アート・アーカイブ探求
郭煕《早春図》還流する自然の生気──「塚本麿充」
影山幸一
2018年09月15日号
※《早春図》の画像は2018年9月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
一千年前の墨エネルギー
一枚の風景画に畏れを抱くほどの巨大な自然のパワーを感じた。屹立した厳しい山容と複雑に入り組んだ谷、滝壺にはとめどなく水しぶきが上がっているにちがいない。とどまることなく動く風や水。遠方には川が見える。天空に湧き出る雲にも似た山や岩は、黒々として不気味だ。「中国絵画の最高傑作、東アジア絵画の最高峰」という一文が『美術の力』(宮下規久朗著、光文社、2018)に書かれていなければじっくりと見入ることはしなかったかもしれない。欧米のアート情報に敏感であっても、隣国中国の美術には縁遠かったことにハッとした。
世界の四大文明(中国・エジプト・メソポタミア・インダス)のなかで、唯一中国文明だけがいまも維持されている。中国の水墨画と言えば、これまで画僧の牧谿(もっけい、生没年未詳)や宮廷画家であった夏珪(かけい、生没年未詳)らの優しい画風で満たされていたようだ。しかし、畏怖さえ覚えるこの水墨画は大画面の迫力で墨のエネルギーが強い。徐々に細部が見えてくると雄大な景観をドローンに乗って浮遊している気分になってくる。とげとげしい奇妙な形の樹木に霧がかかり静寂で幻想的だが、滝が流れ山の麓には人々の姿が見えて生活感もある。墨の濃淡を活かした陰と陽の空間表現は、ダイナミックかつ繊細な中国絵画の神髄のように思えてきた。いまから一千年前、日本の平安時代に制作された作品という。中国の画家、郭煕(かくき)の《早春図》(台北・國立故宮博物院蔵)である。
東京大学東洋文化研究所の塚本麿充(まろみつ)准教授(以下、塚本氏)に《早春図》の見方を伺ってみたいと思った。塚本氏は、大和文華館で学芸員をしていた2008年に日本で初めて李郭系山水画の世界を紹介した『特別展 崇高なる山水─中国・朝鮮、李郭系山水画の系譜─』を企画。それは北宋時代(960-1127)の宮廷画家であった郭煕が、五代時代(907-960)の文人画家である李成(りせい、919-967)を受け継いだ、山水画の一様式を展示した展覧会であった。また塚本氏の著書『北宋絵画史の成立』(中央公論美術出版、2016)では、郭煕の《早春図》を巻頭カラーページに掲載し、《早春図》について探究されている。東京・本郷の東京大学にある東洋文化研究所へ向かった。
アジアを知らなくする社会システム
昆虫の標本展が開催されていた東京大学総合研究博物館に隣接した東洋文化研究所。研究室のドアをノックしたところ後ろから塚本氏が現われた。塚本氏は、たたみ一畳ほどの《早春図》の実物大複製品を、研究室に掛けて準備をしてくれていた。
1976年福井県福井市に生まれた塚本氏は、家が古美術商を営んでいたため、古物に囲まれた日常だったという。祖父は漆作家で梅澤隆真(1875-1953)の弟子、柴田是真(ぜしん、1807-1891)の孫弟子にあたる。小学校の頃から仏像が好きだったという塚本氏は、中学・高校生を対象とした博物館の体験講座に参加し、火おこしやしめ縄づくりなどの実践が面白く、後日「おじさんみたいになりたいのだけど、どうしたらいいの」と、博物館の学芸員を訪ねて聞きに行った。学芸員は「美術史か、考古学の方へ行ったほうがいい」と言い、「何が好きなの」と尋ねられたので「仏画か、仏像を研究したい」と答えると「東北大学の有賀先生か、九州大学の平田先生」と教えてくれた。塚本氏は両校を受験し、東北大学の美術史に入学した。
大学へ入ると視野が広がった。特に集中講義で東京大学の小川裕充(ひろみつ、1948-)先生に初めて見せていただいた中国の水墨画にはびっくりしたと言う。「2つ驚いたことがありまして、ひとつは《早春図》の複製画でしたが、絵のすごさというか、その場に漂う気がすごかった。心をわしづかみにされてしまった。こんな絵がこの世の中にあるんだということ。もうひとつは、こんなにすごい絵の存在をいままで誰も教えてくれなかったということ。この2つ目のびっくりは、結構大事なことです。僕たちは、多くの古美術や美術品に触れていたつもりだった。しかし、その世界は誰かがつくった世界だった。隣の中国のことさえよくは知らなかった。私はこれを『アジアを知らなくする社会システム』と呼んでいますが、システムとしてアジアを教えていない。どんどん知らなくなって中国や、アジアに関しては暗黒のようなイメージが広がる仕組みが社会に存在することに気づき、日本美術の研究より、中国美術の研究のほうが面白いと思った。作品が面白いというのもあるが、社会認識的な広がりにも関心がありました」と塚本氏は述べた。
画論『林泉高致集』
中国の北宋時代
を代表する郭煕は、中国絵画史のなかでも最も影響力のあった画家のひとりである。前半生は不明だが、1000年頃に黄河北側の黄土高原が広がる河陽温県(現:河南省温県)に生まれた。70歳頃に北宋第6代皇帝・神宗(しんそう、1048-1085)の信任により宰相となった王安石(おうあんせき、1021-1086)の新法改革を契機に都の開封(かいほう)に上ると、神宗の寵愛を受けて宮廷画家となった。
郭煕が描く大画面の山水画は、都市の障壁を埋め、北宋に新興した士大夫(したいふ)たちの鑑賞を満足させる媒体となる。北宋の王朝が追求してきた宮廷コレクションの保存・公開施設である「三館秘閣」の活動と結びつき、皇帝と宮廷の殿閣を飾るにふさわしい画家としての地位を郭煕は獲得した。皇帝は、高麗からの来貢(らいこう)に郭煕画を下賜し、朝鮮半島では李郭系の山水が大流行した。しかし、1085(元豊8)年に若き皇帝であった神宗が38歳で崩ずると、北宋第8代の皇帝となった神宗の息子である徽宗(きそう、1082-1135)は、宮廷から郭熙の絹本山水画を取り外し、雑巾として使用させたという。
郭煕の絵画作品《早春図》と、郭煕の子である郭思(かくし)が編纂した山水画の画論である『林泉高致集(りんせんこうちしゅう)』は歴史に残り、作品と理論がセットとなって後世の中国絵画へ大きな影響を与えていった。『林泉高致集』には、北宋の画家の自然観、山水画の技法、地方画風を集大成させた総合様式など、《早春図》の技法とともに書かれており、山水は常に“気”(生命)を帯びて生きていると郭煕がとらえていたことがわかる。
明代末に文人であった董其昌(とうきしょう、1555-1636)は、文人画(士大夫の画風)を絵画の最高の様式として「南宗(なんしゅう)画」と命名し、それに対して「北宗(ほくしゅう)画」(院体画〔宮廷画院の画風〕)を唱え、中国画の系譜を二派に分けて『画禅室随筆』に書き残した。李成・郭煕に由来する華北系の李郭派は力強い構成が特徴の北宗画、董源(とうげん、生没年未詳)・巨然(きょねん、生没年未詳)に由来する江南系の董巨派は柔らかい筆跡が特徴の南宗画に分類された。
李成に私淑していた郭熙は、山水画の二手法(透視遠近法
【早春図の見方】
(1)タイトル
早春図(そうしゅんず)。英題:Early Spring。
(2)モチーフ
木、山、滝、川、岩、霞、人、犬、舟、建物、空。
(3)制作年
北宋、熙寧(きねい)5年。1072年。郭煕70歳くらいの作品。
(4)画材
絹本墨画淡彩。着色は染料。
(5)サイズ
縦158.3×横108.1cm。一幅。
(6)構図
画面の中央を交点として十字線を引き四分割すると、絵の主眼が見えやすくなる。縦の線に沿って山が聳え、左側は視線を奥へ誘い、右側は山と靄で視線を遮っている。横の線より上部は神仙の世界、下部には人々の生活がある。また前景の中央部の双松を中心として、右に枯木、左に常緑樹を配して三角形をつくっているが、この双松から中景の松、後景の松へと樹高が一、二分の一、四分の一と小さくなる透視遠近法となり、《早春図》以後、伝統山水画の規範となった。中国絵画の遠近法「三遠(さんえん)
」を用いた重層構築的な空間構成。
(7)色彩
黒、灰、青、朱。青味のある墨、赤味のある墨など、墨の特長を生かして的確に墨の濃淡を使っている。滝の水の部分のみが絹の地色と思われる。
(8)技法
木炭で全体のあたりをつけ、三遠と合わせた緻密な透視遠近法により、早春のしっとりとした神仙風景を描いた。入道雲のように描かれた雲頭皴(うんとうしゅん)と呼ばれる岩と、蟹の爪のような蟹爪樹(かいそうじゅ)と呼ばれる枯樹の描法が特徴的である。楼閣は、定規を使って直線を引く界画(かいが)という手法で描かれている。岩や谷、樹幹と梢など、描く対象物に応じて筆や墨を使い分け、淡墨を重ね塗りするなど描き方も変える精緻な筆墨技巧。
(9)落款(※鑑蔵印の解説参照)
左側中段に「早春 壬子秊 郭煕畫」の署名と「郭煕筆」の朱文方印。壬子(みずのえね)は煕寧5年(1072)にあたる。文字が未熟なところがポイント。次の時代から絵を描く人は文人になってくるため、文字が上手になってくるが、郭煕は職人のため文字が下手だった。右上には後世、清代の6代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799)によって書き足された七言絶句が墨書されている(樹纔發葉溪開凍 樓閣仙居最上層 不借桃花聞點綴 春山早見氣如蒸)。
(10)鑑賞のポイント
画面の右手が東で、左手が西、正面側が南で、奥側が北という中国絵画の法則がある。東(右手)に昇った太陽が、左下の水面を明るく照らしている。右手の山陰の滝から落ちてきた水面は、暗く幽玄で冷たく澄んでいる。長い冬が終わり、もの皆萌え出る春が始まっており、風雪を耐え忍んできた漁夫の一家にも春が訪れようとしている。楼閣を目指す旅人や、天秤で荷物を担ぐ女が見え、子どもを連れ幼子を抱く母の姿には母性を感じる。人間の営みを一つひとつ詳細に描き込みながらも、壮大な宇宙感を表わす。当時の国風や人民の倫理秩序を象徴しているという解釈もあるが、圧倒的な崇高感は、大自然の気の端的な表現から起こる。画面に吸い込まれていくような雄大な大気表現は、小さな人事をも包み込み、不可視で巨大な自然の秩序の存在を観者に抱かせる。黄土丘陵地帯の山東省出身の李成が描く平遠形式と、深い谷や巨山の地・陝西(せんせい)省出身の范寛(はんかん、950頃-1031)が描く高遠形式、温暖多雨の江西(こうせい)省出身の董源の緩やかな淡墨を集大成した郭熙。その画風を宮廷絵画様式として李郭派の本質的な表現とした。中央に聳える主山を皇帝とし、皇帝を中心とする安寧な理想世界を、幻想と現実を合わせて生き生きと描き出したスケールの大きい北宋絵画の傑作。現存唯一の郭煕の真筆であり、中国山水画史に名を残す国宝の絵画作品である。
鑑蔵印
「乾隆御覽之寶」「乾隆鑑賞」「石渠寶笈」「三希堂精鑑璽」「宜子孫」「養心殿鑑藏寶」「石渠繼鑑」「嘉慶御覽之寶」「宣統御覽之寶」「宣統鑑賞」「無逸齋精鑒璽」「明昌御覽」「司印(半印)」「真賞」「珍秘」「丹誠」「琴書堂」「都尉耿信公書畫之章」「公」「信公珍賞」「宜爾子孫」「東平」「阿爾喜普之印」「御賜忠孝堂長白山索氏珍藏」「九如清玩」「也園珍賞」「道濟書府」「仲雅」「善卿」「肅齋」(Webサイト:『國立故宮博物院』より)。
※《早春図》に押印されている歴代所有者の鑑蔵印について塚本氏の解説。
本作には「明昌御覽」印が押され、北宋を離れ、その文化を摂取した金の章宗(在位1190-1208)の内府に収蔵されたと考えられる。その後は明の「司印」半印があり、明太祖の第三子である晋王朱棡(1358-1398)の「道濟書府」印があるため、この頃には明内府を経て晋王府へ移ったのであろう。その後一度民間に出たと考えられ、明末から清初にかけて書画骨董を扱って江南諸地を巡った呉其貞(安徽新安人、〔1609〜12?-1678〜81?〕)の膨大な筆記『書画記』巻六には「識八小楷字曰早春壬子年郭煕畫」として「春雪図絹畫二大幅」が記され(人民美術出版社本)、康煕十一年(1672)には南京の陳師仲のもとにあった可能性が高い。その後再び北京に上り、清初の功臣であった耿昭忠(1640-1686)の琴書堂、索額図(?-1703)の収蔵を経た。索額図には二人の子がいたが、その次子阿爾吉善(?-1708)が本図の印章の「阿爾喜普」である可能性が指摘されている。阿爾吉善兄弟は康煕四八年(1708年に康煕帝より死を賜るため、その後多くの書画とともに清宮に入ったのであろう。『石渠宝笈』初編・貯養心殿・巻七(乾隆十年〔1745〕)に著録され、現在に至る。
──塚本麿充『特別展 崇高なる山水』図録(p.169)。
永遠の未完成
《早春図》の下方には、自分たちの生活しか見えていない庶民の世界が描かれている。左下には、おばあちゃんとお母さんと2人の息子。右下には漁をしているおじいちゃんとお父さん。親子孫三世代が共に暮らす「三世同堂」の幸せな家族の様子が表わされている。旅人は、科挙(かきょ)に合格した士大夫かもしれない。庶民から抜け出して社会を担っていく。士大夫が上がって行く先には世界の中心の須弥山(しゅみせん)がある。郭煕は画論『林泉高致集』のなかで主山は皇帝の姿と記している。右の建築物が宮廷であり、そこから水が流れ、庶民の暮らしを潤している。皇帝から庶民へと循環するイメージである。
一般に、絵画の芸術性というのは、画面の向こう側にあるが、中国絵画は画面のこちら側(鑑賞者)にイマジネーションをつくらせると言う塚本氏。絵の気と人とが感応して作品は完成する。北宋時代から南宋時代の10〜13世紀にかけて中国では写実が完成に近づき、抽象画へと向かった。西洋が写実を20世紀まで追求してきたのに比べ、1000年ほど中国は早く抽象画が生まれているという。また中国の絵画は、作品の後ろや余白に題跋
が記されて、その歴代の所有者が感想を書き重ねていていく特徴があり、永遠の未完成が中国絵画なのだという。また、塚本氏は「《早春図》は郭煕の心の像を映したのではないか。そうでないならば、これほど生き生きとは描けない。そしてこの《早春図》はオフィシャルな特別な絵であり、宮廷の壁に掛けて鑑賞するために大画面となっている。郭熙はとりとめのない墨の筆跡に、具体的なモチーフを描き込んでいくことで山水画に変化させており、部分と全体の対比が上手で、合理的な空間表現の達成が見られる。郭煕は早春の光景として、右上から靄がかかってきて、光にも見えるように描いた。これはおそらく朝の風景だと思う。春の朝、東から太陽が昇り、靄が晴れていくところを描いている。動く気の流れ。山水画はすべて気からできている。郭煕の発見は視覚だけでなく、皮膚感覚などの知覚だった。気というのは雲のように動いており、《早春図》は永遠に動いているように感じる」と語る。
蘇ってきた山水画
李郭派作品は、日本が最大の保有国になっているという。李郭派とそれに連なる明代の浙派(せっぱ)や、清代の袁派(えんぱ)、朝鮮王朝の山水画へと李郭派は伝承されていった。東洋山水画の原点のひとつとも言われる李成の代表作《喬松平遠図(きょうしょうへいえんず)》が、三重県の澄懐堂美術館に所蔵され、郭煕唯一の真筆《早春図》は、中華民族の文化資産を保管する世界四大博物館のひとつ台湾の台北・國立故宮博物院に保存されている。
日本では奈良時代から中国絵画が収集され、室町時代を中心に伝来した中国絵画を「古渡り」、江戸時代に伝来した明清画を「中渡り」、明治以降に伝来したものを「新渡り」と呼ぶ。
1235年、京都・東福寺を開いた臨済宗の僧・円爾(えんに、1202-1280)が南宋へ渡り、無準師範(ぶじゅんしはん、1177-1249)という臨済宗の禅僧から法を嗣いだ。その無準師範の弟子が牧谿だったと塚本氏。日本人の円爾と牧谿は兄弟弟子であり、円爾は中国の寺院でたくさん水墨画を見て日本へ持って帰ってきたという。ところが僧侶のため宮廷絵画である《早春図》のような李郭系山水画はまったく見られなかった。そのため私たち日本人の見ていた中国絵画は、南宋時代の諸大家や浙派を個性化した雪舟(1420-1506?)や、東山御物の絵画、南宗画など一部になったという。
塚本氏は「《早春図》が世界に発見されたのは、戦後台北の國立故宮博物院のコレクションが公開された1960年代以降。それまでは郭煕の名前だけが知られ、確証のもてる郭煕作品は誰も知らなかった。1960年にジェームス・ケーヒル(James Cahill)というアメリカ人研究者が國立故宮博物院で所蔵品の写真を撮り、北宋絵画を分類し始めてわかってきた。台北の國立故宮博物院にあったということは、清の皇帝が持っていたということなので、《早春図》の存在はわからなかった」と語った。
人々の営みと自然の形象を通して、目に見えない気というものの荘厳さや壮大な宇宙感を漂わせている《早春図》。一千年前の山水画が蘇ってきた。改めていま、中国美術を見直す必要があるのかもしれない。
塚本麿充(つかもと・まろみつ)
郭煕(かくき)
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参考文献