アート・アーカイブ探求

アンディ・ウォーホル《黄金のマリリン・モンロー》──豊かな空虚「林 卓行」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2021年11月15日号

※《黄金のマリリン・モンロー》の画像は2021年11月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。


アメリカの回想

新潟から新米が届いた。三十数年前、アメリカへのパックツアーで知り会った新潟の人からだった。年賀状だけのお付き合いで、あれから一度も会っていない。丁寧に梱包された5キロ用の箱の中には「新之助」「農林1号」「つきあかり」「南魚沼産コシヒカリ(特別栽培米)」というお米が入っていた。米どころ新潟の歴史が育んできた米の粋美が伝わって来るようだった。

「新之助」は地球温暖化を見据えた革新米。2008年から20万株の米を選抜して研究、開発を重ねてきた新潟が誇る粒の大きいお米だ。驚いたのは、コシヒカリの父という「農林1号」だった。1931年に新潟県の農業試験場で育成された主食用米の源流という天然棚田米の“幻の米”。「つきあかり」は炊飯器のふたを開けた瞬間のご飯の輝きが美しいお米。どれもみな個性的なおいしさがある。トップブランド米のコシヒカリはまだ食していないが、とても楽しみだ。新潟のお米が時空を超えてアメリカへ心を飛翔させてくれた。

さまざまなメディアで画期的な作品を生み出してきたアメリカのアーティスト、アンディ・ウォーホルの絵画《黄金のマリリン・モンロー》(ニューヨーク近代美術館[MoMA]蔵)を探求しようと閃いた。ウォーホルは絵画、彫刻、インスタレーション、版画、写真、映画、音楽、ファッションなど、アートを定義する境界を拡張してきた。版画であるシルクスクリーンを用いた複製作品が多く、《黄金のマリリン・モンロー》ではキャンバスにシルクスクリーンを使いながら、オリジナルの絵画を制作。複製システムを取り込むことで、絵画の概念を揺るがした。金地に、1950年代に一世を風靡したアメリカの映画女優マリリン・モンロー(1926-62)の妖艶な笑顔。チャーミングな赤い唇に白い歯が印象的で、輝かしいアメリカの一時代を象徴するイメージだが、この作品は何を表現しているのだろう。

東京藝術大学美術学部芸術学科准教授の林卓行氏(以下、林氏)に《黄金のマリリン・モンロー》の見方を伺ってみたいと思った。林氏は、20世紀後半のアメリカを中心とする現代美術を研究し、著書『西洋絵画の巨匠9 ウォーホル』(小学館、2006)を出版されている。東京・上野の東京藝術大学美術学部の美学研究室へ向かった。


林 卓行氏



意図的な空虚さ

JR上野駅の公園口から徒歩10分ほど、上野公園に隣接する藝大の美術学部正門で林氏が待っていてくれた。氏は、美術批評を書きながら現代の芸術作品について理論的な研究を行なっている。1969年に東京都町田市に生まれ、1988年東京藝術大学美術学部芸術学科に入学、1997年同大学大学院博士後期課程単位取得退学。その後いくつかの大学で非常勤講師を務めながら、2000年に玉川大学文学部芸術学科芸術文化コース講師に就任、以後同大学芸術学部ビジュアル・アーツ学科准教授、同学部芸術教育学科教授を経て、2017年より現職。

林氏があらためて《黄金のマリリン・モンロー》をしっかりと見たのは、『西洋絵画の巨匠9 ウォーホル』(2006)を書き上げた後だったという。「大量に流通するマリリンの中でも、この《黄金のマリリン・モンロー》はひときわ輝いてみえる」(同書p.50)と書いたが、じつは実見したときは「スカスカな感じがした。ウォーホルはきれいに、あるいはゴージャスに仕上げようとは思っていないのではないか。もともと優秀なデザイナーとして成功を収めていたにもかかわらず、そのテクニックを封印して意図的に安っぽく見えるよう制作していると感じた。デザイナーではなく「アーティスト」としてのウォーホルの一番のセールスポイントはそこにあって、とにかくちゃち・・・にしかやらない。神聖な感じはまったくない」と林氏は《黄金のマリリン・モンロー》の印象を述べた。

ウォーホルはポップ・アートの旗手と呼ばれる。林氏は「1960年代の初頭に始まったポップ・アートは、商品・広告・漫画など大衆文化のシンボルを素材とした。ポップ・アートのアーティストは何人もいるが、そのうちのひとりがウォーホルで、『ポップ』というのもウォーホルが言い出したわけではなく、別のところで生まれた言葉が時間を経て定着していった。また『ポップ・アート』とは、もともと雑誌や新聞に掲載される大量生産された写真やイラストのことで、これを大衆の、つまりポピュラーな芸術と呼んだ。『ポップ・アート』はそれを作品のなかに取り込んでいったときにできたと言える」と述べている。


商業デザイナー

本名をアンドリュー・ウォーホラというアンディ・ウォーホルは、スロヴァキアからの移民オンドレイ・ウォーホラとその妻ジュリアの第3子として、1928年ペンシルヴァニア州ピッツバーグ市に生まれた。二人の兄ポールとジョンがおり、家族でカトリック教会へ通っていた。9歳でカーネギー・インスティテュートの美術教室に通い始めたが、リウマチ熱を発症後、身体に不規則な不随意運動が起きる舞踏病にかかる。14歳のとき建築現場などで働いていた父を亡くした。

1945年17歳で、カーネギー工科大学(現カーネギー・メロン大学)に入学し、絵画・デザインを専攻。1949年には大学を卒業し、同窓生とともにニューヨークへ移った。出版物のイラストやデパートのショーウィンドウのデザインなどを手がける商業デザイナーとして、アンディ・ウォーホルと名乗る。

1952年アート・ディレクターズ・クラブより金賞を授与される。ヒューゴ画廊で初個展を開催したが作品は売れなかった。母がニューヨークへ出てきて同居する。1954年ロフト画廊で作品展を3回開く。挿絵本『25匹の猫サム、そして一匹の青い猫』を自費出版。1955年I・ミラー靴店から毎週『ニューヨーク・タイムズ』紙の日曜版に掲載するための広告デザインの注文を受け、約3年間続いた。

1956年28歳、ボドリー画廊で作品を発表。MoMAの「最近のアメリカ素描」展に靴のドローイングが出品される。友人のチャールズ・リザンビィと日本を含むアジアや欧州を中心に世界一周旅行をする。1957年会社法人「アンディ・ウォーホル・エンタープライズ」を設立。自身の姿を整えることに余念のないウォーホルは鼻の整形手術をした。


マリリン・モンローの死とシルクスクリーン

1960年代のアメリカでは、ベトナム反戦運動や公民権運動が起き、黒人は白人と平等であり、女性は男性と同等の能力と権利があり、若者は過去の因習や価値観にとらわれないというカウンター・カルチャー(対抗文化)が盛り上がり、若者たちは自由があることを宣言した。

1960年32歳のウォーホルは、ロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)やジャスパー・ジョーンズ(1930-)に刺激を受け、歴史に名を残すためにコミックのキャラクターをモチーフに本格的にアーティストとして踏み出す。ところがロイ・リキテンスタイン(1923-97)がすでに同じことをやっていた。1961年画商兼室内装飾家ミュリエル・レイトウからキャンベル・スープとドル紙幣をモチーフにするアイデアを買い取り、フラットな画面にモチーフを反復させた作品を通してアメリカ社会の平等性や通俗性を表現した。

1962年ロサンゼルスのフェラス画廊でキャンベル・スープのシリーズを展示。「死と惨劇」シリーズを始める。「タイム」誌のポップ・アーティスト特集に掲載される。マリリン・モンローの自殺の報によって、シルクスクリーンを用いて「マリリン・シリーズ」の制作を開始する。ニューヨークの最初の個展をステイブル画廊で開き《黄金のマリリン・モンロー》を出品した。同性愛者だったウォーホルだが、女優好きで、マリリンには何か共通するものを感じていたのかもしれない。カールしたブロンドの髪、頬のほくろ、目じりの下がったけだるい顔に焦点を当てた。マリリンとの出会いは死というテーマを展開していく契機となり、またシルクスクリーンの発見は、工業製品のように大量生産する作品制作システムをもたらす重要な手法となった。

マリリンの人生は恵まれていなかった。本名をノーマ・ジーン・モーテンソン(またはベイカー)というマリリン・モンローは、1926年ロサンゼルスに生まれた。父親を知らず、7歳のときに母親が発狂したため、孤児院や里親をたらい回しにされ、そこで性的虐待を受けて吃音症になったという。16歳で結婚したがやがて離婚。トップスターとなった1954年、野球選手のジョー・ディマジオと結婚し、来日もしたが翌年に離婚。1956年には作家のアーサー・ミラーと結婚するが1961年に離婚。

マリリンはセックス・シンボルとして、そのグラマーなスタイルや、ヒップのふくらみを強調して腰を振って歩く「モンロー・ウォーク」が人気を集めた。しかし当時、マリリンは肉体だけで中身のない空っぽな女だという者もいて、徐々にヒット作が減り精神を病んで、たびたび入院した。1962年自宅の寝室で全裸で死亡しているところをメイドが発見。睡眠薬の大量服用による自殺とされるが、裸体で受話器を握りしめており、持ち歩いていた手帳が消えているなど不審な点も多く、謀殺説もあり、いまなおその死は謎に包まれている。36歳だった。


オリジナル神話を無化

ウォーホルやリキテンスタインら芸術家たちが1962年の晩秋、ニューヨークのシドニー・ジャニス画廊で開かれた「ニュー・リアリスツ(新しい現実主義者たち)」展に集結する。商品と広告が溢れる社会の現実を、ウォーホルらが明快な作品をつくり、芸術として切り開いていった。これらの芸術の呼称として、イギリスで生まれた「ポピュラー・アート(大衆の芸術)」の短縮形「ポップ・アート」がやがて用いられるようになった。ウォーホルは、映画制作にも着手。スタジオをタイムズスクエアに近い東47丁目231番地に構えて内装を銀色で覆った。作品の大量生産を行なうそのスタジオは「ファクトリー」と呼ばれるようになる。

1964年36歳になると「死と惨劇」シリーズが、パリのイリアナ・ソナベント画廊ほか、ヨーロッパ各地で展示される。ニューヨークのステイブル画廊で商品パッケージを合板でつくった彫刻《ブリロの箱》などを展示。ニューヨーク万国博覧会ではニューヨーク館外壁のための壁画《13人の凶悪指名手配犯》を制作した。しかし当局からの抗議で銀色に塗りつぶされてしまう。

1965年イリアナ・ソナベント画廊での「花」展のオープニングで映画制作のため「画家廃業宣言」をする。1966年ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグランド&ニコ」をプロデュース。映画『チェルシー・ガールズ』が興行的に成功する。

1968年40歳、ユニオン・スクエア・ウエストにスタジオを移す。ウォーホルの自主映画《アイ、ア・マン》の出演者で、女権拡張論者であったヴァレリー・ソラナスにスタジオで狙撃され、瀕死の重傷を負う。以降、映画制作に関わることが少なくなっていく。ドイツ「ドクメンタ4」に出品。1969年インタヴューのみで構成した雑誌『インタヴュー』を創刊。1971年日本初の「アンディ・ウォーホル」展が渋谷の西武百貨店で開催。1972年44歳、ピッツバーグに前年帰郷していた最愛の母ジュリアが死去。

セレブからの肖像画の注文が増加し、1974年スタジオをブロードウェイ860番地に移転。「オフィス」として知られるようになる。東京と神戸の大丸百貨店で「アンディ・ウォーホル大回顧展」が開催され、来日する。1976年最後の映画『アンディ・ウォーホルのBAD』を制作、監督はインテリアデザイナーでウォーホルの恋人といわれるジェド・ジョンソン。1978年50歳、ケーブルテレビ用番組「アンディ・ウォーホルのテレビ」を制作。1979年初めて抽象絵画に接近した作品「シャドー(影)・シリーズ」に着手した。

1980年52歳、著書『ポッピズム──ウォーホルの60年代』を出版。1983年日本の現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」が渋谷パルコで開催され、全国約50カ所に巡回。1986年自画像やカモフラージュ、最後の晩餐のシリーズを制作。1987年2月21日、ニューヨーク病院で胆嚢手術を受けて成功したが、術後の合併症のため翌22日早朝に亡くなった。享年58歳。

芸術のオリジナル神話を無化し、芸術そのものに疑義を呈し、消費されることに徹したウォーホル。時代で起こっていることを鏡のように全部反応していった。アメリカの大量消費社会の光と影をとらえ1970年には『ライフ』誌によってビートルズと共に「1960年代にもっとも影響力のあった人物」に選ばれ、ポップ・アートの代表的芸術家になったが、発言と容貌の二つの面からブランドとしてつくり上げられた芸術家像からはウォーホルの真実を知るのは難しい。ピッツバーグにある聖ヨハネ・バプテスト・カトリック共同墓地の両親の近くに埋葬されている。


【黄金のマリリン・モンローの見方】

(1)タイトル

黄金のマリリン・モンロー(おうごんのまりりん・もんろー)。英題:Gold Marilyn Monroe

(2)モチーフ

マリリン・モンローの写真(ジーン・コーマン撮影)。

(3)制作年

1962年。ウォーホル34歳、ポップ・アートの絶頂期。マリリン・モンローが亡くなった年。

(4)画材

キャンバス、アクリル絵具、シルクスクリーンのインク。

(5)サイズ

縦211.4×横144.7cm。

(6)構図

前を向いているマリリンの頭部を、広い余白を持たせつつ画面の中心より少し上に配置した、正面性の強い構図。

(7)色彩

黄みの橙、黄、薄紫、青緑、水色、赤、白、黒。光沢のない色彩である。

(8)技法

薄いアクリル絵具で画面を無造作に塗布後、中央部のシルクスクリーンを施している。絵筆の跡が見える部分があり、ところどころに色むらもある。本格的に制作しようという意志をあまり感じさせない粗雑さが特徴。ウォーホルは、1962年8月5日に36歳でマリリン自殺との報道に接し、マリリンの写真としては必ずしも知られた写真ではない、1953年のアメリカ映画『ナイアガラ』宣伝用のスチル写真とされている1枚の写真を利用。大きくはだけた胸元を切り離し、首から上の頭部だけをトリミングして、シルクスクリーンを使ってキャンバスに転写した。そしてその画像の上にさらにまたブロンドの髪とアイシャドーを強調する平板な彩色を重ねた。

(9)サイン

なし。

(10)鑑賞のポイント

ゴールドの広い色面の中央に、実物大よりやや大きなマリリン・モンローのカラー・ブロマイドのような顔がある。西洋絵画では、伝統的に黄金の背景は神やイエス・キリスト、あるいは聖母や聖人を描くイコン(聖画像)のために用いられてきた。ウォーホルは本来“聖”なる者の姿を描くべきところに、正反対の“俗”なるセクシー・アイドルの姿を描いた。マリリンは口を軽く開き、上の歯と下の歯を密着させて微笑んでいるが、目はどこを見ているかはっきりせず、そのことが見る者を不安にさせる。また、シルクスクリーンで転写された映像は、実体感に乏しく、かすれによってその“映像”さえもすぐに消え去ってしまうのではないかと思わせる。そしてその小さな映像の周りを黄金の板が囲み、重々しい“物質”を意識させる。聖と俗、映像と物質という二極の対照の共存による強いコントラストに引きつけられる。しかし、絵の前に立つとき鑑賞者は空っぽな感覚に戸惑うであろう。その芸術の重みのなさ、軽み、期待を裏切る脱臼感がいままでの絵画にはない新しさである。実体のない永遠不変のマリリンと同じく、この絵画にも空虚さが満ちている。聖母と女優を崇拝するクリスチャン、ウォーホルの嗜好や信仰を直截に示す作品でもある。1962年にステイブル画廊の個展に出品し、アメリカのモダニズムを代表する建築家のひとりであり、ウォーホルとも親交の深かったフィリップ・ジョンソン(1906-2005)が購入、MoMAに寄贈された。


“複製”と“オリジナル”の問題

林氏は、「ウォーホルにはほぼ同一のイメージを何度も反復する、あるいは単独のイメージでも大写しにするなどして画面を覆い尽くす傾向がある。それらと比べてみたとき、余白をもはや余白とは言えないくらいに極端に大きく取った、《黄金のマリリン・モンロー》は異質。異質だけれどウォーホルらしい軽妙さや画面の奥行きを排除したフラットさ、対象をどこか突き放して態度の中立を保っているところなど、ウォーホルらしさが全部入っている作品でもある。またウォーホルはこの絵の段階では“複製”に全面的に舵を切るか、一点ものの絵画としての“オリジナル”らしさを残すかで、まだ迷いがあったように思う。金地の背景や塗りむら、刷毛の跡などの、伝統的な絵画の要素を戦略的に取り戻したというよりは、まだ何をするべきか、揺れ動いている最中の作品だったのではないか。そしてこの作品のように、わかりやすくここが画面の中心というところにひとつだけ人物の顔を入れている作品というのもほとんどない。その点でも《黄金のマリリン・モンロー》はウォーホル作品のなかで目立つ。ただウォーホルは実際にこの作品を制作してみて、この後さらに展開させる可能性をあまり感じなかったために、この種の作品の制作を止めたのではないか。そうしてこの後、顔を描くときには画面一杯に描くなど、全体にイメージの周辺に余白を取らなくなった」と言う。

そして、背景をゴールドにした理由は「仕上がりの感じを見たかった可能性がある。ゴージャスに見えるか、あるいはイコンのように神秘的に見えるか。そこに俗っぽいマリリン・モンローを、しかも粗雑な複製画像にして持ってくることで生まれるコントラストの効果を試してみたように思う。いわば『本気』で聖なる作品にしなかったところが功を奏している。背景に本物の金箔を貼っていたら、見る者の関心は、中央に卑俗な女優の顔があっても、宗教画のように神聖な作品として見る方に引っ張られてしまっただろう。実際これ以前のデザイナー時代のイラストレーションで、部分的にだがこのような金箔の効果を活かした作例もある。しかし、《黄金のマリリン・モンロー》を描いたときのウォーホルは、そこは踏みとどまった。その意味で、安っぽいアクリル絵具で凌いだことが、このときのウォーホルにとっては正解だった。あるいはもっと単純な連想で、マリリンが『ブロンド(金髪)』だから背景を金色にすることを思いついたのかもしれない。でもそれはそれで面白いと思う。教会に祀るイコンの金地とマリリンの金髪、どちらも同じ金じゃないか、ということを示したわけだから。すごく神聖なものとすごく安っぽいものを、『金』は両立させることができる。そこに現代的な『金』の意味を発見した。その現代性を示すためには、金箔ではなくアクリル絵具でなければならなかった、ということだったのでは」と林氏。

さらに「一般的な展示では、マリリンの顔がだいたい鑑賞者の目の高さに来ることになるが、その顔は実物大よりもひと回り大きい。ウォーホルは宗教的には保守的だったため、聖像のように偉大さを表わすために現実の人体よりも大きく描いたことも考えられるが、もともとのモチーフが実物のモンローではなく拡大縮小の自在な写真であったことを考慮すれば、そのことを利用して、等身大の顔を期待して絵の前に立つ見る者のスケール感覚を、わずかに撹乱しようとしたのかもしれない。周囲にある広大な金地の余白がさらにこのスケール感覚をあいまいにする。いずれにしても、《黄金のマリリン・モンロー》は積極的にこういう作品だ、と言い切れるものがないところが特徴。例えば、金を背景に使っているからゴージャスな作品と理解しようとした途端に、その割には安っぽい絵具が使われている、などそれを打ち消す要素が浮かび上がる。図版のイメージからゴージャスだったり神秘的な作品を期待していざ実物の前に立ってみると、そのとりとめのなさ、つかみどころのなさに唖然とする。そんな肩透かしをくらわすような空虚さが許されるのが、ウォーホルの芸術のすごさでもある」と林氏は語った。ウォーホルは「本当に豊かだということは空間を持つことだと思う。大きな空っぽの間を一つ」と記している(アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』p.192)。

《黄金のマリリン・モンロー》は出品されないが、「アンディ・ウォーホル・キョウト/ANDY WARHOL KYOTO」展が、来年(2022.9.17~2023.2.12)、京都の京都市京セラ美術館で開催される予定である。アンディ・ウォーホル美術館所蔵の作品約200点が鑑賞できる。




林 卓行(はやし・たかゆき)

東京藝術大学美術学部芸術学科准教授。専門は美術批評・現代芸術論。1969年東京都生まれ。1992年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業、1994年同大学大学院美術研究科芸術学専攻修士課程修了、1997年同大学院美術研究科美術専攻(美学/現代芸術論)博士後期課程単位取得退学。2000年玉川大学文学部芸術学科芸術文化コース講師、2007年同大学芸術学部ビジュアル・アーツ学科准教授、2014年同学部芸術教育学科准教授、2015年同教授を経て、2017年より現職。主な論文:「同一性のかたち──ドナルド・ジャッドの芸術について」(『美学』45(4)、1995)、「描くことの半透性──ゲルハルト・リヒターをめぐって」(『カリスタ 美学・藝術論研究』Vol.4、1997)、「局所化されたミニマル・アート──批評的読解の試み」(『美術フォーラム21』No.30、2014)。主な著訳書:『西洋絵画の巨匠9 ウォーホル』(小学館、2006)、『日本近現代美術史事典』(共著、東京書籍、2007)、『ART SINCE 1900──図鑑 1900年以後の芸術』(共訳、東京書籍、2019)、『彫刻の歴史──先史時代から現代まで』(共訳、東京書籍、2021)など。所属学会:美学会、美術史学会。

アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)

アメリカの美術家。1928-87年。本名はアンドリュー・ウォーホラ。スロヴァキアからの移民一家の三男としてペンシルヴァニア州ピッツバーグ市に生まれた。敬虔なカトリック教徒で父を14歳のときに亡くし、母ジュリアに育てられた。1945年カーネギー工科大学で絵画・デザインを学び、卒業後は商業デザイナーとして活躍。1956年世界一周旅行中に初来日。1960年アーティストに転向し、日用品や有名人、死や惨劇をテーマにシルクスクリーンを用いた絵画作品を多数制作。ポップ・アートを誕生させた。1963年スタジオ「ファクトリー」を設け、アンダーグランドな映画を制作するほか、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグランド&ニコ」をプロデュース。1968年女権拡張論者に銃撃され、瀕死の重傷を負う。1969年月刊誌『インタヴュー』の創刊など活動の領域を広げる。1970年代には社交界のスターとなり、注文肖像画の依頼を受け、アートをビジネスとして展開。1974年大規模個展のために再来日。1980年代にはテレビ出演を積極的に行ない、日本ではビデオテープの広告に登場。「僕は誰もが機械であるべきだと思う」「アンディ・ウォーホルについて知りたいなら、表面だけを見ればいい」「将来、人は誰でも15分間だけ有名になるだろう」など、銀髪のカツラをトレードマークに発言し、芸術にまつわる概念を崩しつつ核心をそらした。1987年ニューヨークにて没。享年58歳。主な作品:《黄金のマリリン・モンロー》《32個のスープ缶》《3重のエルヴィス》《ラヴェンダー色の惨劇》《ブリロの箱》《花》《牛の壁紙》《毛沢東》《マリリン・シリーズ》《酸化絵画》《カモフラージュの自画像》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:黄金のマリリン・モンロー。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:アンディ・ウォーホル《黄金のマリリン・モンロー》1962年、キャンバス・アクリル絵具・シルクスクリーンインク、211.4×144.7cm、ニューヨーク近代美術館(MoMA)蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:MoMA、The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts, Inc、Artists Rights Society(ARS)、日本美術著作権協会(JASPAR)、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式25.9MB(300dpi、8bit、RGB)。資源識別子:0163652D.jpg(Jpeg、27.5MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールあり)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:MoMA、The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts, Inc、ARS, NY、JASPAR、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

《黄金のマリリン・モンロー》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。事前に日本美術著作権協会のWebより「著作権使用許諾申請書」をダウンロードして記入し、メールで申請。許可を得て「著作権使用料」\8,000を支払う。後日、DNPACのTeamsより作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、27.5MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールあり)。画像のトリミングはなし、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。所蔵館のWebサイト上にある作品画像を参照しながらPhotoshopで色味を調整し、額に沿って画面を切り抜いた(Jpeg、25.9MB、300dpi、8bit、RGB)。マリリン・モンローに肖像権はないと思われるが、MARILYN MONROE LLC.のWebに「パブリシティ権および人格権は、マリリン・モンローLLC.の許可を得て使用されます」と表示されていたので、念のために11/4と11/6の二度メールで画像掲載についての手続方法を問い合わせしたが、返信はなかった。その後2021年11月24日、クレジット「Marilyn Monroe(tm); Rights of Publicity and Persona Rights are used with permission of The Estate of Marilyn Monroe LLC. marilynmonroe.com」を入れるようにとメールが入り、クレジットを加えた。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。



参考文献

・清水俊彦「完全なメディアとしてのアンディ・ウォーホルと彼の絵画の一局面について」(『美術手帖』No.374、美術出版社、1973.11、pp.91-101)
・日向あき子『アンディ・ウォーホル』(リブロポート、1987)
・カーター・ラトクリフ著、日向あき子・古賀林幸訳『アンディ・ウォーホル』(美術出版社、1989)
・美術出版社編『ウォーホルの世界』(美術出版社、1990)
・宮島美子「ポップアップ・ストーリーズ」(『ユリイカ』No.299、青土社、1990.9、pp.164-173)
・アンディ・ウォーホル著、中原佑介監修『アンディ・ウォーホル』(新潮社、1990)
・アンディ・ウォーホル『ウォーホル (現代美術 第12巻)』(講談社、1993)
・ロザリンド・E.クラウス著、小西信之訳『オリジナリティと反復──ロザリンド・クラウス美術評論集』(リブロポート、1994)
・図録『レボリューション/美術の60年代 ウォーホルからボイスまで』(東京都現代美術館、1995)
・Eric Shanes著、水沢勉訳『岩波世界の巨匠 ウォーホル』(岩波書店、1996)
・日向あき子『ANDY WARHOL, WHO HE? 天才ウォーホルを精神分析する』(アートダイジェスト、1996)
・図録『アンディ・ウォーホル1956-86──時代の鏡』(アンディ・ウォーホル美術館・朝日新聞社、1996)
・アンディ・ウォーホル著、落石八月月訳『ぼくの哲学』(新潮社、1998)
・Georg Frei and Neil Printz編『The Andy Warhol catalogue raisonne 01 WARHOL Paintings and Sculptre 1961-1963』(Phaidon、2002)
・Sally King-Nero編集長、Georg Frei and Neil Printz編『The Andy Warhol catalogue raisonne 02A WARHOL Paintings and Sculptre 1964-1969』(Phaidon、2004)
・林道郎『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない(4)Andy Warhol』(ART TRACE、2005)
・日高優「カムフラージュの技法──アンディ・ウォーホルの〈マリリン〉」(小林康夫編『美術史の7つの顔』、未来社、2005、pp.231-266)
・林卓行『西洋絵画の巨匠9 ウォーホル』(小学館、2006)
・Eric Shanes著、山梨俊夫監訳、前田希世子訳『美の20世紀16 ウォーホル』(二玄社、2008)
・アンディ・ウォーホル美術財団編、夏目大訳『とらわれない言葉 アンディ・ウォーホル』(青志社、2010)
・宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』(光文社、2010)
・図録『アンディ・ウォーホル展──永遠の15分 森美術館10周年記念展』(美術出版社、2014)
・ジョゼフ・D・ケットナー2世著、藤村奈緒美訳『アンディ・ウォーホル』(青幻舎、2014)
・Donna De Salvo、その他『Andy Warhol──From A to B and Back Again』(Whitney Museum of American Art、2018)
・Webサイト:『The Andy Warhol Museum』2021.11.9閲覧(https://www.warhol.org/
・Webサイト:『Andy Warhol museum of Modern Art』2021.11.9閲覧(https://www.muzeumaw.sk/en
・Webサイト:「MoMA Learning Gold Marilyn Monroe」(『MoMA』)2021.11.5閲覧(https://www.moma.org/learn/moma_learning/andy-warhol-gold-marilyn-monroe-1962/
・Webサイト:「Andy Warhol Gold Marilyn Monroe 1962」(『MoMA』)2021.11.5閲覧(https://www.moma.org/collection/works/79737



掲載画家出身地マップ
※画像クリックで別ウィンドウが開き拡大表示します。拡大表示後、画家名をクリックすると絵画の見方が表示されます。

2021年11月

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