五郎氏の芸術を論ず」や「中村彝氏の芸術観及芸術について」などの評論を美術雑誌に寄稿している。1931年20歳になり、徴兵検査を受けるが、結果は不合格。1934年「宮崎美術協会」の創立総会でのちに瑛九の評伝を書く画家の山田光春(やまだこうしゅん、1912-1981)と出会う。
兄の杉田正臣の影響でエスペラント語を学んだ。国際共通語として政治的な力に左右されない平等な言葉という理念に共感していたのだろう。24歳時、日本エスペラント学会の九州特派員として宮崎を訪れた美術評論家の久保貞次郎(くぼさだじろう、1909-1996)と出会い意気投合し、以後晩年まで親交する。
1936年25歳のとき、初めて瑛九(Q Ei)の名でフォト・デッサン(写真の絵画) 集『眠りの理由』を出版、鮮烈な美術界デビューを飾る。このとき瑛九の名を瑛九とともに考えたのが、長谷川三郎(画家)と外山卯三郎(美術評論家)である。外山の好きな水晶球を表わす「瑛」の字と、長谷川の好きな多数の意を示す「九」を合わせ、「数多くの水晶玉が光り輝く」という意味である。それは、国籍や性別が不詳で中性的、透明で無垢、しかも自由で新鮮で魅力的、その名にふさわしい新しい作品の作者としてエイキュウにあり続けねばならない、との思いが込められた。キューピー(Q pi)のもじりともいわれる。この頃長谷川を通してオノサト・トシノブ(1912-1986)と会っている。1937年に日本で最初の抽象美術の団体である「自由美術家協会」の創立会員となり、俳句や静坐など東洋的なことに関心をもつ。瑛九は戦前戦後を通し、絵画表現にまつわる多彩な実験と創作活動を続け、新しい美術運動、団体の結成・創立にも参加した。
変転の中の油彩画
37歳で谷口都と結婚した翌年の1949年、宮崎で「瑛九後援会」が発足した。瑛九にとって今世紀最大の画家たちは、デュシャン(1887-1968)、モンドリアン(1872-1944)、カンディンスキー、クレー(1879-1940)であったという。探求心が強く、社会的な関心も広く持っていた瑛九は、1951年に自由と独立の精神で制作することを主張する「デモクラート美術家協会」を結成する。瑛九に共感して靉嘔(あいおう、1931-)、河原温(1932-2014)、池田満寿夫(1934-1997)、写真家の細江英公(ほそええいこう、1933-)らが集まった。
翌年には子どもの創造性を自由に育む教育を目指した「創造美育協会」を、久保貞次郎を中心に設立する。その頃、夫人とともに終の住処となる埼玉県浦和市に移住する。「僕のいる所は浦和駅から徒歩で十五分ぐらいの所ですが、市の中心街の裏側に当るような所ですから、緑にかこまれています。(略)田園趣味はくずれません」(「日向日日新聞」1955.9)と書いている。
1956年はリトグラフの制作に専念し、1957年の第一回東京国際版画ビエンナーレ展に出品した。その後は油彩画の制作に没頭し、独特の色点の集積による宇宙的な広がりをもった抽象表現に到達した。「絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています」と、久保貞次郎より紹介された福井の創造美育協会の木水育男にあてた手紙に記している。1959年大作《つばさ》の制作に入るがこれが絶筆となった。1960年3月急性心不全のため48歳の若さで急逝。近代的精神を貪欲に吸収しながらも宮崎の風土とつながり、日本の古典がもつ意味を理解しようと努め、論客で啓蒙家であった瑛九は、その多様さに呼応するかのように表現様式が移り変わったが、油彩画だけは生涯継続していた。
東京の東京国立近代美術館のギャラリー4では、山田光春旧蔵品をもとに瑛九デビュー前後の3年間に焦点をあてた初公開作品・書簡を交えた60数点のミニ回顧展「瑛九 1935-1937 山の中で『レアル』をさがす」展(2016.11.22-2017.2.12)が開催される。
【田園Bの見方】
(1)タイトル
田園B(でんえんびー)。作品には《田園》もある。英文:Pastoral B
(2)モチーフ
田園。
(3)制作年
1959年。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5) サイズ
縦130.7×横194.0cm。F120号。
(6)構図
画面全体に微小な点が均一に打たれ、茫洋とした雰囲気のなかで、視点は1カ所に偏らないが、構成的に重心は上部にあり光が降り注ぐ感じがする。
(7)色彩
オレンジ、ピンク、黄色、白、緑、グレー、水色、青紫、紫、茶、黒など多色。補色を用いている。
(8)技法
薄塗りの点描。おつゆ描きのような薄い絵具で描く点描が、水墨で描く南画の点苔と似ている。
(9)サイン
画面右下に紺一色で「Q Ei 1959」(図1)。
(10)鑑賞のポイント
オレンジ色をした楕円形を核に、星雲を思わせる千万もの微細な点が、幻想的な光を放っている。点や丸の色は、一つひとつが独立しているようであるが、作品の前に立つと、それぞれの色はとなりの色と響き合い、画面がゆらゆらと揺らめくように見える。無数の点が発する色彩の明暗が、ときに調和し、ときに具象にも見え、見るものを不思議な時空へ誘い込む。宮崎県立美術館(図2)に隣接する宮崎県立芸術劇場には、緞帳の絵柄に《田園B》が採用され、迫力のある重厚な織物アートとしても活用されている(図3・4)。月、星、太陽の光が、宮崎の田園に映り輝いている情景、または「平和の塔」が建つ平和台公園から望む宮崎平野の眺め、宮崎の大淀川湖畔にあるホテルの屋上から見る宮崎平野に沈む夕日、あるいは瑛九の心象風景などさまざまな感想があるが、光あふれる瑛九誕生の地、宮崎を背景にした抽象絵画である。自然の崇高さを感じさせる瑛九の代表作。
凝縮された点描
石川氏は「《田園B》の色彩は輝いています。大変鮮やかで、打たれた点がチラチラと動いているように見える。宮崎の光、風土、空気が呼び込まれた作品と言えるでしょう。黄色と対照される補色の青紫には、宮崎の空を感じます。瑛九の作品には、平板な原色の水色が使われていたりするのですが、宮崎の光に映える地域の色と言えるかもしれません。そしてこの圧倒的な点描です。いままで試みてきた形象、タッチ、色彩、技法などの全部が溶かし込まれて、凝縮された形で迫ってきます。この《田園B》に先立つ作品などで瑛九は、アメリカの抽象表現主義や、ヨーロッパのアンフォルメル絵画に近づいた表現を行なっています。点のみによる完全な抽象で、オールオーヴァー池大雅や田能村竹田(たのむらちくでん。1777-1835)など南画の描法も研究していたそうです。《田園B》は、東洋的なものとモダニズムが点を媒介にして融合を遂げた達成と言えるかもしれません」と語った。
点と化した日本のモダニズム
現代美術のパイオニアとして突出していたという瑛九。瑛九は専門的な美術教育を受けておらず、油絵も上手ではなかった。でもだからこそ逆に自分の考えることを表現に結び付けることができたと石川氏。アカデミックな手法を経由せず、ストレートな表現に至ることができた。拙い不自由さゆえ、古典的な油絵において、点を打つというシンプルな反復行為の組み合わせによる大作が制作された。ただそれが評価されにくいところでもある、と石川氏は言う。
宮崎県生まれの画家、矢野静明(1955-)は「作家固有の手による点描行為が、絵画空間としては個の超越への方向をもつことは、瑛九が『日本のモダニズム画家』であることと関連するはずである。近代的な個の自覚が画家の身体として表出される時、瑛九の空間意識はアンフォルメルや抽象表現主義に接近しながらも、微妙に別の空間を求めているように思える」(矢野静明『日本モダニズムの未帰還状態』p.192)と書いている。
「瑛九の命名者のひとりであり、東洋画が現代美術を先取りしていたと考える長谷川三郎は、『南画鑑賞』 で西洋美術の特質は写実、東洋美術の特質は写意とする二項対立の図式を避けて、双方に共通する『写』に間接性と受動性を見た。そして精神の躍動が相即的に現われる表意・具意こそが、水墨画や南画と、現代美術の抽象表現に通底する東洋から発する造形原理だと言う。瑛九にとってモダニズムは、スタイルでも方法でもなかった。ヨーロッパのモダンアートの底にある自然と自己の関係、そのなかには東洋の感情移入的な一体感を伴う自然観というものを瑛九は意識しながら、自然と自分との関係を常に思案していた。瑛九の点は、自己の“打つ”という行為以外に何の根拠も持たない文字どおりの“原点”である。自己を起点に置くモダニズムの原理を貫くために、このぎりぎりの地点まで立ち戻らなければならない厳しさがあった。瑛九の点描画と長谷川の論理には響き合うものがある。《田園B》は、モダニズムと瑛九自身がいま生きている場所としての自然をつなぐひとつの着地点だった。この田園という表題は、いわゆる東洋的な観念ではなく、瑛九にとってリアルな自然を指していると思う」と石川氏は述べた。常に新しさを求める近代。その近代を見据えて近代を問う反近代。日本のモダニズムが瑛九によって点描と化した証が《田園B》と言えるのかもしれない。
ベートーヴェンがあの有名な「運命」と並行して作曲したという、交響曲第6番「田園」を瑛九は繰り返し聴いていたという。1808年の初演時には「田園生活の思い出」と題されていた。第一楽章は「田舎に着いたときの晴れやかな気分」。太陽が眩しく濃い影を落とす宮崎へ、表現の冒険を続けては帰る瑛九の心情が表われているようだ。限りない創造の自由を求めた瑛九渾身の絵画《田園B》。神話のふるさと宮崎の光に包まれ近代と向き合った作品である。
石川千佳子(いしかわ・ちかこ)
瑛九(えいきゅう)
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参考文献