アート・アーカイブ探求
ディエゴ・ベラスケス《ラス・メニーナス》──移ろう真実「松原典子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年04月15日号
※《ラス・メニーナス》の画像は2022年4月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
戦渦のなかの名作
東京・港区麻布台にあるロシア大使館で、いまから4年ほど前の2017年12月5日に「プーシキン美術館展──旅するフランス風景画」のプレス発表会が開かれた。翌年の4月14日から東京都美術館で開催される予定だったので、通常よりもかなり早いプレス発表会となった。実物を鑑賞できる内覧会はなく、プロジェクターで出品作を解説していたのだが会場は盛況だった。女性のマリーナ・ロシャク館長が来日され、ピロシキや茶菓子、飲み物もあり、細やかな心づかいが印象に残っている。そのロシアがウクライナの一般市民を巻き込んだ戦争を始め、2022年4月現在新型コロナが「BA.2」から「XE」へと変異するなか、終結させる気配を見せていない。
ナチスに追われて渡米した物理学者のユダヤ系ドイツ人アインシュタインと、精神分析の創始者フロイトとの往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社)のなかで「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というアインシュタインの問いに、フロイトは「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と語る。文化が人間の命を救う。
17世紀の三十年戦争(1618–48)、フランス・スペイン戦争(1635-59)という戦渦でも絵画は描かれ、長引く戦争のなかで名作が生まれた。スペインの画家ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)が描いた《ラス・メニーナス》(1656、プラド美術館蔵)もそのひとつである。縦長の巨大画面で、上半分が天井と壁という不思議なバランスの絵。記録画なのか、真ん中で金髪の女の子がポーズを取っている。なぜ大きなキャンバスの裏側をしっかり見せているのだろう。奥の鏡に映っている人はどこに立っているのか。この絵は一体何を描いているのか。不思議な《ラス・メニーナス》を探求してみよう。
上智大学外国語学部教授の松原典子氏(以下、松原氏)に《ラス・メニーナス》の見方を伺いたいと思った。松原氏はスペイン初期近世美術を専門とされ、『ベラスケスとプラド美術館の名画』(中央公論新社、2018)の監修や、『スペイン美術史入門』(NHK出版、2018)の「近世スペインの美術」の章でベラスケスについて執筆するなど、ベラスケスの絵画に詳しい。東京・四谷の上智大学へ向かった。
語学から美術へ
東京メトロ丸ノ内線が地上に出て、上智大学真田堀運動場が見えてくるとホッとひと息つくことができる。JRと交わる四ツ谷駅から四谷キャンパスへは徒歩5分。見晴らしのいい明るい研究室で話を伺った。
松原氏は、1968年香川県高松市に生まれ、茶道の仕事をしていた祖父と母の関係で、茶道具や掛け軸が身近にある環境で育ったそうだ。中学、高校時代はシスターのいる岡山県の一貫教育校で、寄宿舎生活を送っていた。絵を見るのが好きで大原美術館へはよく行ったという。語学も好きだった松原氏は、外交官になりたいとの思いから、世界的に話者の多いスペイン語を選び、1986年上智大学外国語学部イスパニア語学科に入学した。その年国立西洋美術館では「エル・グレコ展」が開催され、大原美術館所蔵の《受胎告知》と松原氏は再会する。
1990年上智大学を卒業する頃、イタリア美術のヴェネツィア派に興味を抱き、大学院への進学も考えたが、社会を知るため新聞社に就職した。語学から美術の方へと関心が向かい、1993年早稲田大学大学院へ入った。ギリシア・クレタ島に生まれ、ヴェネツィアで修業したスペインの画家のエル・グレコ(1541-1614)で修士論文を書き、1996年文学研究科美術史専攻修士課程を修了、博士課程へ進んだ。アメリカのシカゴ大学大学院人文学部美術史学科へ2年半留学し、スペイン美術史を専攻する。
アメリカを選んだのは、「アメリカ人研究者が、スペイン美術研究において優れた成果を挙げてきており、日本人である私は外国人としてスペイン美術を見るしかないので、同じ立場のアメリカ人から学ぶことは多いのではと考えた。二つ目は、学部時代に美術史を専攻していなかったため、体系的なカリキュラムがあるアメリカの大学院で美術史を基礎から学ぶことが有益ではないかと思った」と松原氏。
ベラスケスとの出会いは、大学2年生の夏休みに友人とスペイン語研修を受けるために、初めてスペインへ行ったときだった。《ラス・メニーナス》の第一印象は「想像していた以上に、大きいな」だった。2001年早稲田大学大学院博士後期課程を退学し、同年上智大学外国語学部専任講師に就任、准教授を経て2017年より教授となる。
宮廷画家で官吏
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスは、1599年スペイン最大の都市、南部アンダルシア地方の川に面した港町セビーリャに、裕福な平民であった両親、父フアン・ロドリゲス・デ・シルバと母ヘロニマ・ベラスケスの長子として生まれた。当時セビーリャは、ヨーロッパ全域から人と富が集結し、美術工芸の優れた技術を育む土壌となっていた。12歳の頃、画家・美術理論家で『絵画芸術』(1649年刊行)の著者として名高いフランシスコ・パチェーコ(1564-1644)に入門。1617年18歳で職業画家の資格審査に合格し、同業組合であるサン・ルカ画家組合に加入する。翌年師パチェーコの娘フアナ・パチェーコと結婚、ボデゴン(厨房画)と呼ばれる台所の様子を表わす風俗的作品《卵を調理する老女》を描いた。1619年長女フランシスカが生まれ、2年後には次女イグナシアが誕生する。
セビーリャ近郊に領地を持っていたフェリペ4世の宰相オリバーレス伯爵(後の伯爵侯)との縁もあり、ベラスケスはマドリードに招かれてフェリペ4世の肖像画を描く。芸術を愛する王に認められ、1623年24歳で王付き画家となる。それ以来、ベラスケスにしか肖像画を描かせないほど画家として重用されると同時に、国王の居室を警護などする王の私室取次係や王室侍従代といった官職も与えられ、宮廷での成功を手にした。
ドイツ生まれの画家ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)とスペイン・マドリードにて親交を持つ。ルーベンスの推挙もあり、1629年から画家として研鑽を積むため2年間イタリアの旅へ出る。ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネツィア、フェラーラ、チェント、ボローニャ、ロレートを訪れた。1633年には長女フランシスカが、弟子のフアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ(1612頃-67)と結婚する。
リアリズムの頂点
1649年50歳、再びイタリアを訪問し、国王の特命大使としてローマ法王インノケンティウス10世に謁見した。そして古代彫刻やヴェネツィア派絵画の買い付けを行なった。滞在中にマルタという女性と恋愛関係になり、庶子アントニオをもうけ、マルタは《鏡を見るヴィーナス》のモデルとなったと言われている。国王から帰国を促されたが、1651年春まで逗留していた。
1652年王宮配室長に任命され、1655年には王女マルガリータが使用していた王宮付属宝物館が住居として与えられた。1656年《ラス・メニーナス》を制作。フェリペ4世が特別な愛情を注いだマルガリータ王女を中央にして、王家の人々に囲まれて制作する画家の内密な情景を描いた。最高位の宮廷画家であり、宮殿を管理する王宮配室長であったベラスケス絶頂期の57歳。イタリア人画家ルカ・ジョルダーノ(1634-1705)は「絵画の神学」といって讃辞を呈した。
1659年スペイン最高の貴族の称号のひとつサンティアゴ騎士団の僧衣をまとうことを許される。ベラスケスは改宗ユダヤ教徒(コンベルソ)の家系という負の遺産を背負っていたが、教皇アレクサンデル7世の特免が得られ、フェリペ4世の勅命によって貴族入りの野望がかなった。1660年王の亡き先妻との娘マリア・テレーサをフランスのルイ14世に引き渡す祝典儀式を終えた8月6日、ベラスケスはマドリードの自宅にて死去。享年61歳。サン・フアン・バウティスタ教区聖堂に埋葬されたが、教会の建物の解体に伴い現在の墓所は不明になっている。
宮廷の激務を務め、絵画を描き、対象が王であれ、障がい者であれ、事物であれ、等しく存在することの尊厳性を画面に定着させる実直な画家だった。画業の大半をフェリペ4世の宮廷画家として過ごし、生涯作品120点ほどという寡作家であったリアリスト。古代神話からルネサンスの美術理論、建築論におよぶ広範な教養を身に付け、時間をかけてモチーフと構想を咀嚼し、人間存在の厳粛さを描いた。近代絵画の父エドゥアール・マネ(1832-83)は、ベラスケスを「画家のなかの画家」と讃えた。表面的な再現を超越した絵画独自の真実、そこにリアリズムのひとつの頂点を見出した。
【ラス・メニーナスの見方】
(1)タイトル
ラス・メニーナス(らす・めにーなす)。17世紀の王宮の財産台帳には「女官、従者、矮人とともにいる皇妃(後に王女マルガリータが神聖ローマ皇帝に嫁ぐため)の肖像」として、1734年以降は「フェリペ4世の家族」として記載されていた。1819年にプラド美術館に収蔵された後、1843年の同館の目録において初めて「ラス・メニーナス(女官たち)」の愛称が用いられた
。英題:Las Meninas(2)モチーフ
スペイン・ハプスブルク家出身の5歳の王女マルガリータ・テレサ、二人の女官(左:赤い水壺を差し出すマリア・アグスティーナ・サルミエント、右:イサベル・デ・ベラスコ)、二人の矮人(わいじん。左:忘れがたい風貌のドイツ人女性マリバルボラ、右:イタリア人の少年ニコラシート・ペルトゥサート)、犬(スパニッシュ・マスティフ犬)、腰に鍵袋を吊るし絵筆とパレットを手にする制作中のベラスケス、尼僧姿の王妃付き女官係の腰元マルセラ・デ・ウリョア、その隣に名前不詳の廷臣、鏡に映る国王フェリペ4世とマリアナ王妃、階段上に王妃付き装飾頭で侍従のホセ・ニエト・ベラスケス、天井にある二つの大きなシャンデリア用のフック、壁を埋める複数の絵画、キャンバス、鏡。
(3)制作年
1656年。初夏を迎えた黄昏の頃。ベラスケス57歳。
(4)画材
キャンバス、油彩。キャンバスは3枚の縦長の画布を縫い合わせている。
(5)サイズ
縦320.5×横281.5cm。人物が等身大に描かれた縦長のモニュメンタルな大画面。
(6)構図
画面の半分以上を部屋の天井や壁が占め、垂直線、水平線を構成する高く広い空間。その前景から中景、遠景に人物を配し、中央にはマルガリータ王女に視線を向ける二人の女官が斜めに身体を傾けてつくる三角形の中に、愛らしく相似形の王女が明るく浮かび上がる。
(7)色彩
黒、紺、青、茶、白、赤、黄、灰など多色。
(8)技法
近くでは即興的な粗い筆触で形をなさない色むらに見える。しかし、そこから離れて見ると写実的で立体感を持って動き出すように見えてくる。描画の像のリアリティと、絵具の物質のリアリティを読み取ることができる。線遠近法の消失点が光を背景に立つ侍従のドア付近にあり、遠景にあるものほど形体をぼやかす空気遠近法を駆使し奥行と立体感を出す。光を右側の前方と後方の2カ所と奥の開けたドアから採光し、輝く前景と後景、陰に沈む中景をつくり、正確な色調と明暗法によって空気感を漂わせている。顔はぼかされ、存在感を立ち上げている。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
スペイン絵画の黄金期と言われる17世紀、宮廷画家であっても画家はまだ身分の低い職人とみなされていた。しかし、スペイン・ハプスブルク家の王フェリペ4世は、マドリードの王宮(アルカーサル)内にあった、17歳で夭折したバルタサール・カルロス王太子の部屋を、アトリエとしてベラスケスに与えた。そのアトリエに集う王家の親しい人々の日常を捉えたスナップショットのような絵。色彩や明暗法、遠近法を巧みに用いて緻密な画面構成を行なっている。当時流行していたフープ
で膨らませたスカートをはいたフェリペ4世の愛娘、5歳のマルガリータ王女をハイライトで画面の中央に輝くばかりに描いた。王女に視線を注ぐ二人の女官(ラス・メニーナス)。前景には横たわる犬と王女の遊び相手である矮人マリバルボラと犬に片足をかける少年ニコラシート。王女は横目使いでこちらを見ており、マリバルボラと画家ベラスケス、奥の侍従ベラスケスもこちらを向いているが、視線の先にはマルガリータ王女の両親である国王フェリペ4世とマリアナ王妃が立っている。鏡に映る国王夫妻が絵の中へいざなう。国王が太陽を反射する鏡にたとえられていた時代に、ベラスケスは絵の中に王とともに画家自身を描いた。ベラスケスの胸の赤い十字章は、サンティアゴ騎士団の紋章である。騎士団は、12世紀に設立され、イベリア半島のイスラム勢力と戦って名声を高め、入団は貴族として最高の栄誉とされた。ベラスケスは《ラス・メニーナス》完成3年後の60歳のとき念願の騎士団入団を果たした。この赤い十字章は完成した絵に、ベラスケス自身が加筆したと思われる。《ラス・メニーナス》の主役はマルガリータ王女だが、絵の中のベラスケスは王女の後方に立って、キャンバスの外側前方の国王夫妻を見ながら、二人の肖像画を描いている。この場面はマルガリータ王女がアトリエに遊びに来たシーンなのか。では、このアトリエの情景を描いている画家は、どこにいるのだろう。現実を描写した一枚の絵画であるように見えるが、《ラス・メニーナス》は現実と仮想、可視と不可視、存在と不在の間にあって、その曖昧な境界線上で揺らぎながら、見る者を迷宮へと引き込む。フェリペ4世の家族を永続化し、画家も絵画もその栄光に浴するのに値する高貴な存在であることを表明した。永遠に解けない謎を秘めたべラスケスの代表作である。絵筆によるマニフェスト
《ラス・メニーナス》について松原氏は「絵の解釈が定まらない作品であるが、ひとつには鏡のトリックがある。奥の鏡には国王フェリペ4世と二番目の王妃マリアナが映り込んでいる。この鏡像は、国王夫妻が直接に映り込んだものではなく、ベラスケスが制作中の裏側しか見えないキャンバスに描かれている二人の肖像画が映り込んだものだと考えられる。キャンバスに何が描かれているのかという疑問については、王女マルガリータ、国王夫妻、あるいは《ラス・メニーナス》というこの絵自体など、長年さまざまに議論されてきたが、近年は多くの研究者が国王夫妻という見解を支持している。フェリペ4世の頭の上に赤いカーテンがあるが、これは肖像画でよく使われるセッティング。モデルとして画面のこちら側に存在する国王夫妻の実像→キャンバス上の画像→鏡の虚像と、果てしなく続く視覚上の仕掛けがある。フェリペ4世は、1640年代の半ばから自身の肖像画をベラスケスに描かせないようにしていた。老いた姿をそのまま描かれるのは耐え難かったのだろう。《ラス・メニーナス》に描かれたのが鏡に映ったフェリペ4世の肖像だとすれば、間接的なかたちではあるとはいえ、40年代以降の初めてとなるフェリペ4世の肖像画でもある」と述べた。
ベラスケスは、バロックの画家として語られる。松原氏は「バロックは古典主義的なバロックから、パワー漲るルーベンス的なダイナミズムな表現まで多様であるため、統一的な様式概念としては把握しにくいが、時代概念としては17世紀から18世紀初めくらいまで。バロックにはいろいろあるが、ベラスケスのバロック性はバロックの一特性としてあるリアリズムにある」と言う。また松原氏は「《ラス・メニーナス》でいえば、複雑な視線の交錯。絵の中からこちらを見られているような、こちらから見ているような、そしてキャンバスの中の国王夫妻が鏡に映り込み、しかもその国王夫妻がこちらの鑑賞者側に立っている。その虚構の絵画世界と現実の世界との境界線がわからなくなってしまう、そこがひとつのバロック性と見ていい。また大衆性、演劇性もバロックのキーワードだが、《ラス・メニーナス》は等身大に近い絵で、ある種の演劇性がある。一見何のてらいもない、実際に起きた瞬間を切り取ったように描いているが、さり気なさを装った仕掛けがあり、それが演劇的なバロック空間を感じさせる」と述べている。
《ラス・メニーナス》の空間は、当時のマドリードの王宮にあった実際の部屋で、王太子の間と言われた部屋。17世紀に作成された財産台帳を見ると、壁に掛かっている絵は特定できると松原氏は言う。「特に重要と思われるのが、正面の鏡の上の2枚の絵。左が《アラクネの寓話》、右が《パンに勝利するアポロン》で、それぞれペーテル・パウル・ルーベンス工房とヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)による2作品を、共にベラスケスの娘婿のマーソが模写した作品。両方とも古代の異教の神話であり、自らの能力や賢さを誇示する人間に対する神の処罰という主題である。そこから、この作品に為政者をめぐる政治的教訓を読み取ろうとする解釈が存在する。他方で、《ラス・メニーナス》には「絵画=高貴な芸術」という宣言が込められているという見方もあり、それもこの2枚の画中画に基づいている。《アラクネの寓話》は、織物の技巧を誇るアラクネという娘と技芸の神であるパラス・アテナが争ってアテナが勝つ。一方の《パンに勝利するアポロン》は、音楽の神アポロンに笛吹が得意な半人半獣の牧神パンが挑むが負ける。いずれも、格下のもの(人間的レベルの技芸)が格上のもの(神聖なる芸術)に敗れるというエピソードと読むことができる。17世紀当時、スペインではイタリアに1世紀以上遅れて、絵画とは手仕事、職人仕事ではなく、高貴な芸術、自由学芸であるということが、画家や画家を取り巻く知識人たちの間で盛んに議論されるようになっていた。ベラスケスの師匠で岳父のパチェーコも著書『絵画芸術』においてそのことを強く主張している。サンティアゴ騎士団への入会が認められたベラスケスが、絵筆を持ってキャンバスの前に立ち、国王夫妻と王女と共に画面に収まっている。そしてその背後の壁に掛かっているのは「高貴な芸術」の勝利を暗示する画中画。これらを考え合わせると、《ラス・メニーナス》は“絵筆によるマニフェスト(宣言書)”と読むことができる」と松原氏は語った。
松原典子(まつばら・のりこ)
ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2022年4月