アート・アーカイブ探求
ジャクソン・ポロック《秋のリズム:ナンバー30, 1950》──静謐な秩序「大島徹也」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2021年06月15日号
※《秋のリズム:ナンバー30, 1950》の画像は2021年6月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
自然の調和力
6月に入り東京では3日連続(2021.6.8-10)30度以上の真夏日が続いた。日本列島の6月10日の最高気温を北から南へ通覧してみると、帯広30.3℃、盛岡31.3℃、東京30.7℃、福井32.9℃、京都33.6℃、高松33.2℃、一番の猛暑が大分・日田の34.9℃、そして那覇が帯広と同じ30.3℃と驚きだ(気象庁「毎日の全国データ一覧表」より)。
梅雨を越して突然盛夏になったようで、風鈴の音や扇子の風、打ち水などで涼み、五感を目覚めさせたい。脳内の神経細胞を散歩しているような気分になれる巨大な絵画がある。アメリカの画家ジャクソン・ポロックの代表作《秋のリズム:ナンバー30, 1950》(メトロポリタン美術館蔵)である。
絵具をまき散らしたように見える作品なのだが、しばらく見ていると思考を経たバランスのよい線や色が表出しはじめ、静かな風が吹いてくるような感覚になった。「秋のリズム」というタイトルが、秋の気配を連想させるためだろうか。自然の風景を写実していないだけに、かえって自然の調和力をじかに感じたのかもしれない。
《秋のリズム:ナンバー30, 1950》の見方を、多摩美術大学美術学部芸術学科准教授の大島徹也氏(以下、大島氏)に伺いたいと思った。大島氏は西洋近現代美術史を専門とし、特にポロック研究は長く、展覧会「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」(愛知県美術館・東京国立近代美術館、2011-12)も企画された。多摩丘陵に建つ多摩美術大学八王子キャンパスへ向かった。
「僕でも描ける」
キャンパスの豊かな新緑が雨上がりで潤い、目を癒してくれた。大島研究室の扉は少し開いていて、導かれるように迷わず大島氏とお会いすることができた。大島氏は、英語教師の父と音楽教師の母のもと、二男一女の長男として1973年愛知県大府(おおぶ)市に生まれ、美術との出会いは小学校5年生のときだったという。大島氏は一枚の招待券を手にひとりで名古屋市の愛知県文化会館美術館(現愛知県美術館)へ行き、「プラハ国立美術館秘蔵名画展・Ⅲ」(1984.7.28-8.13)を見た。そこで出会ったのがチェコ出身の画家フランティセック・クプカ(1871-1957)の《抽象絵画》(1930)である。衝撃的だった。白い画面に黒い線が縦に1本、横に2本引いてあるだけ。「僕でも描ける」と大島氏は思った。しかし、そんな簡単な絵を大人たちが真剣に鑑賞している様子を見て、「これは何か奥深いものがきっとあるのだろう」と関心を持った。
この経験を契機に美術展へ行くようになった大島氏。歴史も好きだったが、中学校の修学旅行で東京と鎌倉へ行ったとき、5人でのグループ行動では鎌倉にある神奈川県立近代美術館を選び、「カタルニア賛歌──芸術の都バルセロナ展:ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリ/巨匠たちの青春がよみがえる」(1987.5.23-6.28)を観覧した。そして、青の時代のパブロ・ピカソ(1881-1973)の作品《スープ》(1902、カナダ・オンタリオ美術館蔵)にもショックを受けた。「一杯のスープを、母親と思える人が幼い女の子に差し出している。祈りにも通じる深さを感じたのかもしれない」と、若い心に宿った心象を瑞々しく語る大島氏。ひとつのビジュアルイメージが人の心を貫き、訴えかけてくる絵画の力を感じ、大島氏は美術への道を確かなものにした。
ポロックから始まるアメリカ美術
大島氏は東京大学文学部へ進学し、自分が生きている現代と生(なま)の関係のなかで美術やアートに触れたいと、迷わず西洋近現代史を選んだ。
近代の始まりであるエドゥアール・マネ(1832-83)、20世紀最大の巨匠ピカソ、現代の始まりといえるポロックのなかで、自分が生きる現在の地点にもっとも近いところにいるポロックの研究を進めていけば、いろいろ見えてくると思った。また「真のアメリカ美術はポロックから始まる」と言われ、ヨーロッパ・パリ中心だった美術をアメリカ・ニューヨークへ移した変革の主導者としても関心があり、卒業論文はジャクソン・ポロックに決めた。同大学の大学院を修了後、ニューヨーク市立大学へ8年間留学し、アメリカの20世紀美術の大家ゲイル・レヴィン教授(1948-)と、マティスの研究者として世界的に知られているジャック・フラム教授(1940-)に師事した。
2008年、愛知県美術館の学芸員となってから、ポロックの博士論文を書き上げ、博士号(美術史)を取得した。「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」を企画し、この展覧会の功績により2012年、第7回西洋美術振興財団賞・学術賞を受賞。2015年広島大学大学院総合科学研究科の准教授となり、2019年より多摩美術大学で教鞭を執っている。
《秋のリズム:ナンバー30, 1950》を初めて見たのは1995年、卒論執筆に向かう大学4年生の夏だった。大島氏は実物を見にアメリカへ渡った。「ポロック研究では現在使わない傾向にあるアクション・ペインティングという言葉があるが、キャンバスの周りを動いて絵具をまき散らして描くという先入観の通り、活き活きとした荒々しい作品だった。ただしばらく見ていると、どうもそれだけではないと思えてきた。図版だけでは得られなかったフィーリングを感じた」と大島氏は当時を振り返った。
15歳の飲酒
ポール・ジャクソン・ポロックは、1912年父レロイ・ポロックと母ステラ・メイ・マクルーアの男子5人の末っ子として、ワイオミング州コディに生まれた。生活は苦しく生後10カ月のとき、一家はカリフォルニア州サンディエゴ近郊に移住したが、その後もアリゾナ州、カリフォルニア州の各地を転々とした。美術に関心があり家族の中心だった母親や兄の影響を受け、ポロックはネイティブアメリカンの文化やメキシコ壁画に興味を持つようになっていく。
長兄のチャールズは『ロサンゼルス・タイムズ』紙のレイアウト部門に職を得て、現代美術の図版が掲載された雑誌『ザ・ダイアル』を家に送り続け、五男のポロックと四男のサンフォードはむさぼるように読んだ。チャールズは、ニューヨーク市に移り、仕事のかたわら美術学校アート・ステューデンツ・リーグへ通う。ポロックは、15歳頃からサンフォードと一緒にグランド・キャニオンの測量調査団の助手として働き、大人の男たちに交じって酒を覚え、飲酒癖がつく。その後、ロサンゼルスの手工芸高校に入学し、放校と復学を繰り返すが、美術部門主任のフレデリック・シュワンコフスキー(1885-1974)に抽象美術と神秘的な神智学を学んだ。
1930年18歳でニューヨークへ出たポロックは、アート・ステューデンツ・リーグに学生登録する。兄と同じく画家トーマス・ハート・ベントン(1889-1975)先生のクラスに入り、ベントンと信頼関係を築いていった。1934年シティ・アンド・カントリー・スクールで美術教師となる。大恐慌に対処するため、ルーズヴェルト大統領が実施したニューディール政策の一環で、WPA(雇用促進局)による、アーティストを雇用して救済するというFAP(連邦美術計画)に1935年に参加、モザイク作品《無題》(ポロック=クラズナー財団蔵)などを制作した。またメキシコの壁画家ダビッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)が1936年に開設した「実験工房」に入り、ドリッピングやエアブラシなど新しい技法や絵の材料を試している。その年のクリスマスパーティーで、のちに妻となる画家レノア(のちにリーと改名)・クラズナー(1908-84)と初めて出会う。
1937年、兄のサンフォードから説得され、精神科でアルコール依存症の治療を受ける。ポロックは、無口で人付き合いが苦手な酒に溺れるタイプの人間だったが、「プリミティヴ・アートとピカソ」(1937)という論文を書いた批評家で画家のジョン・グレアム(1881-1961)に自ら会いに行くという積極的な一面もあった。
MoMAによる買い上げ
1941年29歳になったポロックは、第二次世界大戦(1939-45)に備える徴兵検査で、精神的な問題があるとして不適合となる。11月ポロックのアパートにリー・クラズナーが訪ねてきた。粗野で洗練されていないが、パワーを秘めた絵画を見て、クラズナーはポロックの才能に惹かれていった。アンリ・マティス(1869-1954)の信奉者であったクラズナーは、ポロックにマティスをインスパイアし、ポロックはチューブから絵具を搾り出して直接キャンバスに描いたり、無意識的な描画を実行した。またジョアン・ミロ(1893-1983)からもインスピレーションを受けた。
1942年には、批評家で画家のジョン・グレアム企画による展覧会「アメリカとフランスの絵画」にピカソやマティス、アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)など、ヨーロッパの作品とともにポロックの《誕生》(テート蔵)が展示された。
1943年ソロモン・R・グッゲンハイム美術館の設立者の姪で、コレクターのペギー・グッゲンハイムが主宰する画廊「今世紀の美術」よりグループ展に招かれたポロックは、《速記の人物》(ニューヨーク近代美術館蔵)を出品した。それを見たピート・モンドリアン(1872-1944)は「アメリカで見た作品のなかでもっとも興味深い作品だ」と絶賛したという。画廊と契約を結んだポロックは、定期的に収入を得るようになり、さらにペギーの自宅に飾る巨大な絵画《壁画》(アイオワ大学スタンレー美術館蔵)の注文も受け、初個展も開催されることになった。
この個展についてモダニズムの美術批評家クレメント・グリーンバーグ(1909-94)は好意的な展評を寄せた。出品作《牝狼》が、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長アルフレッド・H・バー・ジュニア(1902-81)の目に留まり、1944年にMoMAの買い上げとなった。バーは、「抽象絵画は再現的イメージとそれに伴う意味の喪失と引き換えに、絵画の『自立性』と『純粋性』を手に入れた」と述べたという(村上博哉『西洋美術の歴史8 20世紀』中央公論新社、p.77)。美術館によるポロック作品初の買い上げだった。
オールオーヴァーのポード絵画が誕生
飲酒をやめられないポロックは、マンハッタンで同棲していた画家クラズナーと生活環境を改善するため、都会を離れて1945年から自然のなかで生活を始める。クラズナーと結婚し、マンハッタンから約100マイル(160キロメートル)のニューヨーク州ロングアイランドのイースト・ハンプトンにあるスプリングス村へ移住した。この頃のポロックにとってはピカソが大きな指針で、この巨匠を超えたいともがいていた。「くそっ、あいつが全部やっちまった」と、叫びながらピカソの画集を床に叩きつけたというエピソードがある。
自然に囲まれドリッピングやポーリングの技法を熟達させたポロックは、個展を重ねながら1947年、「オールオーヴァーのポード絵画」(allover poured paintings)を生み出した。画面上どこにも中心を設定せず、画面全体を均質的に取り扱うさまを示すオールオーヴァーと、液体状の塗料を画面に流し込んで描くポーリング(pouring)の技法で、注ぐ・流すことを意味する英語“pour”の受け身形からこう呼ばれている。ポロックがピカソを超克した瞬間だった。
1946年『ニューヨーカー』誌の批評家ロバート・コーツ(1897-1973)は、アメリカの戦後抽象絵画に「抽象表現主義」の名称を与えた。ポロックはその中心的な人物となった。
ペギー・グッゲンハイムがヨーロッパへ行くのにあたり、「今世紀の美術」画廊は閉じられ、ポロック作品の取り扱いはベティ・パーソンズ画廊となる。1948年、ポロックの作品6点が第24回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品された。イースト・ハンプトンの地元医師の治療が功を奏して、ポロックは断酒に成功する。1949年『ライフ』誌に特集記事「ジャクソン・ポロック──彼はアメリカでもっとも偉大な現存画家か?」が掲載される。
1950年、ベティ・パーソンズ画廊で行なわれた個展に《秋のリズム:ナンバー30, 1950》や《One:ナンバー31, 1950》など傑作が並んだ。第25回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ館に3作品が展示され、同年秋、写真家ハンス・ネイムス(1915-90)がポロックの制作シーンを映像撮影した。その直後、ポロックは被写体になったストレスのためか、再び飲酒を始めてしまった。自然と調和し、絵との一体感を実感して頂点を極めていたと思われたポロックだったが、翌年より「ブラック・ポーリング」と呼ばれる新しい作品へ移行し、徐々に制作ができなくなっていった。
画家でもある妻クラズナーとの関係も悪化し、ポロックは20代の画家志望の女性ルース・クリグマン(1930-2010)と出会い、関係を始めてしまう。妻と二人で渡欧を予定していたが、旅立ったのはクラズナーひとりだった。1956年の夏、ポロックはクリグマンと女友達を乗せたオープンカーで自宅へ向かう途中、木立に激突した。車はひっくり返り、投げ出されたポロックは頭蓋骨骨折等による即死。女友達は亡くなり、クリグマンは重傷ながらも一命をとりとめた。警察はポロックを飲酒運転の事故死としたが、自殺だったとも考えられる。享年44歳。イースト・ハンプトンのスプリングスにあるグリーン・リバー墓地に埋葬され、クラズナーとともに眠っている。
【秋のリズム:ナンバー30, 1950の見方】
(1)タイトル
秋のリズム:ナンバー30, 1950。作品が完成した制作年をタイトルに加えている。英題:Autumn Rhythm: Number 30, 1950
(2)モチーフ
なし。
(3)制作年
1950年。夏から秋にかけて制作。ポロック絶頂期の38歳。
(4)画材
キャンバス・エナメル塗料。粘度を求めて、エナメル塗料が使われたと思われる。
(5)サイズ
縦266.7×横525.8cm。1950年末の個展で、初出品したベティ・パーソンズ画廊での壁面を覆うサイズ。縦の長さはロールに巻かれていたときのキャンバスの幅であり、横の長さは画廊の壁の最大寸法。ポロックは、枠の中の独立した小世界としてのイーゼル画と、現実の建物の壁に描かれる壁画の間に位置する、新しい絵画構造を探求していた。それにふさわしい大きさである。
(6)構図
全面を均質的に覆うように「オールオーヴァー」で描かれている。画面上に中心と部分の関係を生み出すことなく、上部に余白を多く取り、絵の総体が下部に落ち着くように天地を決め、線と色彩と余白が奥行感をところどころに織りなす。
(7)色彩
黒、白、茶、赤、青緑、グレー、ピンク。この作品は《One:ナンバー31, 1950》などと同時進行で制作しているため、ほかの作品のしぶきが飛んでいる可能性がある。
(8)技法
絵筆や棒に塗料を付けて垂らす「ポーリング」という線描法。キャンバスを床に広げ、下塗りを施さず缶に入った粘性のある塗料を直接流し込んだり、まき散らしている。キャンバスの周りからゆったりと滑らかに、カウボーイが投げ縄を投げるときのようにコントロールして描き、キャンバス内に入るときは一歩ほどしか踏み込まない。塗料を滴らせて点を描く「ドリッピング」も見られるが、本質的にはポーリングで描いている。
(9)サイン
画面右下に「Jackson Pollock 50」と薄いグレーで署名。
(10)鑑賞のポイント
白と黒を基本とした自由な線描で、さまざまな太さの線と細かな飛沫が層を成すように画面いっぱい広がっている。特に極細の長い黒い線を目で追っていくと、優雅な曲線が心地よい。また絵が現実の空間の方に広がり出てきて、鑑賞者を包み込む感覚が生まれる。絵画の因習的な技法を打破するように、線を輪郭線などの役割から解放し、固定化された図と地、前景と後景、中心と部分といった構造が解体され、キュビスム後の新しい絵画空間を実現した。スケールの大きな画面の前に立つと、荒々しい混沌とした筆致の向こうに、つながりつつも散乱するような絵具の痕跡が、視覚と触覚の双方に作用し、秋の光景を想起させる。絵肌を見ると、筆触はなくキャンバスには染み込んだ絵具や物質として固まった絵具など、凹凸感が目に入ってくる。画家の制作行為のほとばしりや、構造化されたイメージが浮かび上がり、しばしば見る者に崇高な感情や静謐な秩序を直覚させる。ポロックの実践的な結論と位置付けられる作品であり、抽象表現主義のひとつの到達点である。
新しい何を創り出すのか
《秋のリズム:ナンバー30, 1950》の見どころのひとつは、「作品の物理的なサイズとスケール感の関係」だと大島氏は言う。1947年にポロックは「イーゼルと壁画の間で機能する移動可能な大絵画を描くことを意図している」と語っていたが、イーゼル画でも壁画でもない画面が枠を越えて拡張していくような新しい状態の絵画を体感してもらいたいという。
そして「自然と直結したような作品名が付けられているので、ポロックが感じていたであろう秋を感じてほしい。自然のリズムと作品の照応的な関係や、自然の存在と人工物のペインティングが、どういうふうにつながっているのかなどを感じてほしい。私は実際にポロックのイースト・ハンプトンのアトリエへ行き、晩秋の木立の風景を写真に撮ってきた
。このような環境のなかで《秋のリズム:ナンバー30, 1950》は生み出された。秋の物枯れた森のイメージを抽象絵画に移し替えたのではなく、図らずも最終的に秋の自然の存在に通じるような境地に、ポロック自身と絵画そのものが到達していったのだろう」と大島氏は語った。現代の芸術家像について、ポロックがインタビュ―に応えている。「現代の芸術家は機械の時代に生きています。そして私たちは、自然界の対象を再現するには、カメラや写真のような機械的手段を持っています。現代の芸術家は内的な世界に取組み、表現している──別の言葉で言えば──エネルギー、運動、その他の内的な力を表現しているのです」(図録『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』p.177)。
マンハッタンの都会ではなく、自然豊かな田舎町でつくられた《秋のリズム:ナンバー30, 1950》は、ポロックからアルコールが抜けたときに出来上がった。「何を描くのか、それをいかに描くのか、そしてそこから新しい何を創り出すのか、という問題がポロック芸術の核心部分で、目的でもあった」と大島氏。《秋のリズム:ナンバー30, 1950》の前で何を感じられるのか、五感を研ぎ澄ませてポロックの内的な世界と出会いたい。
大島徹也(おおしま・てつや)
ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献