アート・アーカイブ探求
イヴァン・アイヴァゾフスキー《第九の怒濤》──生命の勝利へ「五木田 聡」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2024年01月15日号
負の連鎖を止める
龍が世間をかく乱したような2024年の年明けになってしまった。誰が想像できたろうか。元旦に「令和6年能登半島地震」が起き、悲しい正月である。石川県能登地方にマグニチュード7.6、震度7の地震が発生、死者206名、安否不明者52人(2024年1月10日現在、石川県危機対策課第30報)の惨事となった。
昨年はパレスチナ・イスラエル戦争が勃発し、ガザ地区の悲惨な映像が連日テレビで放映された。2年前(2022年2月24日)に始まったロシアのウクライナ軍事侵攻がトリガーとなったのか、負の連鎖を止めたい。停戦、平和を希求してロシアで愛されているといわれる絵画を見てみたいと思う。イヴァン・アイヴァゾフスキーの代表作《第九の怒濤》(国立ロシア美術館蔵)である。
海は荒れているが、透明感ある緑色の水が美しい。リアリティがあり、改めて海の色は何色だったか思いを馳せてみる。しかし、ことは緊迫している。自然の猛威に人間が耐え、もがきながら生き延びようと必死だ。雲間から射し始めた太陽の光が一縷の望み。クリミア半島で生まれたロシア人画家アイヴァゾフスキーはこの絵を通して何を描こうとしていたのだろう。
東京富士美術館の館長、五木田聡氏(以下、五木田氏)に《第九の怒濤》の見方を伺いたいと思った。五木田氏は西洋美術史を専門とされ、2003年に「第九の怒濤展」の企画担当をしており、2018年の「国立ロシア美術館所蔵 ロシア絵画の至宝展」では日本側の監修者として《第九の怒濤》の出品に関わった。東京・八王子にある東京富士美術館へ向かった。
苦手をつくらない
五木田氏は、1955年東京・新宿に生まれた。4人兄弟の長男で、父が趣味で絵を描いていたという。絵を描くのも、見るのも好きだった五木田氏は、高校生のとき美術部に入った。美術部の先生から「東京藝術大学の芸術学科だったら合格するかもしれない」と言われて藝大の受験を決意する。芸術学科は、美術学部のなかではもっとも競争率が低かったそうだが、それでも10倍ほどの競争率を突破し、1973年東京藝術大学美術学部芸術学科に入学した。当時アール・ヌーヴォーやアール・デコが流行っており、スコットランドの建築家チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928)の食器やインテリアなど、デザイン系の作品に興味をもっていたという。
西洋美術史を専攻した五木田氏は、1977年藝大を卒業し、都内の画廊に就職する。仕入れ部門に着任したが、学生時代の先輩から「今度、東京八王子に新しい美術館ができる(1983年11月開館)」という情報を得た。五木田氏は7年間勤めた画廊を退職して、1984年東京富士美術館でアルバイトとして1年間勤め、翌年には学芸員になった。そして写真部長、学芸部長を経て2010年より館長を務めている。
「東京富士美術館は、『世界を語る美術館』という指針がある。そのため古今東西、日本美術も東洋美術も西洋美術も古い時代から現代まで、ひと通り何でも好きになり、苦手をつくらないようにしている。こちらが興味なかった国でも向こうから近付いてきてくれるので、それはそれで楽しい」と五木田氏は述べた。
アイヴァゾフスキーの《第九の怒濤》を五木田氏が初めて見たのは、1977年頃、静岡県の富士美術館(1973-2008)、あるいは東京・日本橋の三越デパートでの「《第九の怒濤》を中心とするロシア美術館名作展」だったようだが、自覚して接したのは東京富士美術館の学芸員としてであった。開館20周年の記念展(2003)を企画しているとき、富士美術館で人気のあった《第九の怒濤》をメインに展示する案が出て、「第九の怒濤展」を開催することになった。担当者となった五木田氏は当初関心がなかったというが、2001年の冬、国立ロシア美術館の館長へ手紙を書き、その翌年の春、サンクトペテルブルグへ作品の借用交渉に行った。「こういう絵だったんだな。薄い塗り方で上手に色を重ねている。透き通るような透明感がある」──展示室に立った五木田氏は思った。
道標は《ポンペイ最後の日》
イヴァン・コンスタンチノヴィッチ・アイヴァゾフスキーは、1817年にロシア帝国(その後ウクライナ、現在ロシアが侵攻中)の黒海に面したクリミア半島の港湾都市フェオドシヤに、兄と3人の姉の末っ子として生まれた。アルメニア人で商人の父と母は刺繍職人で貧しい家庭ではあったが、豊かな陽光が降り注ぐ海と船を見て育ち、幼い頃から絵を描いたり、ヴァイオリンを弾いていた。
フェオドシヤの市長がアイヴァゾフスキーの絵の才能を認め、援助によってフェオドシヤの建築家ジェイコブ・コッホのもとで学んだ。1833年国から奨学金を得て、首都ペテルブルグの美術アカデミーへ入学。風景画家マクシム・ヴォロビョフ(1787-1855)のクラスに入るが、海洋画についてはフランス人画家のフィリップ・タヌール(1795-1878)に水の描き方の基礎を学んでいる。そしてアイヴァゾフスキーは、国際的に名声を得ていたロシア人画家カルル・ブリュローフ(1799-1852)のロマン主義を代表する大作《ポンペイ最後の日》(1833、国立ロシア美術館蔵)に感動し、この作品を道標として歩んだという。
1836年、アカデミー内の展覧会に作品を出品したタヌールとアイヴァゾフスキー。銀メダルを獲得したのは生徒であるアイヴァゾフスキーで、教師であるタヌールはマンネリズムと非難される。これはアイヴァゾフスキーが教師の許可なしに展覧会に出品したために起こった状況で、タヌールが大きな不満をもつことになった。タヌールは皇帝ニコライ1世(1796-1855)へ苦情を伝え、アイヴァゾフスキーの画家としての第一歩がくじかれる。皇帝は、アイヴァゾフスキーの作品を会場から撤去するよう命令。しかし、皇帝の子供たちに絵を教えていた戦闘画を描く画家アレクサンダー・ザウアーヴァイト(1782-1844)は、アイヴァゾフスキーを擁護。彼にアイヴァゾフスキーの作品を見せられた皇帝はその絵を購入する。さらに皇帝はアイヴァゾフスキーに息子のコンスタンティヌスと一緒に夏の旅行にバルト海へ出るよう命じた。
海軍総司令部の画家
1836年、アイヴァゾフスキーはアカデミーから派遣され、バルト海にあった帝政ロシアの主力海軍部隊バルチック艦隊に同行し戦闘記録としての海戦画を描いた。1838年にはアカデミーで金賞を獲得、外国留学の特典を得るが外国へは行かずに、故郷クリミアを巡り、2年間にわたってケルチやヤルタなど黒海沿岸の風景を描いていた。アカデミー卒業後はアカデミーの卒業生数人と一緒にイタリアへ留学。その中には東京・神田のイコライ堂を設計したミハイル・シチュールポフ(1815–1901、ロシア工科大学教授)がいた。イタリアで描いた風景画では、世界遺産に登録されているアマルフィとヴェネツィアの風景が人気となった。
1840年から1844 年にかけ、留学中にドイツ、フランス、スペイン、オランダへ行き、船旅の途中で激しい嵐に見舞われ、死亡記事が新聞に掲載されたこともあったが、その危険な体験が作品に反映されていった。外国生活の間に、記憶に基づいて描写することを学び、1844年に帰国した。その年パリで開かれた展覧会に出品すると金メダルを受賞、アムステルダムでもアカデミー会員の称号を受けている。
1845年には探検家としても有名なフョードル・リトケ海軍大将とともにトルコ、ギリシアなどを巡り、帰国後すぐペテルブルグ美術アカデミーの会員となり、皇帝ニコライ1世から「海軍総司令部の画家」の資格を与えられた。翌年、故郷のフェオドシヤへ戻り、アトリエを設けて制作を開始する。1847年ペテルブルグ美術アカデミーの教授に就任。1848年ロシア軍の参謀医師として勤務していた英国人の医師の娘と結婚、4人の娘が誕生する。1850年33歳、大作《第九の怒濤》を11日間で完成させた。
制作活動のかたわら、1853年から56年にかけては、クリミア戦争に画家として従軍もした。1857年フランスのレジオン・ドヌール勲章を受章。1865年にフェオドシヤに美術学校を開設し、1871年には考古学博物館を、1880年には地方としては国内で初めての美術館(現I.K.アイヴァゾフスキー記念フェオドシヤ美術館)を創設した。
しかし、結婚生活は続かず、1877年教会に離婚嘆願書を出して終わる。65歳になったアイヴァゾフスキーは、1882年フェオドシヤの商人の若い未亡人と再婚して地中海の国々へ旅に出る。ロシアでもっとも有名な芸術家のひとりとなったアイヴァゾフスキーは、故郷フェオドシヤの発展にも尽力し、港湾施設の整備や鉄道敷設の支援を行なった。1897年80歳、ロシア皇帝の最高勲章のひとつ「聖アレクサンドル・ネフスキー勲章」を授与される。1900年新作に着手したが、完成することなく、フェオドシヤで睡眠中に突然この世を去った。生前に120以上の展覧会に参加し、6,000点におよぶ作品を残した。享年82歳。墓石には「人間として生まれながら、不滅の記憶を残した」と刻まれている。明確でわかりやすく、感動を伴うアイヴァゾフスキー芸術は、楽天主義に満ちており、大衆に支持された作品の根底には、ロシアの自然に対する画家の心の躍動があった。
【第九の怒濤の見方】
(1)タイトル
第九の怒濤(だいくのどとう)。英題:The Ninth Wave
(2)モチーフ
海、波、空、太陽の光、雲、船のマスト、人。
(3)制作年
1850年。33歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦221×横332cm。
(6)構図
空と海の上下二分割で、波が右手奥から左手手前へ寄せてくる斜めの構図。
(7)色彩
多色。明暗の柔らかな中間色が主役で、大別するとピンク、オレンジ、エメラルド・グリーンの3色が主調色。画面上部に暗いピンクとグレー、中部に明るいオレンジと黄色、下部にエメラルド・グリーンと白を用いて、空の暖色系と海の寒色系がコントラストを成す。また近景の波は深い緑、中景の波は明るい緑、遠景の波は明るいオレンジとピンクとグレーに分けている。
(8)技法
油彩画。白い下地を塗り、薄く油絵具を何層も重ねて描き、透明感を出している。小さく描かれた船員たちだが、顔や服装も克明に描き、それぞれに異なる動作をバランスよく描出。水をリアルに描くテクニックは卓抜で、特に波や海の泡を背景にした光の使い方は秀逸。11日間で完成。
(9)サイン
画面下の倒れて浮かぶマストの左端に濃い赤茶色で「Айвазовский 1850」と署名
。(10)鑑賞のポイント
船乗りたちの伝説によると、9番目に来る波は、もっとも激しく、もっとも破壊的な波であり、その試練を乗り切ると天の助けが必ずあるという。第九波は危険と災害の同義語。その第九の波が刻一刻と迫るなか、夜の闇を破って希望の光が射し始めた。人間の最期なのか救出されるのかというドラマ性と、心地よい色彩で調和のとれた構成が相まって、絵の前に立つ者を感動へと誘う。かろうじて船のマストの残骸に6人がしがみつき、生き延びたいという思いが、荒れ狂う海を乗り越えていく。マストの上から波に飲まれそうな仲間に向けて、必死に振るスカーフの赤が、海の緑に映えてひときわ目を引く
。「生きろ」と見る者の心に人間、人類、生命の勝利への確信を抱かせる。空と海、闇と光、朝と夜のように、叙事詩が叙情詩と、悲劇が希望と、人間が自然と融合されている。海洋画家アイヴァゾフスキーの代表作であり、19世紀のロマン主義と写実主義を併せもつ記念碑的作品。1898 年に開館した国立ロシア美術館の最初のコレクションとなり、切手やポストカードなど、広く国民に親しまれている。永遠の流れのなかのいまこの一瞬
《第九の怒濤》について五木田氏は「アイヴァゾフスキーが、フランスのロマン主義の巨匠テオドール・ジェリコー(1791-1824)の《メデューズ号の筏》(1818/19、縦4.91×横7.16m、ルーヴル美術館蔵)を見た可能性はあるが、自分の絵を積み重ねていったプロセスのなかで、架空の情景をひねり出して辿り着いた風景画だと思う。人間の命が助かるか助からないか、というドラマ性がロマン主義的で、波の描き方は写真的なスーパーリアリズム、ロマン主義と写実主義の両方が存在している」と語る。
「一瞬の光景を描いたというよりは、映画の一シーンのような感じがする。この瞬間になるまで乗組員たちはどういう時間を過ごし、そしてこの後、どうなっていくのか。時間の変化を想像させるものがある。二次元の平面の世界だが、複雑で重層的、永遠の流れのなかのいまこの一瞬のような深みがあり、絵の前で佇むことができる作品。また、歴史画風に壮大なテーマと見なして、ドラマチックに描くためにはこの大きさが必要だったのだろう。絵の前に立つと、交感神経を刺激され、アドレナリンが分泌されるような不思議な感覚にとらわれる」と五木田氏。
そして「絵画は視覚化された精神、文学は言語化された精神であり、優れた画家と詩人のみが目に見える形で精神を表現することができる。アイヴァズフスキーはそれを達成した画家だ。絶望ではなく希望、心の束縛ではなく精神の自由が《第九の怒濤》のテーマであろう。『人生において、大きな障碍を避けようとするとき、人はその大波に飲み込まれ、勝利することはできない。向かってくる大波に正面から全力で挑むとき、新しい活路が開けるものだ。さあ友よ、勇気と希望をもって、前進せよ』(図録『第九の怒濤展』p.39)と、アイヴァゾフスキーが永久不変のメッセージを送っている」と五木田氏は語った。
五木田 聡(ごきた・あきら)
イヴァン・アイヴァゾフスキー(Ivan Aivazovsky)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2024年1月