アート・アーカイブ探求
ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ 肉のかたまり》──認識するとは何か「小寺里枝」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年02月15日号
※《ご婦人のからだ 肉のかたまり》の画像は2023年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
自由な眼差し
路地裏の地面にチョークで落書きしたような絵を見つけた。ネットで見たモニターの画面一杯に平たく引き延ばされた擦れた裸の人物像。タイトルを読めば女性であることは明らかだが、ヌードというよりは幼児を標本にしたような形態だ。決して気持ちのいい絵ではないが、そうかといって無視することができなかった。膝を曲げて股を開いたまま固まっている。左右対称形で、縦の中心線に目・鼻・口・胸・へそ・性器・肛門が並び、小さな楕円形の頭と大きな半円形の尻が丸みを帯びて可愛い。ジャン・デュビュッフェの絵画作品《ご婦人のからだ 肉のかたまり》(スイス、バイエラー財団蔵)である。制約のない眼差しに自由な感覚が広がっている。
デュビュッフェは、硬質な黒い線によって独自の様式を築いた名前のよく似ている画家、ベルナール・ビュフェ(1928-99)ほど有名ではないかもしれないが、20世紀美術の重要な画家のひとりである。アートとは何か。また複雑な現代社会において生きていく意味を考えるうえでも振り返る価値がありそうだ。
神戸大学大学院の講師、小寺里枝氏(以下、小寺氏)に《ご婦人のからだ 肉のかたまり》の見方を伺いたいと思った。小寺氏は芸術の歴史と理論を専門とし、2022年京都大学大学院の博士後期課程を修了後、同年10月より神戸大学大学院人文学研究科の講師に着任した。デュビュッフェに関する論文を発表するなど、デュビュッフェに詳しい。新幹線の新神戸駅から六甲にある神戸大学へ向かった。
非言語的なものに言葉をつける必要はあるか
神戸大学の小寺研究室は書棚に本が少なく、着任して間もないことが伝わってくる。小寺氏は1989年生まれ。父が検事で子供の頃は転勤が多く、小学校は東京、大阪、神戸と三都市で経験したという。10歳からは父が単身赴任するようになり、一家は神戸に落ち着いた。姉二人と、男女の双子の四人兄弟で、小寺氏は双子である。幼稚園のときから踊りや舞台が好きで、高校生までバレエを習い、家族でよく美術館や演奏会に行っていたという。哲学的なことにも興味があった一方、文字を読むと頭が痛くなるぐらい本が読めなかったそうだ。
京都大学文学部に入学後、英語圏ではない異なる文化に触れたいと思い、高校生のときに写真を見てかわいい街並みだと思っていたフランスのストラスブール大学芸術学部へ1年間留学する。美術史の講義のなかで、「アール・ブリュット(Art Brut:生〔なま〕の芸術)」をつくった人としてデュビュッフェが現われた。初めて長期滞在したヨーロッパで、西洋中心の美術史の語り口になんとなく違和感を覚えていたところに、「ブリュット」という語が出てきて、言葉の響きもよく記憶に残った。帰国後、3年生で専修を選ぶとき美学美術史学なるものがあった。先生に何をやりたいのかと聞かれ、とっさに「アール・ブリュット」と言った。何の知識もなく、ただ音の響きとともに、芸術の原点に立ち返るという漠然としたイメージがあっただけで、実際に現代の「アール・ブリュット」を知ったときはどうしようと思ったという。「でも後に引けなくなり、卒業論文、修士論文、博士論文とデュビュッフェについて書いた。小さい頃から頑固で、とにかくあきらめが悪い」と小寺氏は笑う。
小寺氏が実物の《ご婦人のからだ 肉のかたまり》を見たのは、大学院生の博士課程に入った2016年、スイスのバイエラー財団で開催されていた展覧会においてだった。たくさんの作品があったなかでとりわけ印象に残る作品だったわけではなく、サイズが大きく、全体像の形を見るというより、正面で絵画のマチエールを見ていた。特に新鮮ということはなかったそうだ。
小寺氏は「デュビュッフェ研究を続けているのは、言語的でないものに惹かれているのに、そういう非言語的なものに言葉をつける必要があるのか、という問いがあるからかもしれない」と述べた。
ブリュットなアール
小寺氏は、デュビュッフェを研究するときに絵画から入っておらず、「アール・ブリュット(Art Brut)」という言葉から入ったと言う。フランス語のbrutとは、生(なま)の、もと(自然)のまま、粗暴な、野蛮な、を意味する。「なんで惹かれたのかというと、“ブリュットなアール”というものに惹かれていた。『芸術』といったときに制度化されてしまっている芸術を、制度化していない芸術として純粋に考えられると思った」と小寺氏。
デュビュッフェが「アール・ブリュット」という言葉を最初に記したのは、スイスの画家ルネ・オーベルジョノワ(1872-1957)に宛てた1945年8月28日付の手紙である。1949年に発表されたデュビュッフェの小文「文化的芸術よりも好ましいアール・ブリュット」のなかでアール・ブリュットを次のように定義している。
「それは芸術文化に汚染されない人びとによって作られ、それゆえ知識人の場合とは反対に、模倣がほとんどあるいはまったくない作品のことだ。従ってその作者たちは、すべて(主題、利用する素材の選択、置換の方法、リズム、書き方など)を自分自身の奥底から引き出してくるのであって、古典的芸術や流行の芸術という月並みな作品からではない。そこには作者によってひたすら自分の衝動から、あらゆる面にわたって完全に創りなおされた、まったく純粋で、なまの芸術活動が見られるのだ」(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』pp.118-119)。
何ものにも妨げられない直接的表現。評論家で劇作家の福田恆存(つねあり/1912-94)は「芸術は根本において、われわれの理解と解説とを拒絶している──それは人間の、個人の、生の秘密とおなじものであります。いや、そういうものをのみ、われわれは芸術作品と呼んでいるのです」(福田恆存『藝術とは何か』p.99)と記す。
デュビュッフェは、創造の原点を探る動機から「アール・ブリュット」という言語をつくり、アール・ブリュット作品を収集し、美術館ではなくコレクションという中立的な看板を掲げた「アール・ブリュット・コレクション」創設の道筋をつけた。しかし、デュビュッフェ自身は「アール・ブリュット」の作家ではなく、デュビュッフェが批判する文化的芸術側に連なり、二重的立場に立って矛盾を抱えながら制作していた。
デュビュッフェは晩年に、「アール・ブリュット」を1970年代前半から使われ始めた「アウトサイダー・アート
」を含んだ言葉として使い、途中で意味を変えていることもあり、「アール・ブリュット」=精神疾患患者による芸術と見なされるときがあるが、「アール・ブリュット」の意味や用法については議論が続いており、本記事では美術館にある作品だけが芸術ではないという意味で、デュビュッフェが最初に言った「制度化しない芸術」として「アール・ブリュット」を用いている。ワイン商から芸術家へ
ジャン・デュビュッフェは、1901年フランスの北西ノルマンディー地方のセーヌ湾に臨む港町ル・アーヴルに生まれた。本名ジャン=フィリップ=アルテュール・デュビュッフェ。「デュビュッフェ商会」というワインの卸売を商う父ジョルジュ=シャルル=アレクサンドル・デュビュッフェと、母ジャンヌ=レオニー・パイエット、そして妹シュザンヌの四人家族で裕福な家庭に育った。
デュビュッフェは、優秀なため7歳で地元のリセ(国立中等学校)に入学、中等教育修了まで同校で学ぶ。読書とピアノに熱中。1917年バカロレア(大学入学資格)の一次試験に合格し、哲学級に進む。地元の美術学校にも登録して、夜間授業に出席、デッサンを猛烈な勢いで繰り返し、画家を志す。翌年17歳で、バカロレアに合格。父親の許可を得て、前衛芸術が開花するパリに出て、私立美術学校アカデミー・ジュリアンに入学した。しかし授業に不満を覚えて半年後の1919年に退学、キュビスムを指向していたフェルナン・レジェ(1881-1955)らと集い、独学で絵画から哲学、文学、語学、音楽へと彷徨う。この冬、両親と初めてフランス領アルジェリアを訪れる。
1923年22歳で軍役に就き、翌年除隊すると、スイスのローザンヌを旅行し、そこで精神病理学者ハンス・プリンツホルン(1886-1933)の研究書『精神病者の芸術性』(1922)と出会い、精神病患者の絵に衝撃を受ける。既成のヨーロッパ近代文明に懐疑を抱き、作品や蔵書を処分して、遠い南米のアルゼンチンへ行って暖房器具を扱う会社で働いた。1925年24歳、ル・アーヴルの実家に戻り父親のワイン業に加わり、以後1933年まで家業中心の生活を送る。1927年にはポーレット・ブレと結婚し、娘イザベルが生まれる。パリ郊外ベルシー近くのサン・マンデに住居を構え、実家から独立してワイン卸売会社を創業。商売は順調で、パリにアパートを購入し、アトリエを構える。1934年妻と離婚。商売を人に任せ、再び絵画制作に打ち込み始める。1937年経営が傾いていったため、再び画業を中断、商売に戻りモンパルナスのカフェで出会ったエミリ・カルリュ(通称リリ)と結婚する。
1939年第二次世界大戦が勃発し、気象部隊に動員され航空省の書記官となる。翌年除隊してパリに帰り、商売に専念し、負債を返済したが、1942年ワイン商を公認の代理人に委ね、芸術家に身を捧げる決意を固めて、本格的に油彩を描き始める。連作「都会と田舎の操り人形」を制作し、アトリエを訪れた建築家ル・コルビュジエ(1887-1965)が作品を絶賛したため、作品を譲った。1944年43歳、初個展をパリのドルーアン画廊で開催し、画壇デビューすると、一般客の反応は敵意に満ちていたが、アンドレ・マルロー(1901-76)が作品を購入した。
第二次世界大戦が終結した1945年、デュビュッフェは「この現実世界とは何なのだろう。どうやって私たちはこの世界を認識して生きているのか。何かを理解したり、わかるとはどういうことなのか」と疑問を抱いた。自らが命名した「アール・ブリュット」の作品収集を開始し、絵画を認識の一手段とみなして厚塗りの「肖像」シリーズを始める。厚塗りは、美術評論家でアンフォルメル運動の主唱者であるミシェル・タピエ(1909-87)に感銘を与え、デュビュッフェはアンフォルメルの先駆者と呼ばれるようになるが、自らは無関係だと抗議している。
絵画を言葉で語る矛盾
第二次世界大戦終結後の1946年、デュビュッフェは自身の芸術観をまとめた『あらゆる分野の愛好家たちへの案内書』を出版し、その翌年にはアメリカのピエール・マティス画廊で初個展を開催。その後、アルジェリアのサハラ砂漠を旅している。独自に起業したワイン会社を売却して、この時期から絵画に専念する。アンドレ・ブルトン(1896-1966)やジャン・ポーラン(1884-1968)、ミシェル・タピエらとともに1948年には「アール・ブリュット協会」を創設する。1949年ドルーアン画廊で開催した「アール・ブリュット」展に『文化的な芸術より好ましい〈生の芸術〉』という文章を寄稿した。
1950年に「ご婦人のからだ」シリーズの制作を開始する。続いて「風景テーブル」「精神の風景」「哲学的な小石」など多くの連作ジャクソン・ポロック (1912-56)らとも交流する。
を描き、そのシリーズ名はデュビュッフェの志向性を浮かび上がらせる。日本での初出品となる1951年第3回読売アンデパンダン展に《二重自画像》を出品。同年デュビュッフェはアメリカを訪れ、マルセル・デュシャン(1887-1968)やフランス国内の美術館では初となる大規模な回顧展が1960年パリの装飾美術館で開催され、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)でも開催された。そして青、赤、白、黒色の配色で生物体の細胞組織のような構造の「ウルル―プ」シリーズが生まれ、1967年5月まで続く。1966年にはロンドンのテート・ギャラリーで回顧展、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でも「ウルル―プ 1962-1966」展が開催された。著述を収録した『案内書とそれに続く全著述』(1967)がガリマール出版から出版され、「アール・ブリュット」展を装飾美術館で開催。『息のつまる文化』(1968)を出版し、MoMAでは個展を開催する。パリ近郊のペリニーにアトリエを建て、洞窟のように内部に入って見る立体作品《冬の庭》や、コンクリート製の庭園からなる《ヴィラ・ファルバラ》の制作を始める。
デュビュッフェほか1940年代以来収集された「アール・ブリュット」コレクションを、1972年スイスのローザンヌ市に寄贈する。1974年にジャン・デュビュッフェ財団を設立。日本での初個展は1978年新宿区にあったフジテレビギャラリーで開かれた。旧西ベルリンのアカデミー・デア・クンストで1980年に大回顧展が開かれ、翌年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館と、パリのポンピドゥー・センターでデュビュッフェ生誕80年を記念した展覧会が開催された。日本では1982年に西武美術館(のちのセゾン美術館。1999年閉館)と国立国際美術館で個展を開催。1984年のヴェネツィア・ビエンナーレには連作「照準」を出品した。1985年に自伝となる『駆け足の伝記』を著して、5月12日に心不全のため、パリ・ヴォージラール街の自宅で死去。享年83歳。9,000点を超える作品と、全4巻の著述全集と全38冊の造形作品全集を残し、妻リリの故郷パ・ド・カレー県テュベルサン村の墓地に、リリと共に眠っている。
「『絵画は、言葉に結晶化する前の段階の思考を表象・体現できるもの。何かを言葉にした時点で、多くのものは失われる』。こういうことを、とてつもない教養人で知識人であったデュビュッフェが、ほかならぬ言葉で繰り返し語っており、そこに大きな矛盾がある。こうした矛盾を抱えつつ、“描く”ことも、“書く”こともやめられなかったのが、デュビュッフェという人物だったのではないか。生成しつつある精神の動きのようなものを捉えようとしながら、“見る”とはどういうことか、“思考する”とはどういうことかという問いを、言葉と、言葉ならざるものを通して考え続けたデュビュッフェは、20世紀の哲学者や文学者、美術史学者たちとも多くの問題意識を共有している」と小寺氏は述べた。
【ご婦人のからだ 肉のかたまりの見方】
(1)タイトル
ご婦人のからだ 肉のかたまり(ごふじんのからだ にくのかたまり)。英題:Lady's body, piece of meat
(2)モチーフ
女性の裸体。
(3)制作年
1950年。デュビュッフェ49歳の作品。
(4)画材
キャンバス、油彩、砂。
(5)サイズ
116.0×89.0cm。
(6)構図
画面一杯に左右対称で標本のように配置した正面性の強い構図。
(7)色彩
ブラウン、ワインレッド、グレー、アイボリー、白、黒など多色。
(8)技法
油彩。亜鉛白に膠(にかわ)、テレビン油、細かい砂を混ぜて、厚塗り層をつくる。それが乾く前にリンシード・オイルで溶いた薄い色と、濃い色の上塗りを繰り返す。乾いてから全体をナイフで削り、擦れた荒い絵肌を作った後、上からナイフの先を突き立てて描線し、最後に褐色の色調で薄塗りをほどこす。
(9)サイン
画面の下部中央に絵具をナイフの先端で引っ搔いたように、茶と白が混在する細い描線で「Nov.50 J.Dubuffet」と署名。
(10)鑑賞のポイント
口を開けた裸婦が正面向きに押し花を広げたように押し広げられ、荒れた肌に乳房、へそ、恥部、細い腕などが原始的に描かれ、エネルギーが満ちている。女性の裸体を猥褻以上に醜態として描き、格差を作る社会的通念へ反発するデュビュッフェは、「グロテスクなものや野卑なものが、形式上ヴォルテージを高める手段としてそこに用いられており、それはグロテスクや野卑の観念がなんの意味もなくなって消えてしまう、ひとつの平面に達することをめざしている」(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』p.140)と、この絵を描く目的を述べている。1950年4月より1951年2月までの約1年間「ご婦人のからだ」シリーズとして油彩画36点、水彩14点、デッサン56点、リトグラフ6点を制作。“肉のかたまり”とは、スライスしたハムやソーセージ、ステーキといった食肉店に並ぶ平たい肉のイメージであり、言葉の世界の反対側に物質、身体、肉体感覚の視覚イメージを置き、芸術の本質に疑問を投げかける。デュビュッフェがもっとも精力的に絵画制作に取り組んだ1950年代における名作である。
哲学するためのイメージ
《ご婦人のからだ 肉のかたまり》について小寺氏は、「『ご婦人のからだ』と題しているが、必ずしも具体的な女性の裸婦を意図していない。2016年にバイエラー財団でこの絵を見たとき、隣にはテーブルの絵があり、遠くから見るとテーブルも女性の体躯もほとんど同じ形をしていた。絵画としてはとても物質的なのだけれど、デュビュッフェはむしろ描かれているもの(=女性の裸体)が、漠然とした、そして非物質的な状態に絵画自体が留まるような、判断が未決定な状態になるように描いた、と書いている。一枚の絵を見る人が、そこからいろんなものを連想することが画家の目的だった。例えば地面や岩、樹皮、植物的な、人間の肉体とは必ずしも結びつかない要素を意図的に入れたとデュビュッフェは言っており、判じ絵
ではないが、絵画は“何にでもなる”ことが想定されている。タイトルには言葉遊びの側面もある。フランス語のタイトル《Corps de dame, pièce de boucherie》のCorpsは英語で言うBodyで、Corpsには肉体のほか、物体や物質、あるいは集成(英語でいうところの「コーパス」)など多くの意味がある。デュビュッフェは、哲学するための手段として“言葉”と“イメージ”を比較していた。そして言語という、思考を結晶化させてしまう手段を用いるよりも、思考を気体や流体のように留めておくイメージの方が哲学するにはふさわしい手段であるという。曖昧で不明瞭な視覚イメージこそが“ありのままの現実”に肉薄するものと考えていたデュビュッフェ。ご婦人の体躯には、目と鼻と口、つまり顔があるようにも見える。顔のようなハムのような地面のような絵。見る距離や見る部分によっても違ってくるが、とにかく見る人次第で何にでもなる。デュビュッフェが女性の裸婦像を描いたのは、西洋絵画の伝統的な主題である裸婦像というジャンルを破壊するためではなく、むしろ西洋絵画を刷新し、実り多いものにするためだった。『絵画とは眼に訴えるものではなく、精神に訴えるもの』だと、デュビュッフェは繰り返し述べていた。何が描かれているのかというより、どのように見るかが問題なのであって、そしてその見る行為は、眼という器官に終始する行為としてではなく、触覚なども動員して全身でなされる行為、体感として想定されている。だからこそデュビュッフェは、物質感に満ちた絵画表面にこだわった。認識するとは何か。世界を経験する行為そのものを問い直そうとするデュビュッフェの絵画制作、およびその作品はいわゆる絵画鑑賞という文脈や、美術/芸術という領野だけで考えられるものではない。見る行為そのものを問い、そして見る人に思考させる」と語った。小寺里枝(こでら・りえ)
ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2023年2月