アート・アーカイブ探求
山下守胤《双鶏十二ヶ月図屏風》眼福の写実──「坂森幹浩」
影山幸一
2018年01月15日号
対象美術館
誠実さを伝える写生
年が明け2018年の三が日、東京は青天が広がった。2日には月が地球に接近し、新年早々今年最大という満月が夜空に輝き、冬の月明かりのなか、目黒川の橋の上では、月を撮影する人たちの姿が見られた。万葉の人々が月を詠み、現存最古の歌集『万葉集』が編まれ、宇宙飛行士が青い地球を眺める現代まで和歌集は残されてきている。宇宙や自然に思いを寄せる戌年のスタートである。
昨年酉年の暮れ、六曲一双屏風に鶏と松を一扇ごとに淡々と連続して描いた色鮮やかな屏風絵をネットで見つけた。サムネイルの小さな画像であったが、鶏の生き生きとした姿を、ありのまま楽しそうに写生しているように思えた。デフォルメのない自然に忠実なバランスのいい鶏。山下守胤(もりたね)の《双鶏(そうけい)十二ヶ月図屏風》(富山市郷土博物館蔵)である。
画家の名を初めて知り、実物も見たことがなかった。緻密な描写と豊かな装飾性で鶏を人格化したと定評のある江戸中期の画家、伊藤若冲とは異質な誠実さが伝わってくる。実物を見たくなり、特別観覧を申請して屏風を見せていただけることになった。《双鶏十二ヶ月図屏風》は、何のために描かれたのだろう、守胤とはどのような絵師だったのか。富山市郷土博物館の坂森幹浩氏(以下、坂森氏)に《双鶏十二ヶ月図屏風》の見方を伺いたいと思った。坂森氏は、《双鶏十二ヶ月図屏風》を展示した「企画展 富山藩の絵画─江戸時代後期を中心に」(2012)を企画担当した主幹学芸員である。富山へ向かった。
売薬さんと浮世絵
富山は雪が降っていた。富山城址公園内にある富山市郷土博物館は、1954年に建設された三重4階建ての天守閣を模した建物で、国の登録文化財に登録されている富山市のシンボルだ
。博物館の別館である佐藤記念美術館の一室で、本物の《双鶏十二ヶ月図屏風》と対面した。坂森氏の《双鶏十二ヶ月図屏風》の第一印象は「うまいな、でした」。坂森氏は、1964年富山市に生まれ、転勤族のサラリーマン家庭に育ち、子どもの頃は社会科が好きで地図を見るのも好きだったという。読書好きの父親の影響で本から社会や歴史に関心をもった。大学生時代はワンダーフォーゲル部に所属し、北アルプスや南アルプス、東北や九州の山々にも登ったという。1993年に立正大学大学院の史学修士課程を修了し、1994年富山市民俗民芸村にある売薬(ばいやく)資料館に学芸員として就職する。専門は日本近世文化史で、2005年より富山市郷土博物館へ異動した。
富山の薬売りとして有名な売薬さんが、得意先に配ったおまけを、売薬進物(しんもつ)というそうだ。最初の売薬進物は浮世絵版画で、以前は絵紙や錦絵、現在では売薬版画と呼ばれることが多い。制作は富山でしており、江戸時代の後期、ここには版元も絵師も彫師も摺師もいて、富山は浮世絵の町でもあったと坂森氏。その浮世絵の代表的な絵師が松浦守美(もりよし、1824-1896)、守美が守胤の弟子だったことで坂森氏は守胤を知ったそうだ。
御用絵師となる
山下守胤は、富山藩の御用絵師で1786(天明6)年に富山城下平吹(ひらき)町の染物紺屋の家に生まれた。幼い頃から絵を好んだと伝えられ、幼名は長平、のちに昇と改めた。山下家の始祖の岡部平兵衛は、飛騨の国(岐阜県)の郷士(ごうし)で、山下村に住んでいたため山下平兵衛と称するようになった。そして富山城下の二番町総曲輪(そうがわ)曲り角に1596(慶長元)年に転居し、関東屋という酒屋を開き、酒造業を営む。当時の藩主がたびたびお忍びで関東屋へ囲碁に訪れ、隣地町会所(まちかいしょ)
門守護として禄五十石が与えられたという。その後、彦九郎の代に平吹町へ移り、彦九郎は長崎へ出かけ小紋染物と正平紋(しょうへいもん)
を習得し、山下屋の屋号で藩の御用も担う染物紺屋を家業とした。守胤の代で染物紺屋は廃業し、守胤は画業に精進した。まず狩野派の流れをくむ森探玉斎(たんぎょくさい、生没年不詳)に学び、江戸に出て狩野派の画法を研究する。そして全国各地の名勝地を探訪し、画技を磨き帰国した。天保年間末頃(1840年代前半)に、富山藩第10代藩主前田利保(としやす、1800-1859)によって絵が称賛され、御用絵師として召し抱えられ、利保に絵の教授も行なった。千歳御殿の欄間絵や下され物用の扇絵などの御用をはじめ、神社の絵馬や寺の天井画とともに俳諧一枚摺に挿絵なども手掛けた。花鳥草花の写生に優れ、山水・人物にも筆をふるい、穏健で潤沢な画風はいまも評価されている。
守胤の画業は、長男の勝胤(または弌胤、一胤、?-1882)、孫の正胤(?-1927)と継承され、弟子には松浦守美、萩野守行、甥の山下守次らがいた。富山城の火災や空襲などに遭い、守胤の現存する作品は100点に満たないとみられる。1869(明治2)年1月28日、富山市内の寺に眠る。享年84歳。墓石には「自然齋北鎮守胤居士」とある。
【双鶏十二ヶ月図屏風の見方】
(1)タイトル
双鶏十二ヶ月図屏風(そうけいじゅうにかげつずびょうぶ)。「若松鶏十二ヶ月屏風」や「若松十二ヶ月鶏図」と呼ばれていたこともある。
(2)モチーフ
鶏、松、草花。
(3)制作年
1861(文久元)年。
(4)画材
紙本着色。
(5)サイズ
六曲一双。右隻左隻ともに縦172.0×横351.0cm。
(6)構図
無背景に2羽の鶏と松を一組とし、12組を並べた押絵貼(おしえばり)屏風
。(7)色彩
赤、緑、青、黄、紫、桃、茶、灰、白、黒。
(8)技法
無地の画面に、狩野派の様式化した技法による松を背景に立て、手前に鶏や草花を写実的に描き、現実感を増している。鶏は、観賞用の実物の鶏を見ながら忠実に描いたと思われる。
(9)落款
各扇に「七十六翁守胤筆」の署名と、「北鎮」朱文方印と「守胤」白文方印の印章がある
。(10)鑑賞のポイント
富山藩筆頭家老である富田讃岐の依頼によって制作された祝い用の屏風である。富田家では「重要品」として扱っていたと伝えられている。六曲一双の右隻と左隻の計12枚の各扇には、つがいの鶏を中心に、常磐の松を配し草花などの様相を描くことで豊かな時季の変容を表わしている。鶏は、音読みが「けい」で「慶」に通じ、めでたさの象徴である。またつがいの鶏は子孫繁栄ともされ、鶏冠(とさか)が中国の官僚の冠に似ていることから立身出世と、鶏の絵は吉祥図として数多く描かれてきた。屏風絵は、右から左へと3月頃に始まり2月頃まで、季節の移ろいを1年間描写している。
【右隻】
一扇:鶏の尾の陰に、新春を祝う元日草とも呼ばれる福寿草が写実的・博物学的に描かれており、松は狩野派の様式化された描き方で脇をしっかりと固めている。
二扇:雌鶏の背後のタンポポは、春を表わす在来種の日本タンポポ。現在広く見られる西洋タンポポではない。
三扇:真っ白な親鳥の足元には、ひよこが2羽。背後には5〜6月に咲く都忘れ。白色の羽や赤色の鶏冠の濃淡や、白い羽の細い墨線表現に、守胤のセンスと高い技量が伺える 。
四扇:八重咲きで大輪の芍薬が初夏を告げる。鶏も美花も写実的に描かれている。
五扇:笹が小さく描かれ、背景には煙るような雨。梅雨に入り、雨の描写によって空間に奥行き感が出ている。
六扇:7〜8月に咲く昼顔は、白に近い淡い紅色で彩色され、日射しの照り返す夏を表わす。
【左隻】
一扇:8〜9月に咲く秋海棠(しゅうかいどう)の花は淡紅色、節は紅色。頭を突き合わせる鶏の形が円形をつくっている。
二扇:秋に差し掛かった頃、蔓性の葛(くず)の紫紅色の花が8〜9月に咲き、白黒の鶏とともに写実的に描かれている 。
三扇:秋の松茸。傘はすでに開いたが、鶏が寄ってくるほどの香りがあることを描写している。
四扇:真っ赤に色づいたもみじは晩秋を表わしている。強い風に吹かれたもみじの葉が、画面に動きと奥行きを与える。首をすくめる黒い鶏が怪しげに、冬の近いことを知らせている。
五扇:鶏、梅、松と、新春を迎えためでたさを表わす象徴のそろい踏み。特に梅は、枝の節々に色をつけることによって立体感を表現しており、忠実に梅を再現しようとする守胤の姿勢が見られる。
六扇:色鮮やかな鶏を前面に描き、築山に積もる雪と遠方の松や梅にも雪化粧を施す。雪が冬の寒さと同時に、画面に遠近感をもたらしている。
本草学の自然美
坂森氏は「富山藩は、1639(寛永16)年に加賀藩より分藩された藩で、必ずしも全期間御用絵師がいたわけではない。実態はよくわからないが、初期の頃は狩野を名乗る家があり、江戸時代の中頃は絵師がいない期間が多かったようだ。第3代藩主前田利興(としおき、1678-1733)の時代、1707(宝永4)年に江戸上屋敷を再建しているが、それを契機に翌年、狩野九郎右衛門が御用絵師になったとみられる。さらに1747(延享4)年、根岸御行松狩野家
の第5代狩野友甫(ゆうほ、?-1762)の弟子であった森長治郎が、細工所絵師として富山藩に召し抱えられた。長治郎の息子の森探玉斎が、山下守胤(もりたね)の師である。守胤は狩野派であるが、独学で多くを学んだのではないかと思う。様式化した狩野派では守胤のこの写実は描けない。よく守胤の作品のなかで取り上げられるのが、植物図鑑『本草通串証図(ほんぞうつうかんしょうず)』(1853) である。藩主前田利保が編纂したこの版本の下絵を守胤一門(守胤、勝胤、松浦守美)と、富山藩絵師・木村立嶽(りゅうがく、1827-1890)の4人で描いた。藩主の利保は、さまざまな学芸に通じ、特に能楽を好み、和歌や国語学、本草学 にも秀で、著書『本草通串』がよく知られている。利保は本草学を研究するため、動植物の正確な図を収集する必要から、写生・模写する絵師を求めていて守胤の写実に目が留まった。本草学が科学のため精確な描写が不可欠だった。守胤はその期待によく応えた。また富山藩の御用絵師として、守胤は必ず名前の挙がる絵師だが研究が進んでいない。御用絵師ということで、藩に関わった作品で見ていかなければいけないと思うが、現存作品が少なく基準作品が突き詰められていない。神社などへ行けば絵馬があったりするのだが、それを基準作品として認められるかどうか。そのなかで《双鶏十二ヶ月図屏風》は、守胤の基準作品のひとつと言える」と語った。鶏は、文・武・勇・仁・信の五徳を備えた人格者に例えられるという。家老からの注文制作に守胤は祝い事のほか、理想的な武士像の心得も込めたのかもしれない。《双鶏十二ヶ月図屏風》は、精細に引かれた線によって鶏の形体がリアルに再現され、江戸時代の多様な鑑賞用鶏が蘇ってくるようだ。特に、長い尾の曲線は躍動感を表わし、色鮮やかな鶏の色彩は生命力を発揮している。また、四季折々の草花が香りや寒暖を告げて五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を刺激してくる。絵師の主張を抑えた没個性の写実から、侍でもあった守胤の自然美を実感することができる。
坂森幹浩(さかもり・みきひろ)
山下守胤(やました・もりたね)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献