アート・アーカイブ探求
アルフォンス・ミュシャ スラヴ叙事詩《原故郷のスラヴ民族》──永遠の感触「小野尚子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年06月15日号
※スラヴ叙事詩《原故郷のスラヴ民族》の画像は2022年6月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
「スラヴ叙事詩」全展示
世界有数の小麦の産地で「欧州のパンかご」と呼ばれるウクライナ。誰も止められず長引く戦争に、ミュシャ渾身の「スラヴ叙事詩」がよみがえってきた。日本とチェコが国交を回復して60年の2017年、東京・六本木の国立新美術館で開催された「ミュシャ展」(2017.3.8-6.5)。壁画のような巨大な絵画「スラヴ叙事詩」に囲まれた体験がありありと思い出された。「スラヴ叙事詩」全20点をチェコ国外では世界で初めて公開した「ミュシャ展」は、65万7,350人(『Art Annual online』2018.4.5)を動員して、2017年度日本でもっとも入場者数が多い展覧会であった。「ミュシャ展」の最初に展示されていた《原故郷のスラヴ民族》(プラハ市美術館蔵)に描かれていた、うずくまってこちらを凝視する人の目が印象的だった。
19世紀末パリで、女性のしなやかな曲線と美しい色彩のポスターを制作するデザイナーとして一世を風靡したチェコの画家アルフォンス・ミュシャ。その晩年の作品《原故郷のスラヴ民族》で描かれたのが、現在のウクライナ西部の歴史的な出来事だったことに驚いた。透明感のあるブルーに覆われた画面は、念入りに構想された構図に、明と暗、大と小、静と動、寒と暖の二項対立の要素が組み込まれ、淡い色彩が有する感覚の情と、装飾文様が発する象徴の力が調整され、デザインセンスが光っている。ミュシャは、なぜこれほど大きな絵画を20点も描いたのだろうか。また《原故郷のスラヴ民族》の背景にあるもの、モチーフの意味や描き方など、この絵の見方を小野尚子氏(以下、小野氏)に伺いたいと思った。
小野氏は、兵庫県立美術館分館の横尾忠則現代美術館学芸員であるが、ミュシャの研究者として『ミュシャのすべて』(共著、KADOKAWA、2016)や『ミュシャ:パリの華、スラヴの魂』(共著、新潮社、2018)を出版されており、「スラヴ叙事詩」に詳しい。大阪でミュシャの話を伺うことができた。
見上げる感覚
2025年4月から10月まで開催される「大阪・関西万博」を控えているためだろうか。JR大阪駅、大阪メトロ梅田駅界隈は人が多く、特に女性たちの活気で賑わっていて驚いた。大阪駅に近いカフェの入り口で小野氏が待っていてくれた。小野氏は、1981年山口県に生まれ、2000年美術史のある大阪大学へ入学した。陶芸をやっていて小学校の教師でもあった母の影響で美術が身近にあったという。自宅には窯やアトリエがあり、西洋と東洋の画集が揃い、ダイニングルームにはミケランジェロの複製画《最後の審判》が掛かっていたそうだ。1989年から90年に全国を巡回した「没後50年記念 アルフォンス・ミュシャ展」を観に行ったと母に聞いていたが、小野氏には記憶がない。しかし、その図録が家に残っており、それを見て小野氏はミュシャが好きになった。
中学生になると、美術に関わる仕事をしたいと思い、学芸員を目指すようになる。小野氏は大阪大学へ入り、ミュシャの研究を開始した。2006年大阪大学大学院の修士課程を修了後、博士課程へ進み、チェコ国立カレル大学へ留学。スロヴァキアと分離し、ドイツに合併、再びスロヴァキアと合併、1993年に独立するという複雑な歴史を背景にしたチェコで2年半を過ごす。帰国後、国立国際美術館の非常勤研究員補佐を務め、2012年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。同年兵庫県立美術館の学芸員となり、2021年に横尾忠則現代美術館へ異動した。
小野氏が最初に《原故郷のスラヴ民族》を観たのは、修士課程に入ってすぐの2004年の夏だった。チェコの南モラヴィア地方にあるミュシャの生誕地イヴァンチツェから10キロほどのところにある小さな町モラフスキー・クルムロフの城に展示されていた。小野氏は「まず環境が気になってしまった。お城の庭が荒れ放題で、展示室も1階と2階に所狭しと作品が並べられ迷路のようだった。作品に西日が当たり、蠅が止まったりとか、そっちの方がショックが大きかった。ただ作品の大きさにはすごく驚いた。距離を取って見ることができず、見上げる感覚がすごくて、とにかく入り込む没入感というか圧倒される感じがあった」と語った。
小野氏はミュシャの魅力について「最初は単純にきれいだと思った。大学などで調べていくと、単なるきれいだけではなく、いろんな象徴体系を使っていて、図像学的な部分でも面白いと思うようになり、また例を見ない大型の連作「スラヴ叙事詩」をひとりでつくっていったという、そのエネルギー。テーマと規模とスケールの大きさに惹かれて興味は尽きない」と述べた。
アール・ヌーヴォーとフリーメイソン
アルフォンス・ミュシャは、1860年オーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア地方の小さな町イヴァンチツェ(現チェコ共和国)に生まれた。ミュシャの名はフランス語の発音で、チェコ語ではムハという。父オンドジェイ・ムハは裁判所の官吏で、母アマーリエ・マラーは家庭教師であった。11歳のとき聖ペトロフ教会の聖歌隊として奨学金を得て、この地方の中心都市ブルノの中学校へ通っていた。18歳でプラハの美術アカデミーを受験するが不合格になる。ウィーンへ行き、舞台装置をつくる工房で助手として働く。しかし、工房の顧客であるリング劇場が焼失し、工房の経営難により解雇される。現チェコ南部のミクロフへ行き、名士の肖像画を描いて生計を立てた。そこで大地主のクーエン・ベラシ伯爵のお抱え画家となり、エマホフ城の食堂と図書館の絵画を修復した。1884年クーエン伯爵の援助でミュンヘンの美術アカデミーに留学。
美術アカデミーを卒業した1887年27歳のとき、再び伯爵の援助によりパリのアカデミー・ジュリアンとアカデミー・コラロッシに学ぶ。援助が打ち切られると雑誌の挿絵師として働いた。1891年ポール・ゴーガン(1848-1903)と出会う。1894年のクリスマスに、女優サラ・ベルナール主演の舞台『ジスモンダ』のポスターを受注し、翌年の元旦に町に貼り出され、大評判となった。以降、魅惑的な女性像や流麗な植物文様、繊細な色調など、華やかで洗練されたミュシャ様式が生まれ、広告の目的を持たないポスターと版画の中間的な作品「装飾パネル」やデザイン・ブック、アクセサリー、室内装飾、建築デザインなどをつくり、アール・ヌーヴォーを代表する芸術家のひとりとなる。
それでもミュシャは満たされない思いを抱き、1898年世界中に組織を持ち普遍的な人類共同体の完成を目指す慈善・親睦団体のフリーメイソンの会員となった。翌年には祈祷文「主の祈り」に対するミュシャの解釈を表現した『主の祈り』を出版。1900年40歳のときその『主の祈り』を生かし、パリ万国博覧会のボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画を制作。バルカン半島を取材し、オーストリア=ハンガリー帝国の意向に逆らうことなく、普遍性のあるメッセージを描いて銀賞を受賞、翌年レジオン・ドヌール勲章を受章した。1902年42歳、チェコの芸術家協会「マーネス造形芸術家連盟」主催の「ロダン展」がプラハであり、友人の彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)と一緒にプラハとモラヴィアを訪ねる。同年、図版を72点収めた『装飾資料集』を、3年後にはその続編とも言える『装飾人物集』を出版した。
文化を共有する多民族の協調・融和のシンボル
1904年ミュシャはアメリカに招かれ、「スラヴ叙事詩」制作の資金集めのために、社交界や名士の肖像画を描く。スラヴとはスラヴ語を話す人を差し、地理的には三つの地域に分類される。西スラヴにチェコとスロヴァキアとポーランド、東スラヴにベラルーシとウクライナとロシア、南スラヴにボスニア・ヘルツェゴヴィナとブルガリアとセルビアなど。宗教に関しては、東と南スラヴがロシア正教圏、南スラヴの一部と西はカトリック圏。西スラヴのチェコは3割が無宗教と言われる。19世紀にスラヴ民族の連帯を志し、汎スラヴ主義を掲げた団結が図られたが、「大スラヴ国」の夢は叶わなかった。
1906年46歳ミュシャは、マルシュカ・ヒティロヴァーとプラハで結婚、アメリカへ渡り、ニューヨークの女子応用美術学校の教授に任命される。のちに娘と息子が誕生する。1908年ボストン交響楽団のコンサートで、スメタナ作曲の交響曲「わが祖国」を聴いて、スラヴ民族の団結と文化の発展のため、生涯を捧げることを決心。1909年シカゴの実業家で「アメリカ・スラヴ協会」を設立した富豪チャールズ・R・クレインが「スラヴ叙事詩」の援助に同意する。
1910年50歳で帰国し、ミュシャはプラハから南西へ約60kmのズビロフ城の一翼を借り、自身のルーツであるスラヴ民族の文化を共有する多民族の協調・融和のシンボルとして、歴史画の連作「スラヴ叙事詩」を2年間で3点描き上げる方針で開始した。1911年にはプラハ市民会館「市長の間」の天井画を完成。1912年「スラヴ叙事詩」の最初の3点をプラハ市に寄贈する。1914年第一次世界大戦勃発。1918年オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、チェコスロヴァキア共和国が誕生。ミュシャは新しい国家の国章、切手、紙幣を無償でデザインする。1928年「スラヴ叙事詩」全20点をチェコ国民とプラハ市に寄贈することを発表。ヴェレトゥルジュニー宮殿にて未完成作品《スラヴ菩提樹の下で行われるオムラジナ会の誓い》を除く19点が展示された。「スラヴ叙事詩」の制作中に、社会状況が激変し、西洋美術史の主流はモダニズム全盛となり、「スラヴ叙事詩」は時代遅れの作品と捉えられた。1939年、チェコスロヴァキア共和国は解体させられ、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを侵攻。ミュシャは逮捕され、釈放されたが、肺炎が悪化し7月14日プラハで死去。享年78歳。プラハのヴィシェフラド墓地に眠っている。
【原故郷のスラヴ民族の見方】
(1)タイトル
原故郷のスラヴ民族(げんこきょうのすらゔみんぞく)。副題「トゥーラニア族の鞕とゴート族の剣の間に」と加わるときもある。スラヴ民族は平和を愛した農耕民族であり、異民族から襲撃されることが多かった。東からは遊牧民トゥーラニア族、フン族、アヴァール族、西からはゴート族やゲルマン族が家畜や金品などを強奪した。英題:The Slavs in Their Original Homeland
(2)モチーフ
紀元前3~6世紀頃の南ロシア・サルマティアの平原。夜空、トゥーラニア族やゴート族の来襲に怯えながら草むらに身を隠すスラヴ人の男女、宙に浮かぶ象徴的な人物像の預言者、「正義の戦い」を象徴する青年、「平和」を象徴する少女、略奪者たち、火をつけられた村。
(3)制作年
1912年。ミュシャ52歳。
(4)画材
キャンバス、テンペラ、油彩。メインはテンペラで速乾性があり、色を永く持たせる効果がある。際立たせたい細部の表現に油彩を使っている。
(5)サイズ
縦610×横810cm。舞台的な効果を出すために巨大な画面とし、左下の小さくうずくまる男女は等身大である。
(6)構図
画面の右上から左下への対角線を軸に、人物と空を分割。こちらを見ている二人と垂直に立つ預言者を対比させ上下に配置している。画面を水平に二分割し、夜空を大きく描いた。夜空に人馬をかすませ中景を背景に、画面前方の二人の存在感を強調。鑑賞者はこの正面を向いた等身大の男と目が合う。
(7)色彩
多色。主に淡い中間色を用い、四隅は黒く、全体的に暗い青を基調としている。
(8)技法
まず木炭を使い、全体の大まかな構図を決める。家族など身近な人にポーズを取らせ、写真に撮った人物像をパズルのように構図に当てはめ、より詳細にモチーフを配置。次に木炭とハイライトだけで明暗を調整し、その後、色彩を構成する。構図、明暗のバランス、色彩の配置を決めた後、写真に枡目を書き入れ実物大に拡大し、キャンバスへ写実的に描き写す。星が輝く幻想的な蒼白い夜空は、透明感ある色彩のテンペラと油彩により、繊細なタッチで点描が施されている。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
苦悩と共に始まる平和な農耕民族として生きていたスラヴ民族の歴史を、歴史的な出来事と象徴的な人物群を組み合わせて描いた。超大作「スラヴ叙事詩」の全20作品のうち、1912年に完成した最初の3作品の1点である。スラヴ人の原郷は、現ポーランド共和国の東部からウクライナ・ベラルーシ共和国西部にかけての一帯とされるカルパチア山脈の北側。自然界の神々を崇拝し、人々の運命は夜空の星と結ばれていると信じていた。身をすくませ、怯えながら草むらに身を隠すスラヴ人の男女は、目を見開いて恐怖の表情を浮かべている。彼らの白い衣服は純粋さや無垢、無抵抗を表わす色という。たったいままで草を刈っていた鎌は、二人の手元から落ちている。星が瞬く夜空を背に、遠くでは村から炎が上がり、捕虜や家畜を奪った金色の刀を手に持つ略奪団の列が丘を荒々しく駆けていく。画面右上にはスラヴ民族の象徴的な人物像。腰に装飾の施された儀礼用の剣を提げている中央の人物は、古代スラヴ人が信仰した神の言葉を預かり、民に伝える預言者であり、目を閉じて両手を広げ、神に救いを求めている。左側の武器を身に付けた青年は“正義の戦い”を、右側の緑葉の冠をかぶった少女は“平和”を表す擬人像である。象徴的な人物像は青い膜を張ったように描かれ、蛮行の絶えない現実界とは異なる天上界を表わしている。宙に浮かんだ彼らは地上のものには見えない。預言者の頭部が画面の枠から突き出て、スラヴ人の男女とは別の次元にいることを暗示する。人間とは何かを問う、永遠の静謐さが漂うミュシャ渾身の大作。
演劇の応用
ミュシャと「スラヴ叙事詩」のパトロン、チャールズ・R・クレイン、そしてプラハ市の間で1909年、三者契約が結ばれた。ミュシャは毎年3点の「スラヴ叙事詩」をプラハ市に手渡すこと、クレインは制作資金をミュシャに提供すること、プラハ市は受け取った「スラヴ叙事詩」を恒久的に展示するための施設を用意することが、プラハ国立図書館が保管する契約書に記されている。
しかし、チェコスロヴァキア共和国の独立や第一次世界大戦の勃発など、激動の時代を背景に進んだ「スラヴ叙事詩」の制作は計画通りには行かず、またミュシャの没後は長らく南モラヴィアのモラフスキー・クルムロフ城に保管されていた。
1928年プラハのヴェレトゥルジュニー宮殿の「スラヴ叙事詩展」で19点が一時展示されたことによって、一応の完成を見たが、《スラヴ菩提樹の下で行われるオムラジナ会の誓い》は未完に終わった。アメリカやオーストリア、フランスでも展示されたが、数点ずつの展示だった。2012年ようやくモラフスキー・クルムロフ城からプラハ国立美術館に運ばれ、特別展示された後、2017年奇跡的に日本の国立新美術館で全20作品が公開された
。プラハ市の所有ではあるが「スラヴ叙事詩」を恒久的に展示する施設はまだ決まらず、現在またモラフスキー・クルムロフ城に帰っている。小野氏は《原故郷のスラヴ民族》について、「『スラヴ叙事詩』の全体的なテーマは人類の平和という普遍的なものであるが、そのなかで《原故郷のスラヴ民族》はスラヴ民族の歴史の始まりを予感させる星が輝き、ここから歴史が始まるという序章のような作品となっている。スラヴ人が武力ではなく、言葉の発明や自分たちの聖書をつくったりと、人類の文化や英知の発展に貢献してきた歴史のなかで、その始まりの人を示した。歴史を大きな画面に描くというアカデミックな要素を基点にし、象徴主義的な抒情性、アール・ヌーヴォーの装飾性と平面性、点描技法を用いながらも写実的で、また演劇的要素も加わっている。ミュシャは演劇から得た知識や経験を作品制作に応用しており、本作品ではまず臨場感を体験してもらいたい。絵画上の光景があたかも現実世界に立ち現われるような臨場感。絵の中の人たちが物語のなかの出来事ではなく、こちらを見ている。私たち鑑賞者がいることを知っていて、目で訴えかけてくる。そのため絵画の中の人物や出来事との交感が生まれる。また、画面のスケールが大きいので、それを体感する楽しみがある。地上の出来事とは違ったものとして、見上げる仕草に誘われ、どう描き込まれているのかを動きながら観られる。人物は特定の誰かというよりは、一般の人が主人公として描かれており、モデルの写真が残っているが、そっくりに描かれてはいない。特に中景の人物像の顔はぼかしている。デザイナー的な手腕が生きたことにより、人物の動きは時が止まったモニュメントのように永遠の魂を宿した。全体的にバランスがよく、やはりミュシャは線や構成の方に能力がある」と語った。
小野尚子(おの・なおこ)
アルフォンス・ミュシャ(Alfons Mucha)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2022年6月