アート・アーカイブ探求
レンブラント・ファン・レイン《夜警》──虚構と現実が溶け合う臨場感「幸福 輝」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年03月15日号
自画像だけではなかった
「未災地」という言葉を最近耳にするようになった。災害が身近なことは日々の生活では忘れがちだ。10年前に取材先の盛岡の歩道で突然倒れ、気づいたら病院へ搬送されていたことがあった。翌日には頭に包帯を巻いて行き、先方を驚かせた。その後に毎年1回続けている心電図検診で異常はなく、今年が最後の検診である。普段は危機感がない。危機意識を持つことは大切だと改めて思う。3.11は、特別な日である。東日本大震災を思い起こすことは、危機感を再認識させる。安心感へ変える行動を心がけていたい。
復興が遅れてままならないうちにコロナが来てしまった。コロナにはワクチン投与が開始され、先行きに少し光が射してきているようだ。桜も咲き始めて来月4月からは新年度が始まる。入学式や入社式など、思い出の記念写真を撮る機会が増えるといい。多くの顔が並ぶレンブラント・ファン・レインの代表作《夜警》(アムステルダム国立美術館蔵)を見てみたいと思った。
レンブラントは光と影を描く天才で、黒色が特徴的だと思っていたが、特定の作品が浮かばない画家だった。自画像で有名なレンブラントの作品のなかに《夜警》があった。暗闇にさまざまな出で立ちでザワザワと集まってくる群衆。内省するような自画像とはまったく異なる群像なのだが、赤いたすきを掛けた黒い服の男と、白い飾りの付いた帽子を被った黄色い服の男を先頭に、左手には鶏の足を腰にくくり付けた不思議な少女がいる。演劇の一場面に見え、また細部には、15世紀のヤン・ファン・エイク(1390頃-1441)のような精緻な写実描写が見られ引き込まれる。一人ひとりが個性的で闇から浮かび上がってくるような作品である。しかし、この17世紀の名画はどこが見どころなのだろうか。オランダ・フランドル美術を専門とする美術史家の幸福輝氏(以下、幸福氏)に《夜警》の見方を伺うことにした。
幸福氏は、国立西洋美術館に長く勤務し、展覧会「レンブラント:光の探求/闇の誘惑」展(2011)を担当し、『もっと知りたい レンブラント 生涯と作品』(東京美術、2011)を執筆されている。東京・吉祥寺でお会いした。
魔法のような初期フランドル絵画
幸福氏は1951年山形県に生まれ、宮城県仙台の高校を卒業した。天授のような「幸福」という名字(姓)は本名で、山形県にある山寺の通称で親しまれる天台宗立石寺の住職の家系という。さらに「輝」と命名された幸福氏とコロナ禍に出会えたことに、山寺を訪ねたことを回想しながらありがたみを感じた。
1970年、芸術や文化などに興味があった幸福氏は、東京藝術大学美術学部芸術学科へ入学した。そこでドイツ・ルネサンスを代表する画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)研究の第一人者、東京大学教授の前川誠郎(1920-2010)先生から講義を受け、幸福氏は初期フランドル絵画
を知り、魅せられる。「本物そっくりで丁寧に描かれた写実主義の絵でありながら、表面的な感動にとどまらない描写力、再現力みたいな写実に、こんな魔法のような絵がどうしてできたのだろうと、ヤン・ファン・エイクを研究することにした」と幸福氏。大学院は東京大学へ行き、ファン・エイクの《ヘントの祭壇画》について修士論文を書いた。博士課程へ進むと1978年から3年間、ベルギー政府給費留学生としてルーヴェン・カトリック大学大学院に留学した。幸福氏は20代の10年間は、ほとんどヤン・ファン・エイクと初期フランドル絵画にしか興味がなかったという。帰国後1981年に博士課程を中退し、幸福氏は国立西洋美術館の研究員となる。美術館での活動は次第に幸福氏の関心を15世紀だけでなく、16、17世紀のオランダ・フランドル美術にも広げていったようだ。1988年から1年間パリ国立図書館とアムステルダム国立美術館で西洋版画史を研究する機会に恵まれたことも、その後の氏の研究に大きな影響を与えた。
魅力のない絵の魅力
レンブラントの絵は、あまり好きではなかったと幸福氏は語った。ヤン・ファン・エイクと異なり、筆の運び方が乱暴で、きれいに完成されたイメージとしてはほど遠いように思えた。しかし、長い間、レンブラントに関するさまざまな論文を読む作業と、レンブラントの作品を見るという作業を繰り返していくなかで、突然、この画家の凄さが実感された。「作品を見た瞬間に虜になるというタイプの画家とは正反対の画家がレンブラントだった」と、幸福氏は述べる。
《夜警》については「19世紀の有名なフランスの小説家・画家のウジェーヌ・フロマンタン(1820-76)が著書『昔日の巨匠たち ベルギーとオランダの絵画』(1876)のなかで『《夜警》は全然魅力がない』と、《夜警》の魅力のなさについて営々と長い文章を何ページも書いている。まさにそこにこそ意味があるのではないか。およそ魅力のない絵についてフロマンタンが営々と書いていること自体が、この絵の魅力ではないか。簡単に言えば、《夜警》は肖像画なのに物語画的な構成で描いている。ありえないことがここでは起きている。物語風の一場面とした肖像画は評判となったが、分岐点でもあった。《夜警》以前の1630年代のレンブラントは、肖像画家として大成功を収めながらも、同時にバロック絵画の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)を意識した劇的な構成をもつ物語主題の大作を多数制作していた。けれども、葛藤もあった。それはおそらく、カトリックの画家ルーベンスとは異なる新しい物語画がプロテスタントのオランダには必要であり、それが描けない限り、ルーベンスを超えられないことにレンブラントは気がついたからであろう。《夜警》は、そのようなレンブラントの最初の試みだった。《夜警》の重要性は、集団肖像画であると同時に、劇的な物語画的構想をもつ作品というだけでは不十分であり、レンブラントの後半生の大きなテーマとなる共和国的秩序や苛酷な運命の甘受といった、オランダのプロテスタント的理念に重なるテーマの萌芽にこそある。後半生には、レンブラントのこのような試みの集大成となる作品が描かれた。例えば、荘重でありながらも温かみを漂わせる《布地組合の見本監査官たち》(1662)や、深い瞑想的雰囲気をもついたわり合う男女《ユダヤの花嫁》(1663-65頃)である」と幸福氏は語った。
またレンブラントは版画家としても著名だが、版画用紙に和紙を使っていた。和紙の使用は、「荘重でありながらも温かみ」があり、「深い瞑想的雰囲気」に富むこの晩年のレンブラントの特色と深い関係がある、と幸福氏は指摘する。《夜警》を完成させてから6年後の1648年頃から使い始める東洋からもたらされた和紙は贅沢の象徴でもあっただろうが、画面全体に荘重で深い瞑想性を与える。独特の雰囲気は、レンブラント晩年の深い感情表現や高い倫理性に通じるものだったのではないか。和紙は、単にひとつの画材の使用にとどまらない重要なテーマである、と幸福氏は語っていた。《夜警》と和紙というまったく無関係に思われるもののつながり、そこにこそレンブラントの無尽蔵の魅力があるのだろう。
デビューは歴史画
日本でもよく知られたレンブラントは、本名をレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインといい、17世紀オランダを代表する画家であり、版画家でもある。製粉業に従事していた父ハルメン・ヘリッツゾーン・ファン・レインと、名門の血を引く母ネールチェン・ヴィレムスドホテル・ファン・ザイトブルックの9番目の子として、1606年レイデンに生まれた。父はレンブラントを、ウィレム1世が1575年に設立したオランダ最古の大学・レイデン大学に通わせるだけの資産家であった。
レンブラントは、大学に入学登録したが画家を目指して退学し、故郷レイデンの画家ヤーコプ・イサクスゾーン・ファン・スワーネンビュルフ(1571-1638)に師事。3年後、国際都市アムステルダムへ赴き、著名な物語画家ピーテル・ラストマン(1583-1633)に半年間学んだ。1625年19歳、兄弟子でよきライバルでもある画家ヤン・リーフェンス(1607-74)と共同アトリエを構え、画家として独立。デビュー作は歴史画《聖ステパソの殉教》だった。1626年には精緻な細密描写で、北方絵画の伝統を受け継ぐ迫真の人物描写《トビトと子山羊を抱えるアンナ》を、1629年にはレイデン時代の代表作《銀貨30枚を返すユダ》を描き名声を得た。
1631年貿易港として繁栄するアムステルダムに移住。翌年画商ヘンドリク・ファン・アイレンビュルフ工房で活動し、最初の集団肖像画《テュルプ博士の解剖学講義》を描いて一躍名を上げた。オランダ総督から大画面の連作「受難伝」を委嘱され、人気画家としての地位を確立する。1634年28歳、画商アイレンビュルフの姪で、名家の娘サスキア・ファン・アイレンビュルフと結婚。芸術家組合の聖ルカ組合に加入した。1639年豪邸(現レンブラントハイス美術館)を購入し、4人の子供にも恵まれたが、1641年に生まれた次男ティトゥスを残して3人が亡くなってしまう。ティトゥスが生まれた翌年の1642年、病気がちだったサスキアが結核により29歳で死去。同年《夜警》が完成した。36歳のこの年を境にレンブラントの人生は暗転する。
破綻のなかで生まれた傑作群
レンブラントは次男ティトゥスの乳母ヘールチェ・ディルクスと内縁関係になりながらも、新たに家政婦として雇った若いヘンドリッキェ・ストッフェルスに惹かれ、ヘールチェとの関係を清算しようとし、ヘールチェに婚約不履行で訴えられる。レンブラントは罰金を支払い、さらに更生施設に収容されたヘールチェの費用を支払った。1654年ヘンドリッキェはレンブラントとの不義のかどで改革派教会に召喚されるも、10月に三女コルネリアを生む。1656年50歳、レンブラントはアムステルダム市に破産を申告し、1658年邸宅を売却した。
国内経済の落ち込みで絵の注文が減り、経済的苦難を強いられたレンブラントだが、版画の代表作《病人たちを癒すキリスト(百グルデン版画)》(1648頃)や、《エジプト逃避途上の休息》(1647)、《ヤン・シックス》(1654)、《水浴する女》(1654)、《ダヴィデ王の手紙を持つバテシバ》(1654)、《放蕩息子の帰還》(1666-68頃)など、内省的で物語性のある絵画の傑作も生んでいた。
しかし、1663年には37歳の内縁の妻ヘンドリッキェが亡くなり、68年には27歳の息子ティトゥスが結婚後に死去。視力が衰え作品制作は停滞。1669年3月、ティトゥスの遺児ティティアが誕生し、10月4日レンブラントは没した。享年63歳。アムステルダム西教会の無名墓地に埋葬された。物語、肖像、風景を主題に創作活動を続け、和紙やヴェラム(子牛紙)などさまざまな紙を用いて刷った約300点の版画を残したエッチング作家でもあった。商人を中心とした市民社会が育まれた17世紀オランダ共和国とともに成長し、その黄金時代を体現した画家だった。
【夜警の見方】
(1)タイトル
夜警(やけい)。英題:The Night Watch
19世紀初頭以来の呼称。夜の場面ではなく、ニスが幾層にも塗られ、画面が暗かったことによる誤称。アムステルダム国立美術館では「Officers and other militiamen of District II in Amsterdam, led by Captain Frans Banninck Cocq and Lieutenant Willem van Ruytenburch, known as ‘The Night Watch'」と表記されており、日本語では「夜警(隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファン・ライテンブルフの市民隊)」などと訳されている。
(2)モチーフ
隊長、副官、市民隊の人々、少女たち、少年、犬、石造りのアーチ、杖、銃、旗棹、矛槍、太鼓、楯など。
(3)制作年
1642年。レンブラント36歳。妻サスキアが亡くなった年。
(4)画材
キャンバス、油彩。
(5)サイズ
縦379.5×横453.5cm。レンブラント最大の油彩画。キャンバスを3枚、水平につなぎ合わせてつくられている。1715年までアムステルダムの火縄銃組合本部の大広間に飾られていたが、市庁舎へ移設された時に展示に合わせ、画面の左側を約60cm、右側と上下も少しずつ切断された。
(6)構図
動的で演劇性のある複雑な構図。人物の顔をつなげていくと、大きな楕円と螺旋の流れが見えてくる螺旋状の人物配置。杖、銃、旗竿、槍などの直線的モチーフが垂直や平行、X字型をつくる。隊長の突き出された左手と踏み出した足による始動と同時に制御された特性のある構図。詩人・劇作家ヨースト・ファン・デン・フォンデル(1587-1679)の当時流行の舞台劇『ヘイスブレヒト・ファン・アムステル』の構成や人物の動きから、構成のヒントを得た可能性がある。
(7)色彩
黄色、赤、青、緑、茶、紫、灰、白、黒、金など多色。
(8)技法
肖像画として、各人の姿態、表情や仕草が、個性的に等身大で描き分けられている。キアロスクーロ(明暗法)の技法を用い、影から光の部分を微妙に変化させ、立体感や質感を出す。一方、不規則な明暗と、はっきりとしたコントラストをつくり、絵に動きや深みを与え、またタッチや筆さばきから触覚を刺激する。中景・後景の人物を薄く塗り、前景の事物では絵具を盛り上げて突出感を出し、空気遠近法を応用しつつ色彩とコントラストによって、前景の二人を際立たせている。暗部にはグラッシ
と呼ばれる技法を取り入れ、暗色の濃さと深みを増した。(9)サイン
少女の足元に「Rembrandt f 1642」と茶色で署名。オランダの画家の署名は、組み合わせ文字やイニシャルと名字を用いたが、レンブラントは1633年以降「Rembrandt」と名を明示するようになった。
(10)鑑賞のポイント
タイトルに反し、昼間に火縄銃組合の隊員たちが出動する一瞬を等身大に描いている。この時代の火縄銃組合は、もともとあった自警団ではなくなり、パレードや行事に参加するための市民隊だった。火縄銃組合が、隊長ら16人の肖像画をレンブラントに依頼。レンブラントは、1,600グルデン、ひとりあたり平均100グルデンを受け取った(100グルデンはおよそ100~150万円)。レンブラントは、整列した伝統的な構図は取らず、肖像画でありながらも、架空の人物も登場させ、さまざまな身振りをつけて舞台の一場面のように描いた。レンブラントの独創により、肖像画に物語性を与え、逆に、物語画でありながら、特定の人物の肖像画ではないかと思わせるような、レンブラントの本質を象徴する作品。
隊長の出動の合図、太鼓の音、銃声、大旗のはためき、雑談の声、犬の吠え声が聞こえる。左上からの光線が隊長と副官に当たる。隊長の衣装の黒、襞襟の白、飾帯の赤は、アムステルダムの市旗の配色であり、副官の黄色い服に落ちた隊長の手の影の中には、この町を守護していると言わんばかりにアムステルダムの市章の象徴「立ち上がる獅子像」が金色の刺繍模様に見出される 。左の赤服の男は、火縄銃組合の特権を強調するように、銃の取り扱いを実演し「銃に火薬を詰め」、隊長の後ろの若者は「発射」、副官の右にいるヘルメットを被った男は「火薬皿に息を吹きかける」という3段階の銃の操作手順が描かれている。少女は二人おり、正面を向き光に包まれた謎めいた少女は、火縄銃組合を象徴する擬人化と考えられる。少女は組合の紋章の色である青と金の衣装で着飾り、鶏を腰に提げ、組合の紋章である「鷹の爪」を暗示する爪を目立たせ、右手には組合の宴会で用いる銀の杯を手にしている。モデルは妻サスキアとも言われている 。後景の暗い建物のアーチ右下には紋章型の楯を描き込み、絵に描かれている16~18名ほどの人名が列記されている 。後列の旗手と鎧兜の男の間に、レンブラント自身と思われる虚ろな右目が描き込まれている 。集団肖像画を刷新した傑作であり、レンブランの代表作である。
ダイナミックな躍動感と複雑な構成
オランダ独特の集団肖像画は、16世紀当初、団体の記念写真のように均質な顔が並んでいたが、レンブラントより20歳ほど年下の画家フランス・ハルス(1583頃-1666)は、大胆な筆触による肖像画家としてスナップ写真のように自然な動きや表情を取り入れて人気を呼んでいた。レンブラントは、そこにモデルの仕草や顔の表情に意味と役割を与え、明暗法を駆使し、リアリティを高めて作品の世界観をひとつの劇的な出来事のように描き上げた。
幸福氏は《夜警》の見どころについて「全体を支配しているダイナミックな躍動感と、そのなかの複雑な構成、また明暗の表現や細部の描写に魅力がある。《夜警》は、集団肖像画として見ればまったく異例な絵で、肖像画か何かわからない。つまり肖像画というのは、絵を見る人とモデルとの関係があって成り立つ芸術のため、《夜警》では隊長と副官くらいしかわからない。そういう意味では非常に不思議な絵。虚構の世界と現実とがひとつに溶け合ったような不思議な臨場感がある。『この絵の印象の後では市民隊を描いたほかの作品の多くは、まるでカルタ札のように見える』と、レンブラントの弟子のサミュエル・ファン・ホーホストラーテン(1627-78)の言葉はまさしくそういうことを言っている。ただ逆から言えば、こんな滅茶苦茶な集団肖像画を描かれては困るという。《夜警》は、いわゆるレンブラントの凋落伝説が生まれた原因でもある。《夜警》が人々の不評を買い、その後没落の一途をたどったというものだが、しかし、《夜警》は決して不評だったわけではなく、レンブラントは《夜警》後も困窮をきわめながらも傑作を描いていた」と語った。
《夜警》はこれまでに3回も、観客によって傷つけられてきた。初めは1911年、船会社から解雇された男が腹いせに刃物で《夜警》に襲いかかった。幸い表面の厚いニスに絵は守られた。二度目の1975年には精神科に通院歴のある元教師が、キャンバスを12箇所切り裂き深刻な被害だった。三度目の1990年には、精神病患者によってスプレー状の酸が吹きかけられた。いずれも修復によって元の姿に戻されている。 2018年《夜警》は史上最大の修復プロジェクト「Operation Night Watch」が発表された。前代未聞の公開修復作業が行なわれており、第1フェーズでは科学的な分析調査が実施され、第2フェーズで調査結果に基づいた修復が行なわれる予定だ。2020年末に第1フェーズが終わり、成果のひとつとして約44.8ギガピクセルの超高解像度画像の《夜警》が美術館のホームページで公開されている。《夜警》は災害や困難を乗り越えて伝承されていく。
幸福 輝(こうふく・あきら)
レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献