アート・アーカイブ探求
アンリ・マティス《大きな赤い室内》──絵画と装飾「天野知香」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2019年12月15日号
※《大きな赤い部屋》の画像は2019年12月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
空想と現実を彷徨う
令和元年が終わろうとしている。譲位という歴史的な一場面を同時代に体験し、皇位継承にともない平成から令和へ、新元号の時代がスタートした。現存する最古の和歌集「万葉集」にある「令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ」から選ばれた2文字という。日本は今年も地震や台風の自然災害に見舞われ、さらに京都アニメーションの痛ましい放火や沖縄・首里城の焼失などがあったが、「ONE TEAM」で日本中がひとつになったラグビー・ワールドカップ日本大会では日本が初の8強入りをし、ノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏の笑顔に心を和ませた方も多かったのではないか。
令(よ)い年になることを願いながら、年の瀬が近づくと毎年思い出すのがアンリ・マティスだ。街がクリスマスのデコレーションに彩られると、色彩豊かなマティスを思い出す。具体的な絵というよりも華やかな作品のイメージが浮かび上がるのはなぜだろうか。マティスの代表作である《大きな赤い室内》(パリ、ポンピドゥー・センター蔵)を探究してみようと思う。
床も壁も赤い部屋に、大きな絵が壁に2枚並んでいる。二つのテーブルの上には植物があり、床には動物らしき敷物。白黒の絵が外の景色のようにも見えて、空想と現実を彷徨う感覚になる。真ん中の椅子に座れば絵・植物・動物を見ながら思索にふけられそうだ。マティスはなぜ赤い部屋を描いたのだろう。
《大きな赤い室内》の見方を、お茶の水女子大学教授の天野知香氏(以下、天野氏)に伺いたいと思った。天野氏は19~20世紀フランス美術史を専門とし、2004年に開催された国立西洋美術館での「マティス プロセス/ヴァリエーション」展では企画・監修を務められ、ジェラール・デュロゾワ著『岩波 世界の巨匠 マティス』(岩波書店)の翻訳や、著書『もっと知りたい マティス 生涯と作品』(東京美術)など、マティスに関する著述が多数ある。東京・護国寺に近いお茶の水女子大学へ向かった。
装飾的構成
慣れない女子大の門を通るとき、少し勇気がいったが事なく受付を通り、広報の方が先導してくれて迷うことなく天野氏の研究室へたどり着くことができた。
天野氏は、1959年父親の転勤先であった静岡県にひとりっ子として生まれた。子供の頃より読書が好きだったそうだ。中学時代に日本史の先生が面白く歴史に興味を持ち、高校3年生の特別授業で美術史を知った。高校時代の選択科目は美術ではなく音楽を選び、大学は東京大学の文学部へ入学する。西洋美術史への関心が増して大学院へ進学し、1987年からはパリ第一大学へ4年間留学、19世紀末から20世紀初頭における装飾と芸術の関わりについて調査研究を行なった。1994年に東京大学大学院人文科学研究科の博士課程を修了。1996年からお茶の水女子大学で教鞭を執り、主に西洋美術史を教えている。
天野氏がマティスに注目したのは、大学生の初めの頃に『美術史とその言説(ディスクール)』という美術評論家の宮川淳(1933-1977)の本のなかで、フランス文学者の阿部良雄(1932-2007)との往復書簡を読み、近代に関心を持ったことや、マティスが雑誌に発表した「画家のノート」という文章を読んだことがきっかけだったという。マティスについて「バランス感覚のある頭の良い人」と思ったそうだ。
当時、東京国立近代美術館では「マチス展」(1981.3.20-5.17)が開催されており、作品を直接見た天野氏は、マティスを研究することを決心する。卒業論文と修士論文をマティスにし、マティスの研究を通じて“装飾”を意識したため、装飾について調べ、博士論文はマティスに至る時代として「装飾と芸術 : フランス19世紀末から20世紀初頭を中心とした『装飾』をめぐる言説」を書いた。
「マティスの時代に装飾は、どちらかというと否定的に格下に見られているなかで、マティスは珍しく装飾を肯定的に捉えており、最初から自分の画面の構成を装飾的構成という語り方をしている。晩年になっても切り紙絵のように、デザインや装飾に隣接しているような作品をつくり、壁面装飾も非常に熱心に制作している。作品からも、言説からも装飾という概念が出てくる。私がもともと装飾好きということもあるが、いまでもマティスと装飾の問題は研究対象としている」と天野氏は述べた。
心の支えセザンヌ
アンリ・ブノア・マティスは、北フランスの織物業が盛んな小さな町ル・カトー=カンブレジの祖父母の家で、1869年の大晦日に三人兄弟の長男として生まれた。パリで働いていた両親は、マティスが生まれてすぐに故郷近くの村ボアンで穀物や金物などを売る雑貨店を開く。父エミールは厳格で、母アンナは優しかった。消化器が弱かったマティスは17歳で学校を辞め、18歳になるとパリへ出て親に言われたまま法律を学び、法律事務所の見習いとなる。
二十歳のとき虫垂炎をこじらせ、1年間の療養中に画家を志す。母からもらった絵具箱が絵を描く動機だったと言われている。1891年再びパリへ行き、私塾のアカデミー・ジュリアンでウィリアム・ブグロー(1825-1905)に学んだが、アカデミックな技量を重視するデッサン教育になじめなかった。エコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)の入学を許可される以前から(1895年に正式に入学)、教授ギュスターヴ・モロー(1826-1898)を師と仰ぎ、印象派や後期印象派など新しい芸術動向を吸収しながらモロー教室で学んだ。同門だったジョルジュ・ルオー(1871-1958)とは生涯の友となる。
1896年官展の流れを引く国民美術協会のサロンに《読書する女性》(1985、ポンピドゥー・センター蔵)を初出品し、国家買い上げとなり準会員に選出。1898年29歳でアメリ-・パイエルと結婚。25歳のときにカロリーヌ・ジョブローとの間に長女マルグリットを儲けていたが、結婚後長男ジャン、次男ピエールが誕生した。生活は困窮していたものの、ポール・セザンヌ(1839-1906)の小品《3人の浴女たち》(1876-77、52×54.5cm、プティ・パレ美術館蔵)を購入し、心の支えとしていた。
1904年最初の個展を開催。在野のサロン「サロン・デ・ザンデパンダン」の中心的な存在だったポール・シニャック(1863-1935)に誘われ、南仏サン=トロペで新印象主義
の手法に取組み、《豪奢、静寂、逸楽》(1904、ポンピドゥー・センター蔵)を制作した。新印象主義の色彩理論に基づく構成と、セザンヌのような彩色による人体のボリューム表現とを合わせて試みたが成功には至らなかった。だがマティスにとっては重要な転機となった。
フォーヴィスム登場
1905年36歳、友人のアンドレ・ドラン(1880-1954)とともにスペイン国境に近い港町コリウールで夏を過ごし、秋の「サロン・ドートンヌ」に出品。サロン・ドートンヌは1903年に創立された在野のサロンであり、新しい作家が出品できるサロンとしてマティスは創立時から出品していた。1905年のサロンはマティスの友人モーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)や、アルベール・マルケ(1875-1947)ら、傾向の同じような絵画が第7室にまとめて展示されていた。部屋の中に比較的オーソドックスな彫刻があり、その彫刻を見た美術評論家ルイ・ヴォークセルが「野獣(フォーヴ)のなかのドナテルロ(古典的な彫刻)のようだ」と言った。人物や風景を描きながら、鮮やかな色彩、大振りで粗い塗りによって形態を単純化し、伝統的な空間の破壊を推し進めたマティスらは、画壇の新しい傾向「フォーヴィスム」として注目されたが、教義や綱領を掲げての運動ではなかった。
1908年、39歳になったマティスは、画塾「アカデミー・マティス」を開き、自らの芸術についての手法や見解を「画家のノート」と題して雑誌に発表した。パリの画壇にキュビスムが出てくると、植民地主義や万博を背景にしたオリエンタリズムの流行のなかで、マティスは二度にわたりモロッコのタンジールに滞在し制作を行なう。1913年、アメリカの「アーモリー・ショー(国際近代美術展)」に出品した。翌年、第一次世界大戦が勃発。弟がドイツ軍の民間人捕虜となり、45歳のマティスは兵役を志願したがかなわなかった。
厳しさを増す戦況のなか、1917年光を求めて南仏ニースで制作を始める。そして近隣のカーニュに住んでいたピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)を初訪問。ルノワールとの出会いは、抽象の乾いた様相から救い出された思いがした。1918年ポール・ギヨーム画廊でパブロ・ピカソ(1881-1973)との二人展を開催した。1920年ロシアバレエ団の『ナイチンゲールの歌』で舞台装置と衣装を担当し、初画集『50のデッサン』を出版する。1921年パリの美術館が初めてマティス作品《赤いキュロットのオダリスク》(ポンピドゥー・センター蔵)を公式に購入した。1925年56歳、レジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を受章。1927年第26回カーネギー国際美術展で《Still Life(静物)》が金賞受賞。アメリカに渡った次男ピエールが画商としてマティス展を編成し、のちにニューヨーク近代美術館で回顧展(1931)が開催された。
切り開かれた芸術
1930年、61歳のマティスはアメリカを経由してタヒチを旅行する。アルバート・C・バーンズから壁画制作の依頼を受ける。この頃、『マラルメ詩集』、『ユリシーズ』の挿絵の依頼に応じる。第二次世界大戦勃発後の1940年6月、フランスの降伏によりニースに残ったマティスは腸の大病に見舞われ、手術によって生還することになった。ベッドの上で行なった切り紙絵
は、デザインや装飾と隣接する新たな表現手段となった。一冊の本になった『ジャズ』などエッジの効いた色鮮やかな切り紙絵の一方で、葛藤に満ちた過程のデッサンは『テーマとヴァリエーション』というデッサン集として結実していた。《大きな赤い室内》をはじめ、油彩画による最後の重要な室内画群を生み出したのは1946年から48年。その後は切り紙絵や筆によるデッサンが中心を占めていく。1947年レジオン・ドヌール勲章(コマンドゥール)受章。1948年マティス79歳、南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾に着手した。ヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを受賞後、リトグラフ『シャルル・ドルレアンの詩集』を出版し、1951年ニューヨーク近代美術館で回顧展開催。同年、日本で初めての「マティス展」が開催された。1954年ニースで死去。享年84歳。生誕地ル・カトー=カンブレジにはマティス美術館が設立され、長年住んでいたニースにもマティス美術館が開館している。
装飾の概念とともに空間の意味や描く行為を問い直したマティス。マティスは20世紀におけるモダンアートの革新者であったと同時に、西欧近代における油彩画の伝統とその枠組みをもっとも正統に引き継いだ巨匠だった。アンディ・ウォーホール(1928-1987)やフランク・ステラ(1936-)ら多くの芸術家にインパクトを与え、そして我々の芸術の価値観を切り開いた。
【大きな赤い室内の見方】
(1)タイトル
大きな赤い室内。英題:The Large Interior in Red
(2)モチーフ
ひじ掛け椅子、円いテーブル、四角いテーブル、デッサン、油彩画、植木鉢、花器、花、果物、皿、敷物。
(3)制作年
1948年。79歳の晩年のこの時期に、油彩で室内画を集中して描いている。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦146×横97cm。
(6)構図
室内の一角を描いた構図。正面を向いた壁に掛けられた2枚の絵画が画面の上半分を占め、下半分にはひじ掛けのある椅子を中心に円いテーブルと四角いテーブルを配置。テーブルの花器には花が飾られ、床には敷物を敷き二次元と三次元の両義的な空間を創出。水平・垂直を基軸に、多様な要素を直線と曲線の簡略させた形体で組み合わせ、装飾性豊かな平面としている。
(7)色彩
彩度の高い赤、オレンジ、水色、緑、黄、白、黒など多色。画面一面の赤は、部分的にオレンジや茶、紫、黄色が混色した複雑な赤色である。隙間や擦れを色彩の要素としても取り込み、描き残しを白としている。
(8)技法
水彩画のように薄塗りで筆跡にスピード感を感じると同時に、写真ではありえない絵画独自の色むらや、塗り残し、塗り重ねから下地を活かした工夫が見られる。肥痩(ひそう)のある線と柔らく純粋な色面、軽やかな筆触が織りなす心地よい画面でありながら、感覚的に自由に描いているのではなく、線と色彩のバランスを熟慮した成果である。
(9)サイン
画面左下に黒で「Matisse 48」と署名。
(10)鑑賞のポイント
《赤いアトリエ》(1911、ニューヨーク近代美術館蔵)の流れを汲む作品である。モチーフの輪郭を描く黒い線描と、画面全体を覆う色彩は、互いに対等の関係にある。それらを物語るように、画中画として壁に掛けられた白黒のデッサン《椰子の見える窓がある室内》と、彩色された油絵《パイナップル》(ともに1948年作)が、左右にバランスよく窓のように並置されている。左右一対となる絵画、丸と四角のテーブル、動物の形をした2枚の敷物の3組を含め、室内の多様な事物は絵画となり、絵画は事物となる互換性と相互作用を生み出すのは、地色の深くうねるような筆致の赤色である。四角い窓から見える外の風景を絵画のようだとよく言うが、四角いキャンバスの中の四角い絵画は、絵画誕生の深遠な瞬間を描いている。線と色彩がつくる包み込むような空間の中で、絵画そのものの生命が宿っているようだ。マティス晩年に制作された画業の集大成であり、代表作のひとつである。
線と色彩の調和
美術評論家であるクレメント・グリーンバーグ(1909-1994)は、《大きな赤い室内》を傑作と呼んだが、イーゼル画にこだわり、装飾を否定的に扱うモダニストでもあった。装飾と芸術に区別をつけることに意味を見出さないマティスは、絵画をめぐる広い視座を新たに想像させた。
《大きな赤い室内》について天野氏は「マティスの実際のアトリエの写真を見ると、平面の壁に掛けてあるように見える絵画2点は、90度の角度をなす二つの壁に掛けられている。したがって2点の間の黒い縦線は二つの壁の境ということになる。1940年代に入ると、マティスは目に見える対象を前に、画面の中で線と色彩によって形づくっていくリズムがどう折り合うかを問題としていて、1948年作のこの作品は最後の重要な油彩画のひとつとなる。油彩画として一種の到達点と呼べる作品で、画業の集大成ともいえる。つまりここで、線と色彩はどうなったかというと、おそらくバラバラになったと思う。線は線、色彩は色彩の表現力が増している。線だけでも抑揚のある生き生きとしたフォルムをつくり出しており、でもそのことで色彩は単なる背景なのかというと、この線があることによってこの赤がとても生き生きと見えるようにもなっている。稀有な調和を保ち、互いを活かすような形になった。そういう意味ではこの作品は成功している。しかし、この成功はとても危うい成功であった」と語った。
《大きな赤い室内》は、決して無造作に感覚だけで描いたわけでなく、感覚的でありながらも知的に構成されている。塗りが浅く、呼吸のできる、気持ちのいい絵だ。マティスが最後に描いた赤が、軽やかに息づいている最後の油彩画。「その色彩と線との緊密な調和のあり方を感じ取って楽しんでもらいたい」と、天野氏は微笑んだ。線と色彩の調和と、装飾と芸術の融合である絵画固有の表現がここにあった。創造する場であるアトリエを描いた画家マティスの心境は、鑑賞者に与えるエネルギー、絵画に対する愛すべてを含めて、青ではなく赤だったのだろう。
天野知香(あまの・ちか)
アンリ・マティス(Henri Matisse)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献