アート・アーカイブ探求

ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ 肉のかたまり》──認識するとは何か「小寺里枝」

影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)

2023年02月15日号

※《ご婦人のからだ 肉のかたまり》の画像は2023年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。


自由な眼差し

路地裏の地面にチョークで落書きしたような絵を見つけた。ネットで見たモニターの画面一杯に平たく引き延ばされた擦れた裸の人物像。タイトルを読めば女性であることは明らかだが、ヌードというよりは幼児を標本にしたような形態だ。決して気持ちのいい絵ではないが、そうかといって無視することができなかった。膝を曲げて股を開いたまま固まっている。左右対称形で、縦の中心線に目・鼻・口・胸・へそ・性器・肛門が並び、小さな楕円形の頭と大きな半円形の尻が丸みを帯びて可愛い。ジャン・デュビュッフェの絵画作品《ご婦人のからだ 肉のかたまり》(スイス、バイエラー財団蔵)である。制約のない眼差しに自由な感覚が広がっている。

デュビュッフェは、硬質な黒い線によって独自の様式を築いた名前のよく似ている画家、ベルナール・ビュフェ(1928-99)ほど有名ではないかもしれないが、20世紀美術の重要な画家のひとりである。アートとは何か。また複雑な現代社会において生きていく意味を考えるうえでも振り返る価値がありそうだ。

神戸大学大学院の講師、小寺里枝氏(以下、小寺氏)に《ご婦人のからだ 肉のかたまり》の見方を伺いたいと思った。小寺氏は芸術の歴史と理論を専門とし、2022年京都大学大学院の博士後期課程を修了後、同年10月より神戸大学大学院人文学研究科の講師に着任した。デュビュッフェに関する論文を発表するなど、デュビュッフェに詳しい。新幹線の新神戸駅から六甲にある神戸大学へ向かった。


小寺里枝氏



非言語的なものに言葉をつける必要はあるか

神戸大学の小寺研究室は書棚に本が少なく、着任して間もないことが伝わってくる。小寺氏は1989年生まれ。父が検事で子供の頃は転勤が多く、小学校は東京、大阪、神戸と三都市で経験したという。10歳からは父が単身赴任するようになり、一家は神戸に落ち着いた。姉二人と、男女の双子の四人兄弟で、小寺氏は双子である。幼稚園のときから踊りや舞台が好きで、高校生までバレエを習い、家族でよく美術館や演奏会に行っていたという。哲学的なことにも興味があった一方、文字を読むと頭が痛くなるぐらい本が読めなかったそうだ。

京都大学文学部に入学後、英語圏ではない異なる文化に触れたいと思い、高校生のときに写真を見てかわいい街並みだと思っていたフランスのストラスブール大学芸術学部へ1年間留学する。美術史の講義のなかで、「アール・ブリュット(Art Brut:生〔なま〕の芸術)」をつくった人としてデュビュッフェが現われた。初めて長期滞在したヨーロッパで、西洋中心の美術史の語り口になんとなく違和感を覚えていたところに、「ブリュット」という語が出てきて、言葉の響きもよく記憶に残った。帰国後、3年生で専修を選ぶとき美学美術史学なるものがあった。先生に何をやりたいのかと聞かれ、とっさに「アール・ブリュット」と言った。何の知識もなく、ただ音の響きとともに、芸術の原点に立ち返るという漠然としたイメージがあっただけで、実際に現代の「アール・ブリュット」を知ったときはどうしようと思ったという。「でも後に引けなくなり、卒業論文、修士論文、博士論文とデュビュッフェについて書いた。小さい頃から頑固で、とにかくあきらめが悪い」と小寺氏は笑う。

小寺氏が実物の《ご婦人のからだ 肉のかたまり》を見たのは、大学院生の博士課程に入った2016年、スイスのバイエラー財団で開催されていた展覧会においてだった。たくさんの作品があったなかでとりわけ印象に残る作品だったわけではなく、サイズが大きく、全体像の形を見るというより、正面で絵画のマチエールを見ていた。特に新鮮ということはなかったそうだ。

小寺氏は「デュビュッフェ研究を続けているのは、言語的でないものに惹かれているのに、そういう非言語的なものに言葉をつける必要があるのか、という問いがあるからかもしれない」と述べた。


ブリュットなアール

小寺氏は、デュビュッフェを研究するときに絵画から入っておらず、「アール・ブリュット(Art Brut)」という言葉から入ったと言う。フランス語のbrutとは、生(なま)の、もと(自然)のまま、粗暴な、野蛮な、を意味する。「なんで惹かれたのかというと、“ブリュットなアール”というものに惹かれていた。『芸術』といったときに制度化されてしまっている芸術を、制度化していない芸術として純粋に考えられると思った」と小寺氏。

デュビュッフェが「アール・ブリュット」という言葉を最初に記したのは、スイスの画家ルネ・オーベルジョノワ(1872-1957)に宛てた1945年8月28日付の手紙である。1949年に発表されたデュビュッフェの小文「文化的芸術よりも好ましいアール・ブリュット」のなかでアール・ブリュットを次のように定義している。

「それは芸術文化に汚染されない人びとによって作られ、それゆえ知識人の場合とは反対に、模倣がほとんどあるいはまったくない作品のことだ。従ってその作者たちは、すべて(主題、利用する素材の選択、置換の方法、リズム、書き方など)を自分自身の奥底から引き出してくるのであって、古典的芸術や流行の芸術という月並みな作品からではない。そこには作者によってひたすら自分の衝動から、あらゆる面にわたって完全に創りなおされた、まったく純粋で、なまの芸術活動が見られるのだ」(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』pp.118-119)。

何ものにも妨げられない直接的表現。評論家で劇作家の福田恆存(つねあり/1912-94)は「芸術は根本において、われわれの理解と解説とを拒絶している──それは人間の、個人の、生の秘密とおなじものであります。いや、そういうものをのみ、われわれは芸術作品と呼んでいるのです」(福田恆存『藝術とは何か』p.99)と記す。

デュビュッフェは、創造の原点を探る動機から「アール・ブリュット」という言語をつくり、アール・ブリュット作品を収集し、美術館ではなくコレクションという中立的な看板を掲げた「アール・ブリュット・コレクション」創設の道筋をつけた。しかし、デュビュッフェ自身は「アール・ブリュット」の作家ではなく、デュビュッフェが批判する文化的芸術側に連なり、二重的立場に立って矛盾を抱えながら制作していた。

デュビュッフェは晩年に、「アール・ブリュット」を1970年代前半から使われ始めた「アウトサイダー・アート★1」を含んだ言葉として使い、途中で意味を変えていることもあり、「アール・ブリュット」=精神疾患患者による芸術と見なされるときがあるが、「アール・ブリュット」の意味や用法については議論が続いており、本記事では美術館にある作品だけが芸術ではないという意味で、デュビュッフェが最初に言った「制度化しない芸術」として「アール・ブリュット」を用いている。


★1──イギリスの美術史家ロジャー・カーディナル(1940-2019)が、1972年「アール・ブリュット」の英語訳として創案した言葉。現在ではより広汎に、精神疾患や知的障害をもつ人など正規の美術教育を受けない人の作品や、制度的な意味での美術を自ら志向しない人のつくり出した作品に対して使用されている。

ワイン商から芸術家へ

ジャン・デュビュッフェは、1901年フランスの北西ノルマンディー地方のセーヌ湾に臨む港町ル・アーヴルに生まれた。本名ジャン=フィリップ=アルテュール・デュビュッフェ。「デュビュッフェ商会」というワインの卸売を商う父ジョルジュ=シャルル=アレクサンドル・デュビュッフェと、母ジャンヌ=レオニー・パイエット、そして妹シュザンヌの四人家族で裕福な家庭に育った。

デュビュッフェは、優秀なため7歳で地元のリセ(国立中等学校)に入学、中等教育修了まで同校で学ぶ。読書とピアノに熱中。1917年バカロレア(大学入学資格)の一次試験に合格し、哲学級に進む。地元の美術学校にも登録して、夜間授業に出席、デッサンを猛烈な勢いで繰り返し、画家を志す。翌年17歳で、バカロレアに合格。父親の許可を得て、前衛芸術が開花するパリに出て、私立美術学校アカデミー・ジュリアンに入学した。しかし授業に不満を覚えて半年後の1919年に退学、キュビスムを指向していたフェルナン・レジェ(1881-1955)らと集い、独学で絵画から哲学、文学、語学、音楽へと彷徨う。この冬、両親と初めてフランス領アルジェリアを訪れる。

1923年22歳で軍役に就き、翌年除隊すると、スイスのローザンヌを旅行し、そこで精神病理学者ハンス・プリンツホルン(1886-1933)の研究書『精神病者の芸術性』(1922)と出会い、精神病患者の絵に衝撃を受ける。既成のヨーロッパ近代文明に懐疑を抱き、作品や蔵書を処分して、遠い南米のアルゼンチンへ行って暖房器具を扱う会社で働いた。1925年24歳、ル・アーヴルの実家に戻り父親のワイン業に加わり、以後1933年まで家業中心の生活を送る。1927年にはポーレット・ブレと結婚し、娘イザベルが生まれる。パリ郊外ベルシー近くのサン・マンデに住居を構え、実家から独立してワイン卸売会社を創業。商売は順調で、パリにアパートを購入し、アトリエを構える。1934年妻と離婚。商売を人に任せ、再び絵画制作に打ち込み始める。1937年経営が傾いていったため、再び画業を中断、商売に戻りモンパルナスのカフェで出会ったエミリ・カルリュ(通称リリ)と結婚する。

1939年第二次世界大戦が勃発し、気象部隊に動員され航空省の書記官となる。翌年除隊してパリに帰り、商売に専念し、負債を返済したが、1942年ワイン商を公認の代理人に委ね、芸術家に身を捧げる決意を固めて、本格的に油彩を描き始める。連作「都会と田舎の操り人形」を制作し、アトリエを訪れた建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)が作品を絶賛したため、作品を譲った。1944年43歳、初個展をパリのドルーアン画廊で開催し、画壇デビューすると、一般客の反応は敵意に満ちていたが、アンドレ・マルロー(1901-76)が作品を購入した。

第二次世界大戦が終結した1945年、デュビュッフェは「この現実世界とは何なのだろう。どうやって私たちはこの世界を認識して生きているのか。何かを理解したり、わかるとはどういうことなのか」と疑問を抱いた。自らが命名した「アール・ブリュット」の作品収集を開始し、絵画を認識の一手段とみなして厚塗りの「肖像」シリーズを始める。厚塗りは、美術評論家でアンフォルメル運動の主唱者であるミシェル・タピエ(1909-87)に感銘を与え、デュビュッフェはアンフォルメルの先駆者と呼ばれるようになるが、自らは無関係だと抗議している。


絵画を言葉で語る矛盾

第二次世界大戦終結後の1946年、デュビュッフェは自身の芸術観をまとめた『あらゆる分野の愛好家たちへの案内書』を出版し、その翌年にはアメリカのピエール・マティス画廊で初個展を開催。その後、アルジェリアのサハラ砂漠を旅している。独自に起業したワイン会社を売却して、この時期から絵画に専念する。アンドレ・ブルトン(1896-1966)やジャン・ポーラン(1884-1968)、ミシェル・タピエらとともに1948年には「アール・ブリュット協会」を創設する。1949年ドルーアン画廊で開催した「アール・ブリュット」展に『文化的な芸術より好ましい〈生の芸術〉』という文章を寄稿した。

1950年に「ご婦人のからだ」シリーズの制作を開始する。続いて「風景テーブル」「精神の風景」「哲学的な小石」など多くの連作★2を描き、そのシリーズ名はデュビュッフェの志向性を浮かび上がらせる。日本での初出品となる1951年第3回読売アンデパンダン展に《二重自画像》を出品。同年デュビュッフェはアメリカを訪れ、マルセル・デュシャン(1887-1968)やジャクソン・ポロック (1912-56)らとも交流する。

フランス国内の美術館では初となる大規模な回顧展が1960年パリの装飾美術館で開催され、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)でも開催された。そして青、赤、白、黒色の配色で生物体の細胞組織のような構造の「ウルル―プ」シリーズが生まれ、1967年5月まで続く。1966年にはロンドンのテート・ギャラリーで回顧展、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でも「ウルル―プ 1962-1966」展が開催された。著述を収録した『案内書とそれに続く全著述』(1967)がガリマール出版から出版され、「アール・ブリュット」展を装飾美術館で開催。『息のつまる文化』(1968)を出版し、MoMAでは個展を開催する。パリ近郊のペリニーにアトリエを建て、洞窟のように内部に入って見る立体作品《冬の庭》や、コンクリート製の庭園からなる《ヴィラ・ファルバラ》の制作を始める。

デュビュッフェほか1940年代以来収集された「アール・ブリュット」コレクションを、1972年スイスのローザンヌ市に寄贈する。1974年にジャン・デュビュッフェ財団を設立。日本での初個展は1978年新宿区にあったフジテレビギャラリーで開かれた。旧西ベルリンのアカデミー・デア・クンストで1980年に大回顧展が開かれ、翌年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館と、パリのポンピドゥー・センターでデュビュッフェ生誕80年を記念した展覧会が開催された。日本では1982年に西武美術館(のちのセゾン美術館。1999年閉館)と国立国際美術館で個展を開催。1984年のヴェネツィア・ビエンナーレには連作「照準」を出品した。1985年に自伝となる『駆け足の伝記』を著して、5月12日に心不全のため、パリ・ヴォージラール街の自宅で死去。享年83歳。9,000点を超える作品と、全4巻の著述全集と全38冊の造形作品全集を残し、妻リリの故郷パ・ド・カレー県テュベルサン村の墓地に、リリと共に眠っている。

「『絵画は、言葉に結晶化する前の段階の思考を表象・体現できるもの。何かを言葉にした時点で、多くのものは失われる』。こういうことを、とてつもない教養人で知識人であったデュビュッフェが、ほかならぬ言葉で繰り返し語っており、そこに大きな矛盾がある。こうした矛盾を抱えつつ、“描く”ことも、“書く”こともやめられなかったのが、デュビュッフェという人物だったのではないか。生成しつつある精神の動きのようなものを捉えようとしながら、“見る”とはどういうことか、“思考する”とはどういうことかという問いを、言葉と、言葉ならざるものを通して考え続けたデュビュッフェは、20世紀の哲学者や文学者、美術史学者たちとも多くの問題意識を共有している」と小寺氏は述べた。


★2──「都会と田舎の操り人形」「物質と記憶」「壁」「ミロボリュス、マタダム商会、厚塗り」「思っている以上に器量よし」「サハラ」「レール・ドゥラ・カンパーヌ」「グロテスクな風景」「陽のあたる大地」「束の間の場所」「打ち固めた厚塗り」「蝶」「型押しのアサンブラージュⅠ」「はかない命の小像」「雌牛」「一枚岩の人物」「アサンブラージュの絵画」「走り書きの場所」「質感学」「地誌」「占いの図形」「質感学的型押し」「祝福された大地」「現象」「ひげ」「植物的要素」「彫像」「素材学」「パリ・サーカス」「ウルループ」「プラティカブル」「コスチューム」「カスティーリャの風景」「三色の光景」「類似数字」「社交好き」「不確かな肖像」「要約された場所」「記憶の劇場」「記銘」「毎日の授業のための簡単な練習問題」「分割」「心理-光景」「小像のある光景」「偶然の光景」「照準」「控訴棄却」など。


【ご婦人のからだ 肉のかたまりの見方】

(1)タイトル

ご婦人のからだ 肉のかたまり(ごふじんのからだ にくのかたまり)。英題:Lady's body, piece of meat

(2)モチーフ

女性の裸体。

(3)制作年

1950年。デュビュッフェ49歳の作品。

(4)画材

キャンバス、油彩、砂。

(5)サイズ

116.0×89.0cm。

(6)構図

画面一杯に左右対称で標本のように配置した正面性の強い構図。

(7)色彩

ブラウン、ワインレッド、グレー、アイボリー、白、黒など多色。

(8)技法

油彩。亜鉛白に膠(にかわ)、テレビン油、細かい砂を混ぜて、厚塗り層をつくる。それが乾く前にリンシード・オイルで溶いた薄い色と、濃い色の上塗りを繰り返す。乾いてから全体をナイフで削り、擦れた荒い絵肌を作った後、上からナイフの先を突き立てて描線し、最後に褐色の色調で薄塗りをほどこす。

(9)サイン

画面の下部中央に絵具をナイフの先端で引っ搔いたように、茶と白が混在する細い描線で「Nov.50 J.Dubuffet」と署名。

(10)鑑賞のポイント

口を開けた裸婦が正面向きに押し花を広げたように押し広げられ、荒れた肌に乳房、へそ、恥部、細い腕などが原始的に描かれ、エネルギーが満ちている。女性の裸体を猥褻以上に醜態として描き、格差を作る社会的通念へ反発するデュビュッフェは、「グロテスクなものや野卑なものが、形式上ヴォルテージを高める手段としてそこに用いられており、それはグロテスクや野卑の観念がなんの意味もなくなって消えてしまう、ひとつの平面に達することをめざしている」(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』p.140)と、この絵を描く目的を述べている。1950年4月より1951年2月までの約1年間「ご婦人のからだ」シリーズとして油彩画36点、水彩14点、デッサン56点、リトグラフ6点を制作。“肉のかたまり”とは、スライスしたハムやソーセージ、ステーキといった食肉店に並ぶ平たい肉のイメージであり、言葉の世界の反対側に物質、身体、肉体感覚の視覚イメージを置き、芸術の本質に疑問を投げかける。デュビュッフェがもっとも精力的に絵画制作に取り組んだ1950年代における名作である。


哲学するためのイメージ

《ご婦人のからだ 肉のかたまり》について小寺氏は、「『ご婦人のからだ』と題しているが、必ずしも具体的な女性の裸婦を意図していない。2016年にバイエラー財団でこの絵を見たとき、隣にはテーブルの絵があり、遠くから見るとテーブルも女性の体躯もほとんど同じ形をしていた。絵画としてはとても物質的なのだけれど、デュビュッフェはむしろ描かれているもの(=女性の裸体)が、漠然とした、そして非物質的な状態に絵画自体が留まるような、判断が未決定な状態になるように描いた、と書いている。一枚の絵を見る人が、そこからいろんなものを連想することが画家の目的だった。例えば地面や岩、樹皮、植物的な、人間の肉体とは必ずしも結びつかない要素を意図的に入れたとデュビュッフェは言っており、判じ絵★3ではないが、絵画は“何にでもなる”ことが想定されている。タイトルには言葉遊びの側面もある。フランス語のタイトル《Corps de dame, pièce de boucherie》のCorpsは英語で言うBodyで、Corpsには肉体のほか、物体や物質、あるいは集成(英語でいうところの「コーパス」)など多くの意味がある。デュビュッフェは、哲学するための手段として“言葉”と“イメージ”を比較していた。そして言語という、思考を結晶化させてしまう手段を用いるよりも、思考を気体や流体のように留めておくイメージの方が哲学するにはふさわしい手段であるという。曖昧で不明瞭な視覚イメージこそが“ありのままの現実”に肉薄するものと考えていたデュビュッフェ。ご婦人の体躯には、目と鼻と口、つまり顔があるようにも見える。顔のようなハムのような地面のような絵。見る距離や見る部分によっても違ってくるが、とにかく見る人次第で何にでもなる。デュビュッフェが女性の裸婦像を描いたのは、西洋絵画の伝統的な主題である裸婦像というジャンルを破壊するためではなく、むしろ西洋絵画を刷新し、実り多いものにするためだった。『絵画とは眼に訴えるものではなく、精神に訴えるもの』だと、デュビュッフェは繰り返し述べていた。何が描かれているのかというより、どのように見るかが問題なのであって、そしてその見る行為は、眼という器官に終始する行為としてではなく、触覚なども動員して全身でなされる行為、体感として想定されている。だからこそデュビュッフェは、物質感に満ちた絵画表面にこだわった。認識するとは何か。世界を経験する行為そのものを問い直そうとするデュビュッフェの絵画制作、およびその作品はいわゆる絵画鑑賞という文脈や、美術/芸術という領野だけで考えられるものではない。見る行為そのものを問い、そして見る人に思考させる」と語った。


★3──言葉や意味をほかのものにまぎらして描き込み、それを探させる趣向の絵。



小寺里枝(こでら・りえ)

神戸大学大学院人文学研究科講師。神戸市出身。2009年京都大学文学部入学、2010〜11年ストラスブール大学芸術学部(フランス)へ留学、 2014年京都大学文学部美学美術史学科卒業、2016年同大学大学院文学研究科修士課程修了、同年博士後期課程に進み、2016〜18年ジュネーヴ大学文学部美術史学・音楽学科(スイス)滞在研究員、スイス連邦工科大学チューリッヒ校・日本学術振興会交流事業若手フェロー、2022年京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。2022年10月より現職。専門:芸術史、芸術理論 、美学、イメージとテキスト。所属学会:美学会、美術史学会、日仏美術史学会。主な論文:「物質と精神の交叉点としての絵画─ベルクソン哲学からみるジャン・デュビュッフェの芸術理念と実践」(『哲學研究』第606号、2021)、「『子どものような眼』の探究─ジャン・デュビュッフェにおける原初的なものへの志向」(『日仏美術学会会報』第40号、2021)、『胎動する絵画─ジャン・デュビュッフェと20世紀フランスの芸術・思想・社会(1918〜1959年)』(令和3年度京都大学提出博士論文)など。

ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)

フランスの芸術家。1901~85年。フランス北西部、セーヌ川河口にあるル・アーヴルのワイン卸売業者の裕福な家庭に生まれる。1918年パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶが、授業に不満をもち半年で退学。アトリエを構え、シュルレアリスムのサークルに参加しながら独学する。1924年スイスのローザンヌで、精神病理学者ハンス・プリンツホルンの本に出会い、精神病患者の絵に衝撃を受ける。以降1933年までワイン商に従事し、1929年には独自のワイン卸売会社を創業。第二次世界大戦中の1942年、会社の負債を完済したため、絵画制作を再開。1944年パリのドルーアン画廊で初個展を開催して画壇デビュー。1945年「アール・ブリュット」を命名し、この芸術理論を発展させ、作品収集を開始。1946年マチエールの研究をし、厚塗り技法を開発する。非正統的な素材を作品に取り入れ、原始的な絵画を描き、ドルーアン画廊で個展開催。1947年ニューヨークのピエール・マティス画廊で個展。1949 年3度目のサハラ旅行後、『文化的な芸術より好ましい〈生の芸術〉』を出版。1950年「ご婦人のからだ」シリーズ開始。1958 年版画用のアトリエを建て、リトグラフを制作。1959 年第2回ドクメンタに出品(第3回、第4回)。1962 年平面から立体まで展開する「ウルル―プ」シリーズを開発。1972 年「アール・ブリュット」収集作品をローザンヌ市に寄贈。1973 年ニューヨークのグッゲンハイム美術館とパリのグラン・パレで生きているような絵画のパフォーマンス『クク・バザール』を上演。1985年自伝『駆け足の伝記』を著し、5月12日ヴォージラール街の自宅で死去。享年83歳。代表作:《ご婦人のからだ 肉のかたまり》《あんず色のドーテル》《質感学 XXXVII》《ウルループ 農婦のいる光景》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:ご婦人のからだ 肉のかたまり。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ 肉のかたまり》1950年、キャンバス・油彩・砂、116×89cm、バイエラー財団蔵、リーエン/バーゼル、バイエラーコレクション。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:バイエラー財団、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式870.5KB、72dpi、8bit、RGB。資源識別子:dubuffet_corps-de-dame_inv-87-3.jpg(Jpeg形式14.8MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:バイエラー財団。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:バイエラー財団、日本美術著作権協会、(株)DNPアートコミュニケーションズ。



【画像製作レポート】

ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ 肉のかたまり》の画像は、作品を所蔵しているスイスのバイエラー財団へメールで問い合わせたところ、数日して画像とキャプションが送信されてきた(Jpeg、14.8MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。キャプションは「Jean Dubuffet《Corps de dame, pièce de boucherie》1950, Oil and sand on canvas, 116×89cm, Fondation Beyeler, Riehen/Basel, Beyeler Collection. ©2023,ProLitteris,Zurich/Photo:Robert Bayer」。日本美術著作権協会で著作権の許諾手続を行なった。著作権料8,000円、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。バイエラー財団のWebサイトにある作品画像と比較して明度・彩度を確認し、財団の利用規約に従って72dpiに画像サイズを縮小した(Jpeg形式870.5KB、72dpi、8bit、RGB)。利用規約には「画像は、トリミングやオーバープリント等の変更をせず、また低解像度 (最大72dpi) および小さなサイズ (最大1,600pixel) でオンライン公開できます」と書かれている。作品画像が低解像度に指定されているため、細部の物質感を伝えられないのが残念である。



参考文献

・瀧口修造「〈現代作家〉ジャン・デュビュッフェ」(『美術手帖』No.86、美術出版社、1954.10、pp.28-34)
・藤枝晃雄「現代美術の巨匠・4 その生涯のエピソード デュビュッフェ」(『美術手帖』No.296、美術出版社、1968.4、pp.56-65)
・木村重信『はじめにイメージありき──原始美術の諸相』(岩波書店、1971)
・高階秀爾「ジャン・デュビュッフェ アンチ文化の文化人」(『みづゑ』No.846、美術出版社、1975.9、pp.100-115)
・福田恆存『藝術とは何か』(中央公論新社、1977)
・針生一朗責任編集『アート・ギャラリー 現代世界の美術 20 デュビュッフェ』(集英社、1986)
・ガエタン・ピコン著、末永照和訳『芸術の手相』(法政大学出版局、1989)
・瀧口修造『コレクション瀧口修造 2 16の横顔 画家の沈黙の部分 ピカソ、ブラックほか』(みすず書房、1991)
・図録『ジャン・デュビュッフェ展』(「ジャン・デュビュッフェ」展カタログ実行委員会、1997)
・中山公男総監修『モダンアートの魅力(The great history of art)』(同朋舎出版、1997)
・木村重信『木村重信著作集 第6巻 現代美術論』(思文閣出版、2003)
・ジョン・トンプソン著、神原正明監修、内藤憲吾訳『西洋名画の読み方2 19世紀中期から20世紀の傑作180点』(創元社、2008)
・フランソワ・ダゴニェ著、大小田重夫訳『ネオ唯物論』(法政大学出版局、2010)
・末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ──アール・ブリュットの探求者』(青土社、2012)
・田中美佳「ジャン・デュビュッフェによる審美的基準にみるアール・ブリュット─反文化的思想に基づくmad artとの影響関係を視点として」(『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要』第7巻 第1号、神戸大学大学院人間発達環境学研究科、2013.9、pp.77-86)
・ミシェル・テヴォー著、杉村昌昭訳『アール・ブリュット──野生芸術の真髄』(人文書院、2017)
・小寺里枝「ジャン・デュビュッフェ絵画における物質性をめぐって──1920~40年代フランスにおける芸術・思想の諸相」(『美学』第252号、美学会、2018.6、pp.97-108)
・ユーベル・ダミッシュ著、岡本源太+桑田光平+坂口周輔+陶山大一郎+松浦寿夫+横山由季子訳『アール・ブリュット──野生芸術の真髄』(水声社、2019)
・ジャン・デュビュッフェ著、杉村昌昭訳『文化は人を窒息させる──デュビュッフェ式〈反文化宣言〉』(人文書院、2020)
・小寺里枝「『子どものような眼』の探求──ジャン・デュビュッフェにおける原初的(プリミティフ)なものへの志向」(『日仏美術学会会報』第40号、日仏美術学会、2020.11、pp.51-67)
・小寺里枝「物質と精神の交叉点としての絵画──ベリクソン哲学からみるジャン・デュビュッフェの芸術理念と実践」(『哲学研究』第606号、京都哲学会、2021.6、pp.65-114)
・保坂健二朗「アール・ブリュットの歴史について─日本における受容から改めてプリンツホルンに立ち返る」(『最新精神医学』27巻4号 通巻第156号、世論時報社、2022.7、pp.265-270)
・服部正「衝動が生み出すアール・ブリュット」(『美術の窓』No.488、生活の友社、2022.9、pp.88-91)
・Webサイト:小寺里枝「胎動する絵画─ジャン・デュビュッフェと20世紀フランスの芸術・思想・社会(1918~1959年)(Digest_要約)」(『京都大学学術情報リポジトリ紅』京都大学、2022.3.23)2023.2.5閲覧(https://doi.org/10.14989/doctor.k23622
・Webサイト:大内郁「日本における1920~30年代のH.プリンツホルン『精神病者の芸術性』の受容についての一考察」(『千葉大学人文社会科学研究』16、2008.3、pp.66-79)2023.2.13閲覧(https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900047436/jinshaken-16-6.pdf
・Webサイト:「Jean Dubuffet」『MoMA』2023.2.5閲覧(https://www.moma.org/artists/1633
・Webサイト:『COLLECTION DE L'ART BRUT LAUSANNE』2023.2.5閲覧(https://www.artbrut.ch/
・Webサイト:『Dubuffet Fondation』2023.2.5閲覧(https://dubuffetfondation.com/
・Webサイト:「JEAN DUBUFFET CORPS DE DAME, PIÈCE DE BOUCHERIE, 1950」『FONDATION BEYELER』2023.2.5閲覧(https://www.fondationbeyeler.ch/sammlung/werk?tx_wmdbbasefbey_pi5%5Bartwork%5D=216&cHash=dcd09af670aebecf01526a3e96bdaa61




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2023年2月

  • ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ 肉のかたまり》──認識するとは何か「小寺里枝」