アート・アーカイブ探求
作者不明《長沙馬王堆一号墓出土帛画》不死のパラダイス──「曽布川 寛」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年12月15日号
2200年前の絵の発見
竹が迎えてくれる東京・根津美術館で開催されていた特別展「北宋書画精華」(2023.11.3-12.3)へ、おしゃれな青山の街を歩いて行ってきた。中国書画史におけるひとつの頂点である宋時代(960-1279)を代表する、北宋(960-1127)の画家・李公麟(1049?-1106)の神品《五馬図巻》(東京国立博物館蔵)をはじめ、北宋時代の書画の優品が展示され、午前中からたくさんの人が訪れていた。多くの若い中国人が熱心に鑑賞している姿も印象的だった。
昨年(2022)は、中国と日本が国交正常化して50周年の節目の年であったが、周恩来と田中角栄両国首相が日中共同声明に署名した1972年に、2200年前の絵が発見されていたことを知り驚いた。中国語で帛画(はくが)といい、絹に描かれた絵で、文字が書かれたものは帛書(はくしょ)というらしい。「帛」は絹という意味のため、日本人には絹本(けんぽん)と言った方がわかりやすいかもしれない。
その帛画は、中国・湖南省の省都、長沙市で発掘された馬王堆(まおうたい)一号墓から出土された。一号墓(母)、二号墓(父)、三号墓(息子)は家族の墓で、一号と三号に帛画があったが、一号の方が状態が良好だった。二号墓は、長沙国の初代軑侯(たいこう)で、宰相を務めた利蒼(りそう。?-紀元前186)の墓であり、一号墓は利蒼夫人のもので、皮膚に弾力が感じられたというほど奇跡的にミイラの保存状態が良く、また漆器、絹織物、楽器、化粧具など、豪華で多様な副葬品も出土し、世界的にセンセーションを巻き起こした。
T字型の着物を衣紋掛けに掛けたような外見の《長沙馬王堆一号墓出土帛画》(湖南省博物館蔵)を探求してみたい。湖南省博物館は18万件の所蔵品を有し、常設展示として「長沙馬王堆漢墓陳列」と「湖南人──三湘歴史文化陳列」を開設。建築家の磯崎新(1931-2022)の設計によって、2017年にリニューアルオープンしている。日本なら弥生時代という2200年前の絵には何が描かれていたのだろうか。
中国美術史を専門とする京都大学名誉教授の曽布川寛氏(以下、曽布川氏)に《長沙馬王堆一号墓出土帛画》の見方を伺いたいと思った。曽布川氏は、『崑崙山(こんろんさん)への昇仙──古代中国人が描いた死後の世界』(中央公論社、1981)や、『世界美術大全集 東洋編 第2巻 秦・漢』(共編、小学館、1998)など、古代中国に関する著書を多数出版されている。京都のご自宅で話を伺うことができた。
古代への畏怖感の氷解
曽布川氏は、1945年静岡県浜松市に生まれた。子供の頃からものを見るのが好きで、映画監督になろうと思ったことがあるという。京都大学の文学部哲学科へ入学し、美術史を専攻して一時はポール・セザンヌ(1839-1906)の研究を考えたそうだ。しかし、中国の唐時代以後の水墨画に興味が湧き始め、元の画家である黄公望(こうこうぼう。1269-1354)の《富春山居図》(台北国立故宮博物院蔵)について卒論を書いた。黄公望は、書法の筆法をもって絵画を描き、写意や抒情による文人画の精神をもって水墨画の新境地を切り開き、呉鎮(ごちん。1280-1354)、倪瓚(げいさん。1301-74)、王蒙(おうもう。1308-85)と並んで「元末四大家(げんまつしたいか)」と称される。
曽布川氏はその後、同大学の修士課程へ進み、范寛(はんかん。950頃-1032頃)など、五代北宋初期の写実性と象徴性を兼ね備えた山水画家たちについて考察し、修論を書いた。1973年京都大学大学院の博士課程を中退し、同大学の人文科学研究所の助手となる。1981年には京都市立芸術大学の講師、助教授。1987年に京都大学人文科学研究所へ戻り、助教授を経て教授、2009年に退職する。
曽布川氏が中国の古代美術に関心を抱き、その研究生活に入ることができたのは、この《長沙馬王堆一号墓出土帛画》との出会いがきっかけであったという。人文科学研究所の助手時代に、中国考古学を専門とする林巳奈夫先生(1925-2006)を班長とする共同研究「漢代文物の研究」「先秦文物の研究」に参加し、遺物・文献の両面から検討を行なっていた。曽布川氏は、そこで帛画というものを知り、現代と2,000年以上もの時間を隔てる畏怖感が、徐々に氷解していくのを覚えたそうだ。しかし、《長沙馬王堆一号墓出土帛画》の複製は見ているが、何度も湖南省博物館へ行ってもまだ実物は見せてもらえないようだった。2008年の北京オリンピックのとき、北京で中国の名品を陳列した際に遠くから見たことはあったという。「古代の世界の宇宙観・神話伝説・祭祀などが描出されており、もし、これが正確に理解されるならば、これまでまったく知られていなかった古代中国絵画の世界の一端が開けてくると思った」と曽布川氏。
中国絵画の魅力は「ほかの絵画とスケールや規模が違い、自然が大きく、空間も大きい」と述べ、「新しい時代の作品は、様式で見ていくと理解しやすいが、古代の絵画は、西洋美術の領域で生まれた図像学
で考えるとわかりやすい」と、曽布川氏は中国絵画の見方を教えてくれた。豊満な貴婦人
長沙市がある湖南省は、中国大陸の南部に位置し、中国の淡水湖として鄱陽湖(はようこ)に次いで大きい洞庭湖(どうていこ。琵琶湖の約4倍)があり、中国の山水画における伝統的な画題とされる「瀟湘(しょうしょう)八景」の美しい眺めを見ることができる。《長沙馬王堆一号墓出土帛画》は、省都長沙市の中心街から東へ4キロの地点で発見された。馬王堆とは馬王の塚という意味で、馬王とは五代十国時代(907-960)の楚王の馬殷(ばいん。907-930)のことだった。馬王堆は、馬殷の墓と長年言い伝えられてきたが、1972年の発見によってもっと古い前漢時代(紀元前202-紀元8)の墓であることがわかった。
一号墓に埋葬されていた利蒼夫人は、死亡推定年齢が50歳前後、身長154センチ、体重34.3キログラムだが、生前は70キロほどの豊満な貴婦人だったと推定されている。腐敗を免れてミイラとなった皮膚には潤いがあり、四肢の関節も動かすことができるほど遺体の状態は良好であった。解剖の結果、血液型はA型で、動脈硬化症、胆石症、椎間板ヘルニアなどを患っていたことが判明。直接の死亡原因は、胆石による激痛が動脈性心障害を誘発したためと推測されるが、肥満や運動不足による生活習慣病がそもそもの原因であったと考えられる。胃に138粒の瓜の種が残っていたことから、瓜を食べて2、3時間後に心臓発作で亡くなったようだ。
2,000年におよぶ保存が可能だった理由は、チューリップを煎じた「香湯」と、黒いキビで醸造した「鬯酒(ちょうしゅ)」という祭祀専用の「におい酒」で遺体を消毒し、絹の衣装で何層もくるみ、漆が塗られた棺を膠(にかわ)と漆で蓋を密閉し、その内部を酸欠状態にして空気に触れさせないことで、防虫になっていたと考えられる。また、地下16メートルに置かれた棺は、木炭と粘土質の白陶土で囲われ、防水・防湿対策を施され、棺内にはアルコールのような殺菌効果を発揮する黒褐色の液体約80リットルが入っていたことも、長期保存の要因であったと思われる。
【長沙馬王堆一号墓出土帛画の見方】
(1)タイトル
長沙馬王堆一号墓出土帛画(ちょうさまおうたいいちごうぼしゅつどはくが)。英題:T-Shaped Painting on Silk from Tomb No.1
(2)モチーフ
太陽、月、人身蛇尾の女神(女媧[じょか]=天帝。人類を創造したとされる)、烏、鳥(鶴あるいは酒面雁[さかつらがん])、ヒキガエル、兎、月の女神(常羲[じょうぎ]。乗り物の龍を手配する神)、龍、赤い豹(崑崙山を守護する神)、哺乳動物に乗った怪獣、衣冠を整えて対座する門神(天帝の下臣)、2羽の尾の長い朱雀(鳳凰)、翼を広げた風神と思われる怪物(鵩鳥[ふくちょう]。死を象徴するフクロウに似た鳥)、杖をつく利蒼夫人、3人の侍女、ひざまずく2人の男、大亀、フクロウ、人面鳥身の神(句芒[こうぼう]。寿命増益や福利を司る神)、両手を挙げた力士風の男、7人の男、赤蛇、小獣、2匹の大魚、扶桑の木の枝葉、8個の小さな太陽、鈴、台座のある2本の柱(崑崙山の門)、華蓋(かがい)、花、玉器
(璧[へき]円板状の玉の中央に円孔を開けたもの。珩[こう]貴人が腰に帯びた軟玉製の山形の装身具)、繸(すい。紐)、3個の鼎(てい)、2個の壺、食膳、食器、両側に棒を付けた盆──([図1]参照)。(3)制作年
紀元前168年頃(前漢[紀元前202-紀元8]の初期)。日本の弥生時代。
(4)画材
細かい平織りの絹地、自然の顔料(墨、朱砂[しゅしゃ]、弁柄、青黛[せいたい]、藤黄[とうおう]、銀粉、胡粉など)。
(5)サイズ
長さ205cm、T字型の上部幅92cm、下部幅47.7cm。3枚の絹地を合わせていて、真ん中の丈の長い絹地に、その3分1の長さの絹を上方に両側から縫い合わせT型にする。上端の裏側には、1本の竹竿を茶褐色の絹ひもで結び付け、吊り下げるようにしてある。上部と下部の両側下端にはそれぞれ、青色の細い麻糸で織った房がかがり付けられ、その長さはいずれも20cmあまり。上大下小を表わす形を単純化したT字型は、崑崙山を表現しているのかもしれない。
(6)構図
漢民族による黄河文明から生まれた中国古代の神秘思想である神仙思想に基づくデザイン。画面を上・中・下の三段に分けて、モチーフを図式的に配置した平面的な構図。
(7)色彩
白、青、赤、黄、茶、黒など多色。
(8)技法
素絹(そけん)を緑色の染料で染めたあと、淡墨で下絵を描き、各種の色彩を施し、最後に墨線で輪郭を描く。着色は均一に塗る平塗が主だが、ある部分は平塗の上に濃淡をつける渲染(せんぜん)法
を用いて凹凸を表わす。(9)サイン
なし。職人の共同制作と思われる。
(10)鑑賞のポイント
帛画は、利蒼夫人の四重になっていた棺の一番内側の棺の蓋の上に、絵のある面を死者に向けて広げられていた。遣策(けんさく。埋葬品リスト)には「非衣」とあり、葬送の際に銘旌(めいせい。死者の姓名・官位を記した葬礼用の旗)として用いられた形跡がある。死後の霊魂が、不死の理想世界へ昇るという昇仙がテーマである。上方で衣冠の装いで対座する門神が待つ門と、下方で力士風の男が支える白い台を境に、天上・地上・地下の三つの世界が一図に描かれている。最下部の地下は、死者の再生を意図した亀や大きな双魚が描かれた水の世界で、力士のような巨人が踏ん張って台を支え、画面中段の白い台には、杖をついた墓の主人公である利蒼夫人が横向きに立っている。台の下から璧と繸を下げ、珩の下には鼎や壺などが並び供膳の光景が見られる。利蒼夫人の霊魂が、玉器に呼び寄せられた龍と、乗客台に華蓋が一体となった龍舟に乗って、パラダイスである天上界へと飛び立たんとしている
。仙山である崑崙山はここに描かれていないが、先端が尖り圭形の二重構造の2本の柱門が崑崙山を象徴している。天上界には神話画像が多く、右上の烏がいる赤い円は太陽を表わし、左上で雲気をくわえるヒキガエルは白い三日月に乗る。太陽の下を見ると、幹と枝をくねくねとくねらせた1本の樹木に絡まった小さな赤い円が8個ある。これは『山海経(せんがいきょう)』 や『淮南子(えなんじ)』 、『楚辞(そじ)』 に基づく10個の太陽と扶桑の伝説に関連していると考えられる。上段中央の人身蛇尾の女神は天帝の女媧である 。人間を創造し、天を補修した古代神話のヒロイン的存在の女媧は、宇宙の中心に君臨する天帝として登場。2200年前の絵師たちが、利蒼夫人の死後の世界を想像し、不死の願いを込めて昇仙の有様を描いた。まったく前例を見ぬ古代絵画の出現であった。地上界の崑崙山へ
《長沙馬王堆一号墓出土帛画》について曽布川氏は、「天上界の門は重要であり、一号墓から同じく出土した木棺漆画や、同時期に長沙砂子塘(さしとう)一号墓から出土した木棺漆画などを図像学的に考え併せていくと、天上界の門は、崑崙山の門と考えられ、天上界に崑崙山の世界が開示されていることになる。つまり利蒼夫人の魂が昇って行こうとしたのは、北極星近くに位置する天帝が住まう紫微宮(しびきゅう)のある天上界ではなかった。『山海経』にある西山経には天帝の下都として、天帝が直轄する地上界の聖域は、仙界の崑崙山であった。昇天図ではなく昇仙図と帛画を名付けた理由もここにある。実際に中国西部にある崑崙山脈は、チベット高原を挟み世界最高の大山脈ヒマラヤの近くにある。ここでの崑崙山は神話伝説上の山を指している。崑崙伝説は実際のことと非実際のことが混淆しているのが特色。神話伝説上の崑崙山の特徴は、天帝の下都に当てられたことである。天帝の居場所は崑崙山の直上空にあり、崑崙山は地上から天上へ出る通路となっている。儒教の経典『礼記(らいき)』の郊特牲篇などには、精神的な「魂」は天に昇り、肉体的な「魄」は地に帰るとある。天上界へ帰すという儒教の霊魂観とは異なり、儒教以前は、不死のパラダイスである地上界の崑崙山へ昇って行くという霊魂観である。死者の霊を信仰し、祭祀を盛んに行なっていた当時の長沙文化の表われと言えるだろう」と語った。
曽布川 寛(そぶかわ・ひろし)
作者不明
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2023年12月