アート・アーカイブ探求
白隠慧鶴《半身達磨》目に見えない核心を見よ──「浅井京子」
影山幸一
2017年07月15日号
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ゆるい画風のメッセージ
国政にも影響を及ぼすといわれる東京都議会選挙は、緑色をイメージカラーとした都民ファーストが圧勝。テレビの選挙速報も緑色に引きずられたかのように各党を色で表現していた。選挙といえば祈願達成で目玉を描き入れる縁起物の達磨が必須オブジェと思っていたが、今回の報道に赤い達磨像は見えず、赤の補色の緑色が画面を占めていた。「ダルマさんにらめっこ」のわらべ歌や「ダルマさんがころんだ」の遊びはすでに遠い昭和の風景なのか、達磨さんの出番は減ってきたのだろうか。
インドに生まれた達磨は実在の人物だが、不変のおかしみのイメージを持っている。達磨を描き続けた禅僧の絵に、白隠慧鶴(はくいんえかく)の代表作《半身達磨(はんしんだるま)》(大分・万寿寺蔵)がある。大きな画面で気迫があり、顔の表情は単純軽妙だ。ジョルジュ・ルオー(1871-1958)の《聖顔》(1933、ポンピドゥー・センター蔵)の重厚さと人間味や、奈良美智の《春少女》(2012、横浜美術館蔵)のポップだが動じない信念と、どこか自己との対話を促すような共通する魅力があった。自己流で拙いと思っていたゆるい画風のうちに、切実なメッセージを込めた白隠の思いが伝わってきた。
やさしそうで哲学的な《半身達磨》について『画題でみる禅画入門 白隠・仙厓を中心に』(淡交社)の著者である浅井京子氏(以下、浅井氏)に奥深い絵の見方を伺ってみたいと思った。禅画という禅僧の描いた画に絵画として惹かれたという浅井氏は、禅書画や東洋陶磁、近代の作品などを所蔵していた東京大田区の富岡美術館の学芸員を長年務め、2004年春にはそれらの作品と共に、早稲田大学會津八一記念博物館へ異動。2015年の「シンポジウム禅画の世界 白隠と仙厓」では特任教授として企画進行を務め、2016年に退職。現在は日本美術史家として活動されている。早稲田の會津八一記念博物館で待ち合わせることになった。
学芸員へ導いた阿修羅像
富岡美術館には、白隠の禅書画も30点ほどあったが、浅井氏が万寿寺の《半身達磨》の実物を初めて見たのは、1988年の新宿・伊勢丹デパートで開催された「ダルマ・達磨・だるま展」。「面白い、すごいなと思ったが、まだまだ自覚して見ていなかった」と浅井氏は当時を顧みた。
浅井氏の美術への道は、中学校の美術部に始まる。先生に引率されてブリヂストン美術館や二科展に行き、古賀春江やクロード・モネ(1840-1926)、東郷青児(1897-1978)の本物を鑑賞し、また、父親とも東京国立博物館へ国宝展を見に行ったという。そして、高校の修学旅行で奈良の興福寺へ行き、阿修羅像の少年のような、しかしそれだけでもない姿に強く惹かれたことが美術史への興味のきっかけになった。「阿修羅像はものすごく印象的だった」と浅井氏。後年、父親は「なんで仏像の勉強なんだ」と合点のゆかない怪訝な顔で娘に尋ねたという。浅井氏は東京藝術大学に入学し、3年生のときに日本美術史を専攻した。ちょうど仏教彫刻史を専門とする水野敬三郎教授が芸大で教鞭を執られることになり恩師となった。
作品との対話が重要で、人とつき合わなくてもいい職業だろうと思い、浅井氏は大学生の頃から学芸員になりたいと考えていた。しかし、重い作品を持つことも多い学芸員は女性にとって募集の少ない狭き門の時代だった。1979年秋に富岡美術館の学芸員募集があり、応募した。ことなく採用が決まり、1980年1月より四半世紀を美術館で過ごし、美術館の最後を見届けた。学芸員ほど人と人とのつながりや会話を大切にしないと成り立たない職能はない、と思いを新たにしたそうだ。
地獄の説法
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と江戸中期にうたわれた、五百年にひとりの名僧と言われた白隠。膨大な数の禅画を描くことによって禅の教義を広めた白隠は、1685 (貞亨2)年、駿河国駿東郡原(静岡県沼津市原)の東海道に面する沢瀉(おもだか)屋という旅籠兼運送業を営む裕福な家に生まれた。長澤家の二女三男の末子で、幼名は岩次郎。11歳の頃、母に連れられて行った日蓮宗昌源寺で、地獄の説法に恐怖を抱いたことが出家を志す契機となった。風呂釜のゴウゴウとした音が地獄の業火(ごうか)を思い出させ、大声で泣き出しなだめすかせても泣きやまない。感受性が強く、繊細な感覚を持つ子どもだったと伝えられている。地獄の恐ろしさを断ち切るため、15歳のとき原の松蔭寺の単嶺祖伝(たんれいそでん)に就いて得度し、「慧鶴」と法名(ほうみょう)を得た。鵠林(こくりん)とも号す。
静岡県内や福井、愛媛などの禅の師匠をめぐり修行を重ねたが、19歳頃に禅の修行に疑問を感じ、一年ほど書画の世界に耽溺していた。24歳のとき越後高田の英巌寺(えいがんじ)で修行中、暁に遠寺の鐘音を聞き、大悟を確信した。一流の禅者と伝わる信州飯山の正受(しょうじゅ)老人こと道鏡慧端(どうきょうえたん)を訪ねたが、自惚れを見抜かれ、罵倒され厳しい修行を課せられた。心身を病んでしまった白隠は、「内観の法」という道教の瞑想法で病を克服。後年、坐禅と内観を併せた自伝的養生集『夜船閑話(やせんかんな)』を記した。
白隠は33歳で故郷に戻り廃寺寸前であった松蔭寺の住職となった。翌年、京都・臨済宗妙心寺の法階・第一座を得て、富士山にちなみ道号を「富獄は雪に隠れている」から白隠とした。法名は仏門に入った時にもらう名前であり、道号は一種の字(あざな)。禅僧の名前は、法名の上に道号を冠した4字の連称を用いる。42歳となった白隠は『法華経』を読んでいるとき、庭のコオロギが鳴くのを聞き、「菩提心とは四弘誓願(しぐせいがん) の実践にほかならない」と悟る。この大悟によってこれまでの修行時代から教化時代へと変わっていく。
衆生本来仏なり
大衆教化のために説法や禅画を描きながら全力を注ぎ臨済禅を復興させ、権威に安住していた臨済宗教団を批判し、名声は年々高まっていった。68歳のときに静岡県富士の無量寺開祖となり、76歳のとき三島の龍澤寺(りゅうたくじ)の開山の儀を行い、その住持に大胆な書画を描く弟子の東嶺円慈(とうれいえんじ、1721-1792)を任命。そして、80歳、池大雅との交友が知られる遂翁元盧(すいおうげんろ、1717-1789)に白隠のあとの松蔭寺を継がせた。多くの弟子のなかで白隠の二大俊足といわれる。1768(明和5)年、長年住んだ松蔭寺で84歳の生涯を終えた。
「生きとし生けるものには、もともと仏性がそなわっている(衆生本来仏〔しゅじょうほんらいほとけ〕なり)」(『白隠禅師坐禅和讃』の一節)。地獄への恐怖を契機に禅僧となり、生涯を衆生済度(しゅじょうさいど) という菩薩道の実践に捧げた白隠。遺骨は静岡県沼津市の松蔭寺(図1)、三島市の龍澤寺、富士市の無量寺の三処に葬られた。後桜町天皇より「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんし)」を、明治天皇より「正宗国師(しょうしゅうこくし)」の諱号(しごう)を賜る。
【半身達磨の見方】
(1)タイトル
半身達磨(はんしんだるま)。「達磨図」「朱達磨」「朱衣達磨像」とも呼ばれる。英題:Bodhidharma (Daruma)
(2)モチーフ
達磨。
(3)制作年
1767(明和4)年と推測される。白隠83歳。達磨像などの名作が多く生まれた年。
(4)画材
紙本着色。掛幅。
(5)サイズ
縦192.0×横112.5cm。この大きさを上回る達磨像は、愛知県豊橋の正宗寺(しょうじゅうじ)の達磨図(222.8×136.3cm)と、同じ豊橋の東観音寺(とうかんのんじ)の達磨図(211.5×126.6cm)がある。また、正宗寺の達磨図(1751〔寛延4〕年作)は、白隠独自の達磨像スタイルの第一歩となった記念碑的な作例。
(6)構図
江戸時代以降の達磨図として、最も一般的な半身達磨の構図。右斜め向きの半身像で、顔が画面三分の二を占め、目が特に大きく強調されている。
(7)色彩
黒、灰、朱。鮮やかな衣の朱色が、黒を背景にひときわ目を引き、顔の肌色によって達磨の現実感が増している。白眼の部分は紙地の色のままで、色彩には墨の濃淡と朱を用いているが濃厚な色調を感じさせる。
(8)技法
焼き筆(木炭)で描かれたと思われる下書きを無視した自由で奔放な筆致。顔面は淡い墨で丁寧に描き、身体を包む衣は濃墨(のうぼく)の簡略な線で表わす。
(9)落款
署名と印章はないが、画風と文字から白隠の作だとわかる。
(10)鑑賞のポイント
紙片を貼り継いだ縦2m近くの大画面に、大胆なクローズアップで達磨の異相、その大きな白眼を闇から浮き出させた。濃い墨色の背景に鮮やかな朱のコントラスト。大人の背丈に近い大きな顔と、大きな目が見る者を釘づけにする。この目が何を見ているのかが鑑賞者各人に問われる。「直指人心(じきしにんしん) 見性成佛(けんしょうじょうぶつ)
厳しさのなかのおおどかさ
濃墨の黒をバックに、朱の衣をまとった達磨が浮かび上がってくる《半身達磨》。達磨の視線が斜め上方を向き、絵に向き合うと達磨に大きく包み込まれて見られているような印象を受ける。三十代から始まった白隠達磨は、対象をきちんととらえようとする線から、四十、五十、六十と徐々に白隠独自の太い線や濃い墨が表われる。七十代では鋭い表現となり、八十代には見る者をゆったりと包み込むような円熟の境地へと変化していった。
浅井氏は「鋭さを持った機鋒(きほう)溢れる七十代の白隠達磨がずーっと好きだったんです。80代のちょっと力の抜けたような白隠達磨がいいと納得できたのは、私自身が60歳を過ぎてから。白隠は、表情の豊かな肥痩線で細くなったり太くなったり気持ちよく達磨を描いている。見ることって年を取ることで変わってくる」と述べた。
また、白隠は水墨画のイメージとは異なる赤、黄、緑と彩色を施した《蓮池観音》《布袋朝鮮曲馬》《恵比寿・寿老図》など、効果的に色彩を用いる華やかな彩色画も描いており、色彩感覚に優れたカラリストであると浅井氏。「よく稚拙だといわれる白隠だが、絵の基礎はきちんと学習している達者な人だと思う。毛筋描きはリズミカルですごく気持ちよい。基礎をやっている人の筆だ。この《半身達磨》は、本来仕上げでは消えるべき下書きの線が残っているが、却ってアクセントになっている。禅画の持つ精神性、諧謔味、肯定的な意味でのアマチュアイズム(素朴美)が総合されており、突き抜けた厳しさのなかにおおどかさがある。目に見えない禅の核心を目で見える形に表わした」と浅井氏は語った。
禅画のなかの達磨図
だるまは、生没年未詳で禅宗の始祖としては“達磨”、歴史上の人物では“達摩”と書かれる。南インドのバラモン出身で、中国に禅を伝えたことから中国禅宗の始祖として尊崇されていた。
わが国で描かれた達磨図の最も早い時期の作品として知られているのは、山梨県の向嶽寺(こうがくじ)にある蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213-1278)の賛が付された鎌倉時代の達磨図である。白隠が描いた制作年のわかる最初の達磨図(1719〔享保4〕)は白隠35歳作で、84歳で亡くなるまで半身達磨を基本に、大量の達磨図を描いてきた。
江戸時代以降の達磨図として最も一般的な図様が半身達磨で、多くは向かって斜め左向きの達磨の上半身を描き、頭頂がはげ頭、後頭部の頭髪から顎と口を覆うふさふさの髭、耳には耳環(じかん。耳飾り)をつけ、大衣を着けている。江戸時代に描かれた達磨の図様はほかに、一葉の蘆(あし)に立つ「蘆葉(ろよう)達磨」や片方の履(くつ)を捧げ持つ「隻履(せきり)達磨」、衣を頭からかぶり壁に向かって坐す「面壁(めんぺき)達磨」、あるいは七転び八起きの「起上り小法師」として描かれる。
禅画という言葉は、ドイツの美術研究家クルト・ブラッシュ(Brasch, Kurt)の著作『白隠と禅画』(日独協会、1957)や『禅画』(二玄社、1962)などに用いられたのが早い例で、従来は「遺墨」で表わされることが多く、1970年代頃から「禅画」が徐々に広まっていったという。「禅画を字義どおりにとれば“禅僧が描いた画”だが、中世のものは水墨画の範疇で語られ、禅僧が描いたものは特に「禅林絵画」や「禅宗絵画」という言葉が使われる。私は白隠や仙厓に代表される近世の禅僧が描いた絵に限定し、「禅画」という言葉を使うようにしている」と浅井氏。
心眼を開く
白隠は禅僧であり、絵師でも画僧でもない。禅の教えを広める手段として達磨図などを大量に描き人々に与えた。日本美術史家の山下裕二氏は「当時は飢餓が頻発し、富士山が噴火するなど、騒然とした状況でした。だからこそ、白隠のような人が登場せざるをえなかったのでしょう。大名が奢侈な生活をしているのはけしからん、と体制批判も公然とやって、著作が禁書になっている。苦しい修行の果てに、自らの使命を自覚したからこそ、後半生のすべてを民衆教化に捧げて、本山には留まらなかったのでしょう。『自利』の行から『他利』の行へ。それどころか、宗派や仏教という枠すら超えた、静かな革命を目指していたのではないか」(山下裕二『美術手帖』No.979、p.114)と述べている。
民衆を救済するために描き続けた白隠禅画。肉眼で見えないものを、心眼を開かせ見えるように導いた。現存作品数は五千点とも、一万点ともいわれ、海外にも散在している。白隠の禅画は国宝や重要文化財に指定されていないが、来年には静岡市美術館で「白隠禅師250年遠諱記念展 駿河の白隠さん」(2018.2.10〜3.25)を開催する予定である。白隠の画風の変遷や江戸絵画との関連資料が展示され、晩年の書画を美術史的側面から顕彰することが始まっている。
浅井京子(あさい・きょうこ)
白隠慧鶴(はくいん・えかく)
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参考文献