アート・アーカイブ探求
下村観山《春雨図屏風》──かすかなるものの力「木下長宏」
影山幸一
2017年01月15日号
対象美術館
弱さを大切にする
今年は新春の箱根駅伝(第93回東京箱根間往復大学駅伝競走)の快走を沿道の観衆のひとりとして間近に見ることから始まった。東京・大手町から神奈川・芦ノ湖の往復。217.1kmを10人の大学生がたすきをつないで勇壮に走る。先頭を行く青山学院大学は「頑張れー」という声援の中をランニングの緑色を残して目の前を一瞬で通り過ぎて行った。走る速さに目が慣れてきたのか、4位の順天堂大学では走り方まで見ることができた。後ろへ蹴る足の運びがきれいだな、と思っていたら周りにいた人たちも同時に「きれいな走り方!」と声を上げた。記憶に残ったのは紫のランニングに白いシューズを履いた順天堂大学の美しい走り姿だった。
元横浜国立大学教授で芸術思想史家の木下長宏氏(以下、木下氏)は「〈美〉や〈芸術〉の営みは、いつも、人間の〈弱さ〉や〈忘れ去ったもの〉の美しさ、かけがえのなさを思い起させてくれる。人間のそれぞれの可能性というものは、そんな〈弱さ〉を大切にするところから見つけ育てることができるのだ」(Web〈土曜の午後のABC〉の「はじめに」より)と述べている。〈弱さ〉をポジティブにとらえる言葉にすくわれる思いがする。そんな〈弱さ〉が美になるのかと、下村観山の《春雨図屏風》(東京国立博物館蔵)が思い浮かんだ。
霞のなかで和傘を差し、足早に去るひとりの着物姿の女性。すれ違いによい香りがしたのか、若い3人の女性がふと振り返った。その一瞬をとらえたはかない絵。江戸時代にあった日常風景をそのまま写しとったような実物大の風俗画。橋の欄干を表わす線は画面の端から端までまっすぐ一直線に引かれ、横長画面の屏風に橋の構造を合わせた日本画らしからぬ大胆でモダンな配置となっている。しかし遠目には優しい美人に見えても、近くで女性の横顔を見ると肌に点々と沁みのようなものがあり、目は移ろいお歯黒美人とはいい難い面貌で何やら秘められたものを感じる。
木下氏に《春雨図屏風》の見方を伺ってみたいと思った。木下氏は大学院時代に観山が薫陶を受けた岡倉覺三〔天心〕(1862-1913)について『岡倉天心:事業の背理』(紀伊国屋書店、1973)を著わし、さらに30年後ミネルヴァ書房から『岡倉天心:物ニ観ズレバ竟ニ吾無シ』を書きそれまでの成果を更新し、2013年横浜美術館で開催された「下村観山展」では「下村観山の見どころ」という記念講演を行なっている。観山が居を構えた観山ゆかりの地、横浜で再会することができた。現在、木下氏は近代人文科学の範疇から飛び出て、美の営みの根底にひそむ問題を考える私塾〈土曜の午後のABC〉を横浜で開いている。
形をなさない形の面白さ
木下氏と観山作品との出会いは、いつどこで見たのか忘れたらしいが、第一回日本美術院展出品作《闍維(じゃい)》(1898)だった。釈迦の火葬を描いた絵である。人の後ろ姿、背姿を一生懸命描いているのが面白いと思ったという。
木下氏は1939年滋賀県彦根市に生まれ、2歳のときには彦根市から健康優良児の表彰状をもらうほど健康だった。しかし、そのときウイルスに感染したらしく脊髄の中にある灰白(かいはく)質がウイルスに侵され、運動神経が麻痺する急性灰白髄炎(ポリオ)に罹ってしまったという。回復したものの両足が不自由となり車椅子の生活を余儀なくされた。
父を早く亡くし、母親の押してくれる乳母車で通った小学校は、母が倒れて4年生までしか行けず、小学校5年から高校3年まで学歴がないのだという。それでも、最初の読書体験は小学生のときに母が読んでくれた『ハムレット』(チャールズ・ラム、メアリー・ラム『シェイクスピア物語』所収)。そしてNHKのラジオ番組「音楽の泉」でクラシック音楽を欠かさず聞き、ラジオ高校講座で独学し、天文学者に憧れていた。
最初に木下氏が美術に引かれたのは、京都市美術館で見たジャン・アルプ(1886-1966)の小さい抽象的な彫刻作品だという。それまで写実に精神がこもっているのが一番すごい絵だと思っていたが、アルプの作品は、人間が見て名前のつけられない形をなさない形の面白さがあって、芸術の奥深さを知った。また、1958年から1967年まで日本に滞在していたアメリカのコンセプチュアル・アートのアーティスト、ジェームス・リー・バイヤース(1932-1997)との出会いがあったという。バイヤースが、京都外国語短期大学で英語講師のアルバイトをしている頃親しくなり、学生のひとりだった木下氏は、バイヤースが京都市立美術館で行なった展覧会で詩を朗読するパフォーマンスをした。「アルプのこともバイヤースさんから教わったのかも」と木下氏。
美とは何かを考えよう
自分の今後の人生を考えた17歳頃の木下氏は、肉体労働はできず、勉強するしかないと思ったそうだ。大学へ行こうと決心し、「大学入学資格検定」を受けるために京都予備校へ通った。検定試験を管理している京都市役所へ受験したいと電話すると、「検定試験は義務教育課程を終え、高校を卒業できなかった人が卒業の資格を取得するために用意しているので、あなたの場合は小学5年から入り直して中学校を卒業しないと試験を受けられない」と言われた。中学校を卒業していない木下氏は絶望した。
その後、家に出入りしていた大学生から、大学独自に認定試験を行なっているところがあると聞き、京都外国語短期大学の認定試験を受け合格、2年間短大で勉強した。京大へ行こうと思い、短大を卒業する予定の3月に京大へ願書を出しに行ったが、ここでもまた壁があった。高校の卒業証明書がないと受験はできないと言われた。翌年、まず私立大学から当たってみようと同志社大学へ。ここでも高校の卒業証明書がいると言われたが、短大の卒業証明書を窓口へ出した。しばらく待たされたが、はげ頭の事務長が京都弁で「受験票切りまっさー」と。この一言から木下氏の大学人生が始まった。修士論文は「ヘーゲル美学の生成」。大学院在籍中に『岡倉天心』を書いて出版した。「人間にとって美とは何かを考えよう」と木下氏は思った。「人間は生きていくときにどうしても美にひかれる。僕自身がそうだった。美はあとから美だと気づく。美に関する本がいちばん慰めと励ましになっていた。生きることにつながっている美の秘密を解き明かそう」。
日本の伝統を復活させる絵画
下村観山は、1873(明治6)年に能楽師である下村豊次郎の三男・晴三郎として和歌山県に生まれた。家は代々幸(こう)流の小鼓をもって紀州徳川家に仕えていたが、1881(明治14)年に上京し、狩野芳崖に継いで橋本雅邦(1835-1908)に師事した。1888年には明治時代の美術開拓者で思想家でもある岡倉覺三に絵を見てもらう。1889(明治22)年東京美術学校(現東京藝術大学)の開校とともに入学し、卒業制作には《熊野観化》を描いた。1894(明治27)年に卒業、すぐに母校の助教授となる。
ところが、1898(明治31)年美術学校騒動が起き、岡倉が校長を辞職、そこで観山は橋本雅邦、横山大観、菱田春草らと共に岡倉を支柱とする日本美術院の創立に参加する。新時代としての近代化に寄与する日本美術のありようを探るため、伝統復古とともに革新運動を行ない、その成果のひとつとしての没線(もっせん)描法は「朦朧体(もうろうたい)」と酷評された。その後観山は、東京美術学校に教授として復職し、文部省給費留学生として英国に留学、欧州各地を視察する。狩野派の厳格な様式に基礎を置きながら、やまと絵の流麗な線描と色彩を熱心に研究し、さらに欧州巡見による西洋画研究の成果を加え、穏やかで気品のある独自の画風を追究した。
1906(明治39)年経営難により日本美術院は、上野・谷中から茨城県五浦(いづら)に移転。観山も大観や春草、木村武山(1876-1942)と移住した。この頃観山は若く感受性も鋭いいっぽう、幼年時代から鍛えた技法は仲間を抜きん出ていたので、岡倉に高く評価された。1908(明治41)年観山は東京美術学校教授を辞職、1912(大正元)年岡倉の紹介により実業家の原三溪(1868-1939)の後援を受けることになり、五浦から神奈川県横浜へ引越す。《春雨図屏風》は観山が原三溪に贈った作品であることが、三溪の「美術品買入覚」に記載がなく、「蔵品目録」には《春雨図屏風》の記録があることからわかる。
1913(大正2)年岡倉が没し、翌年には、大観と日本美術院の再興に尽力した。歴史を描け、空気を描けと言ってきた岡倉先生を思い、第一回再興日本美術院展に《白狐(びゃっこ)》(岡倉の遺作であるオペラ台本「The White Fox」を思い描いての作だろう)、第二回再興院展に《弱法師(よろぼし)》(重要文化財)、第三回再興院展に《春雨図屏風》と、観山芸術を代表する作品を続けて発表した。1917(大正6)年には帝室技芸員に任命される。西洋画法の特質を取り入れ、というより西洋絵画と対決し日本の伝統を復活させる絵画に挑戦し続けた観山は、1930(昭和5)年57歳で生涯を閉じた。東京・谷中の安立寺に眠る(図1)。
【春雨図屏風の見方】
(1)タイトル
春雨図屏風(はるさめずびょうぶ)。または春雨。英文:Spring Rain
(2)モチーフ
雨、傘、4人の女性、橋。モデルはなく、創作上の美人。観山の美人画の首にはよく黒子(ほくろ)がある(図2)。
(3)制作年
1916(大正5)年。第三回再興日本美術院展の出品作。観山43歳。
(4)画材
絹本着色。胡粉、墨、紺青、緑青など、日本画の顔料を用いる。
(5)サイズ
六曲一双。右隻・左隻各縦190.0×横406.0cm。
(6)構図
8mにも及ぶ横長の画面を橋に見立てた斬新な構図。右隻にひとり、左隻に3人の等身大の女性を配置し、中央の空間が茫洋たる無限を暗示させる。無背景に橋の欄干がつくり出す四角い形状に丸と三角形の傘。舞台のような屏風絵の焦点は、横顔の見える女性に絞られていく。
(7)色彩
黒、白、灰、赤、茶、緑、黄、紫、水色などの多色を用いた淡い色調。背景は絹の地色がそのままであるようだ。
(8)技法
耳が透けて見える髪の毛の遊糸線(ゆうしせん)
、太くなったり細くなったり抑揚のある着物の肥痩線(ひそうせん) 、まっすぐな橋や傘の骨の鉄線描(てっせんびょう) といった多様な線描技法。裏箔(うらはく) と裏彩色(うらざいしき) 、女性の肌には焼箔(やきはく) を用いている。一枚一枚の枠張りで、描きながら箔を打ち、あとから屏風に仕立てた。(9)落款
「観山」の署名、「観山東秀」の白文方印(図3)。
(10)鑑賞のポイント
3月なか頃から4月の時季か、春雨けぶる橋の上を傘を傾けたひとりの女性が小走りに通り過ぎて行く。整った高島田に流行のかんざしが揺れている。お稽古帰りか3人の若い娘たちがその後ろ姿をいっせいに振り返っている。菱田春草が中途で制作をやめた「雨中美人」を発想源とする説もあるが、黒衿をかけた雨コートや黒塗りの高下駄、黒襦子(くろしゅす)の昼夜帯(ちゅうやおび)など、時代物の着物を収集していた下村観山が江戸の名残の女性風俗を描いたとみたい。技巧を凝らした写実と演劇的な構成。春の細かい雨で霞み、温かく潤いのある空間を生み出す。その朦朧とした空間に、明快な橋の描写がより深い奥行き感を与えている。インドの詩人タゴール(1861-1941)は、三溪園を訪れたとき、近くの観山宅を訪ね、制作中の本図を目にし、日本画の美しさに心を打たれたという。繊細な余情と荘重(そうちょう)を併せ持つ観山の傑作。
ひとり離れて行く人
「迷いながら描くという面白さが《春雨図屏風》に見える」と、木下氏は述べた。第三回再興院展の《春雨図屏風》は、彼自身の迷いを描いた絵。再興日本美術院をやっていくか、それともひとりで絵を描いていくか。肉眼で見る形を描く西洋画技法と心眼で観る東洋画技法の間での葛藤。迷いのどん底だったのかもしれないと言う。
「正岡子規(1867-1902)に春雨の短歌がある。《裏町の柳の小径往き通ふ 蛇の目からかさ春雨のふる》(子規)。日本画は単なる情景描写に見えても、必ず文学的なあるいは歴史上の出来事といった裏テーマを持っていた。観山はこの短歌の情景を絵にして新しい日本画の伝統を復活させてみたいと思った可能性がある。《春雨図屏風》が持つもうひとつの裏テーマ、メッセージは、ひとり離れて行く人だろう。観山は、日本美術院から離れて行くことはできないけれど、絵では離れて行く自分を描いておこうと思ったのかもしれない。また、若い頃岡倉先生から聞いた「殺気」のこもった絵(明治23〜25年東京美術学校の講義「日本美術史」)、その殺気を描かなければいけない、それをどのように自分のものにしていけばいいのかは、観山にとって生涯の課題だった。その思いが逆に《春雨図屏風》に見られるように弱いものに向かっている。老子の言葉に「反者道之動 弱者道之用(反は道の動、弱は道の用)」(『老子』四十章)がある。観山は老子をよく読んでいたから(老子の肖像画も何点か描いているほどだ)この言葉を心得ていたはずだ。つまりひとつの動きが起るときには、同時にその内部で反対の動きが働いてその動きを完成させている。岡倉先生のいう殺気は力強い殺気だけを表現するのではなく、そのなかに働く弱の動きもとらえてこそ生きてくる。そういう思いが《春雨図屏風》から読み取れる」と木下氏は述べた。
さらに木下氏は「3回目の再興院展で《春雨図屏風》を持ってきたのはなぜか。岡倉先生は歴史を描けと言ってきた。《白狐》は白狐の伝説があり、《弱法師》は能の謡(うたい)。そういう歴史ものから離れて、日常の情景を描いたのが《春雨図屏風》。物語で繕うことのできない、最も描写の実力が要求される絵。西洋近代の写実画との対決の志がここに隠れている。場面としては、橋の上で、4人の女性は二手に分かれて、3人が振り返ってひとりの女性を見ているだけ。3人とひとりがつくる「反」の動きがこの屏風絵を構成している。この絵のなかの物語は歴史物の場合のように表立ってこない。描かれたものから絵が生まれる。春雨というのに雨は描かれていない。観山が切り拓こうとした境地は、絵には描かれていないけれど感じさせるもの。右から左へ風が吹いている。春雨という言葉から受け取る優しい雨ではない強い雨足が、じっと観ていると感じとれる。着物の裾の揺れ、傘の動きが一瞬を表している。何かドラマが隠れている一瞬。着物の図柄もひとつひとつ鑑賞していくと味わいがある。見てもらいたいところは全部隠しておいて感じさせる」と《春雨図屏風》の魅力を語った。
木下長宏(きのした・ながひろ)
下村観山(しもむら・かんざん)
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【画像製作レポート】
参考文献