アート・アーカイブ探求
雪舟《秋冬山水図(冬景)》 東洋的視座とオリジナリティ──「島尾 新」
影山幸一
2009年02月15日号
接待交渉係
雪舟は1420年(応永27)岡山県(備中)に生まれている。「雪舟」は道号(字・あざな)、「等楊(とうよう)」は法諱(ほうき)。最初にもらうのは諱(いみな)の方で、字は一人前になるとお師匠さんからもらう。もっとも雪舟の場合には自分で名乗ったもの。絵画は、如拙に私淑し、周文に学ぶ。禅宗の師は京都・相国寺の春林周藤(文筆の人)。雪舟は出家して僧侶となり、絵の才能が認められて画僧になった。涙でねずみを描いたという画聖雪舟だが、都の京都から地方の山口へ、大内政弘のスタッフとして、交渉や接待にもあたっていたと島尾氏は言う。「画家は絵を描くと同時に、写真のない時代のヴィジュアルな記録係でもある。また、書画は交渉や宴会のつきものでもあった。中国というのは文人の国、政治家は基本的に文人である。絵は相手へのプレゼントや記念品にもなるし、相手に画賛を書いてもらうきっかけにもなる。それを基にネットワークを広げたり、交渉をスムースにしたりする。雪舟もそういう場にいたはずだから、付き合いが下手では務まらない」。ここに人間雪舟を身近に感じることができる。島尾氏は《秋冬山水図(冬景)》について制作目的はわからないが、有力者の依頼によって雪舟がしっかり描いた作品と見ている。また、空想の山水画であると同時に線と面による一種のデザインで、抽象と具象のはざまにあるが、日本人の趣味ではなく、室町時代の人にはわからなかっただろうと。ただ当時からこの絵が特殊だったにせよ、雪舟は生きている頃から有名だったらしく、死後も桃山時代には第一次雪舟ブームがあり、以降雪舟は現在まで継続して有名なアーティストである。では、戦後この絵がなぜ有名になったのか。その理由を島尾氏はサイズ(47.8×30.2cm)であろうと、山下裕二(明治学院大学教授)の「縦横比がちょうど1ページに収まりがよい」を例に挙げる。近代サイズというのか、A4やB5など見慣れた印刷サイズに収まりがいいのだ。またモノクロというインパクト、山と川という自然が広告メディアの絵柄としては扱いやすいことも一因しているだろうと言う。実際切手(国宝シリーズ, 1969)や長野オリンピック(1998)のポスター、教科書など国家的事業の印刷物に雪舟の作品が使われ、この絵を目にすることは多い。
雪舟の遺伝子
「水墨は、油画というのと同じで、もともとは技法の名前であってジャンルではない。水墨画と一般にいわれるようになったのは戦後のこと。中国では水墨で、日本では唐絵というのが近かった」と島尾氏は解説する。《秋冬山水図(冬景)》はモノクロで視覚的に印象が強いが、色のある水墨画も数多いそうだ。《秋冬山水図(冬景)》が描かれたのは雪舟60歳代後半から70歳代前半と島尾氏は推定している。また雪舟は1506年(永正3)頃、87歳で亡くなったと伝わるがこちらも定かではない。島尾氏によると、古い文献に画家の記録が増えるのは応仁の乱(1467~1477)の時期。画家が社会の表舞台にだんだんと現われてくるらしい。雪舟は中国の南宋時代(1127~1279)の諸大家や明時代(1368~1644)の浙派(せっぱ:明代の浙江地域を拠点とした職業画家による画派で技巧主義的な画風)など、多様な様式学習を経て、雪舟自身の作風を確立していった。伝范寛(はんかん)の《雪景寒林図》(天津芸術博物館蔵)を《秋冬山水図(冬景)》の遙かなる源流とみる島尾氏は、范寛、夏珪(かけい)、雪舟という画家の遺伝子が伝わってきた流れの中で、大地、水、光、雲、霞など、世界の基本をなす要素を画面に描き入れつつ、雪舟は描きたいものを描ききったと見ている。構築的な空間構成、強調された輪郭線、また強い筆致による簡略化された皴法(しゅんぽう:墨のタッチにより岩石や山岳の凹凸感・実在感を表わす手法)に雪舟らしさが見出せる。しかし雪舟らしさを感じることはできても、雪舟の造形原理を体得するのは難しく、未だ雪舟様式を引き継いだ者は誰一人としていないと、島尾氏は言った。
【秋冬山水図(冬景)の見方】
(1)題名
明治時代には《夏冬山水図(冬景)》と呼んでいた。作品の題名は後世の人がつけたものが多いので重きはない。
(2)モチーフ
山、川、木、岩など冬の自然の風景。特に山は万物の根源である、気のエネルギーに満ちたところとして描かれている。絵はモチーフだけでなく、まずは全体を見ることだ。
(3)形式
この絵は、現在は秋景と冬景の二幅しか残っていないが、元々四季山水図として四幅で一組だったと考えられる。もし二幅対の作品であれば“双幅”と呼ぶことになる。いずれにしても離れている絵がつながっているようにも見える「離合山水図(りごうさんすいず)」である。その全体を見てもいいし、一幅だけを見てもいい。
(4)構図
線が生み出すパワーを散りばめながら、画面を平面構成している。垂直の太い線と左下の太線、このボキボキした線の呼応が、画面に緊張感を生み出している。イメージソースは夏珪(かけい)に借りているが、垂直に上へ伸びて消えていく力強い線、右上の巨大な岩、画面下部にアクセントのように置かれた濃い墨の塊、「カメラの絞りのような」不思議な画面構成、荒々しい筆致などは雪舟独自の表現である。
(5)線
線は水墨画の基本。線の方向性、筆致の活かし方で多様な動きを出している。特に中央に真っ直ぐに引かれた巨大な岩の線が印象的である。
(6)画材
墨と紙と筆。墨は炭素だが、粒子の大きさや含まれる不純物、また経年変化によって墨色に微妙な違いが出てくる。また墨は、トーンや濃さ、線の強さなどで出る引っ込むといった奥行き、墨の重みを表現できる。水墨は、墨だけで描かれたモノクロームの絵画ではなく、青や緑など色のついた水墨もある。
(7)技法
水墨は自由な世界だが、一方では高度化された世界でもある。モチーフを記号化する水墨画のルールに従い、2, 3本の筆を駆使して《秋冬山水図(冬景)》は描かれたのだろう。線とトーンでイメージを作っている。
(8)制作年
不明。雪舟60歳代後半から70歳代前半と思われる。
(9)印章
「雪舟筆」のサインの後に、最も多く使われたという「等楊」の白文方印(はくぶんほういん:文字が白で四角形の印)が押されている。
(10)国宝
1936年(昭和11)京都・曼殊院(天台宗の門跡寺院)から東京国立博物館が入り、1953年(昭和28)に国宝に指定された。1974年(昭和49)に修理され、表装裂、箱ともに新調。雪舟にはこの作品のほかに、《天橋立図》(京都国立博物館)、《山水長巻》(毛利博物館)、《破墨山水図》(東京国立博物館)、《慧可断臂図》(斉年寺)、《山水図》(個人蔵)と6つの国宝がある。国宝は文化財保護のためであって、価値付けではない。
(11)鑑賞
床の間はまだできていない時代で、絵は来客時など壁などに掛けて見せたのだろう。鑑賞者は、絵を外からだけではなく、描かれた人の視点に入り込んで見、また感じる。このような東アジアの絵画世界は、見る人が絵に入って自由に想像することを許すものである。「私が描いたように見ろ」という西洋の見方ではなく、絵は描く者と見る者の間に成り立っている。評価基準のフィルターを取り除いて、リラックスして素直に絵に向かい合うことだ。