2021年07月15日号
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アート・アーカイブ探求

吉原治良《黒地に赤い円》──無限に複雑なイメージ「乾 由明」

影山幸一

2009年08月15日号

人のまねをするな

 吉原治良は1905年大阪の植物油問屋の次男に生まれた。9歳で兄を、11歳で母を亡くしている。15歳頃には山本鼎の『油絵の描き方』を手本に独学で油絵を学び、17歳でセザンヌに心酔し、ゴッホの《ひまわり》に強烈な衝撃を受けた。22歳頃、人生のなかで最も影響を受けたというパリから帰国した画家・上山二郎と出会う。23歳の時に、大阪朝日会館で開催した初個展では《パパイヤと鰯》《水族館》など「魚の画家」として注目を集めた。関西学院研究科を退学して実家の吉原定次郎商店に入社、24歳で奥田千代と結婚した。この頃上山を介して藤田嗣治と出会い、吉原の作品に見られる他者からの影響を、藤田に厳しく指摘される。オリジナリティーやパーソナリティーの重要性を認識し、絶対に模倣をしないことが吉原生涯の信条となった。
 乾氏は、吉原についてこう語っている。「人間として非常に鋭い人でした。厳しく清潔で心の広い人柄、大変な人でした。鋭敏な感性と明晰な知性を備えた画家で、特に人を見る眼が鋭かった。だからこそ具体はあれだけの作家を集めて、あれだけの活動ができたのだと思う。無口で取っ付きにくい人、近付き難い人ではあったが、心優しい人だった。ずばずばっとものを言うが親しくなるといい人、だから人が集まってきたのでしょうね。具体の若い連中はみんなピリピリとして吉原さんを怖がっていたが、めちゃくちゃに見えてもいい作品と悪い作品があると、吉原さんは連中の作品をきちんと見て短い言葉で鋭く批評していた」。
 また、絵画にはこだわっていたようだ。「人のまねをするな。絵画のスタイルを全部捨てろ。絵画のスタイルそのものをぶち壊せ。自分のものを作り出せ」ということだったと、乾氏は当時を振り返る。「具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している」(1956「具体美術宣言」の一節より)という「具体」を通して吉原の活動は過激なところまで行ったが、日本の画壇、特に東京からは無視されていた。「グタイピナコテカ」で開かれる2カ月に一度の展覧会も関西のいつもの仲間ばかりだったと言う。1950年代には「具体」に限らず、実験工房や九州派といった前衛的な芸術活動が起きている。

*:東貞美、伊勢谷ケイ、今井祝雄、今中クミ子、上田良子、上前智祐、浮田要三、大原紀美子、岡田博、岡本一、小野田實、金山明、菅野聖子、聴濤襄治、喜谷繁暉、木 梨アイネ、坂本昌也、嶋本昭三、白髪一雄、白髪富士子、鷲見康夫、関根美夫、田井智、高崎元尚、田中敦子、田中竜児、辻村茂、坪内晃幸、猶原通正、名坂千吉郎、名坂有子、船井裕、藤川東一郎、堀尾昭子、堀尾貞治、前川強、正延正俊、松谷武判、松田豐、向井修二、村上三郎、元永定正、森内敬子、山崎つる子、吉田稔郎、ヨシダミノル、吉原治良、吉原英雄、吉原通雄など。

書と円

 吉原は、円について書き残している。「このところ円ばかり描いている。便利だからである。いくら大きなスペースでも円一つでかたがつくということは有難いことでもある。一枚一枚のカンバスに何を描くかという煩しさから解放されることでもある。あとはどんな円が出来あがるかということである。あるいはどんな円をつくりあげるかということである。たった一つの円さえ満足にかけないことをいやほど知らされるはめに陥ることも白状しておこう。一本の線も完全にひけないということはそこから出発しなければならないことでもある。そして、やはり一つの無限ともいうべき可能性がこんなところに底なし沼のようなかたちでとりのこされてある。私が自分の描いた円と向かいあっていることは自分自身との対話を意味する」(『吉原治良展』パンフレット1967, 東京画廊)。
 国際的にも通用する簡潔な形態の円。「日本的な表現にならないように注意していたようだ」と乾氏が指摘するように、吉原が目指していたのはオリジナリティーにちがいない。禅宗との関係などをいわれるが、どちらかと言えば吉原は合理的で西洋的な感覚であり、日本風の気分や味などを、意識的に拒否していたと言う。ただ吉原は、臨済宗の僧侶で書家の中原南天棒(1839-1925)の円相の書に魅せられていたようだ。1953年頃から墨人会の森田子龍ら前衛書家たちと交流があり、書をヒントとした自由な線の新しい絵画を目指した。また当時起こった日本独自の近代画を構築する議論「近代画論争」が、吉原を刺激していた。吉原が無背景に一つの「円」を描き始めたのは、1962年制作の《UNTITLED》(東京都現代美術館蔵)といわれ、とりわけ1965年の第16回具体美術展では150号2点の「円」《黒地に白》と白地に黒の《作品》を自信作として出展していたと「具体」のメンバーである元永定正は雑誌『みづゑ』(No.819, 1973)に記している。

【黒地に赤い円の見方】

(1)モチーフ

円。40年の画歴を重ね、自然とだんだん円の形になってきた。禅の円相とは表現が異なり関係ない。

(2)構図

西洋的なバランスや構図を破ろうとして、画面一杯に描いたのではないだろうか。

(3)色

墨で描いたデッサンをもとにした白黒の円作品が多いが、赤の円は少ない。既製品の絵具を使っていると思うが、多少色を混ぜて独自の黒と赤をつくっているかもしれない。

(4)制作年

1965年。吉原も「具体」も活動が盛んな時期の作品である。

(5)技法

筆とペインティングナイフでゆっくりと慎重に描いている。マチエールがあり、タッチが画面の表情をつくっている。画面の凹凸は少なくフラット。キャンバスに下塗りしている可能性もある。絵具がキャンバスにしっかりとくっついているとおり、画肌がすこぶる堅牢で絵具は塗り込むという感じだった。まず吉原は墨で和紙や洋紙にデッサンをする。そこから面白い絵を選び出し、それをキャンバスに鉛筆で下書きをしてから、周辺の色面との関係を図りつつ、時間をかけてすみずみまで神経を行きわたらせて丹念に描く。

(6)サイズ

縦181.5×横227.0cm。吉原製油の古い倉庫を活用した展示館「グタイピナコテカ」は、梁のある土蔵を改装したとてもユニークな空間だった。外側はそのままにして内側を美術館にした独特の空間は重厚で、それに対抗する強い絵として大きなサイズが必要だったのだろう。

(7)画材

アクリルとキャンバス。円には油彩で描かれた作品もある。

(8)表現内容

メッセージはなく、純粋に色と形を表わしている。内へ凝縮する力と外へ拡散する力とが豊かな均衡を保ち、充足した調和のあるフォルム。沈黙した緊張という画調は、静と動を併せも持っており、単純明快な線や円の内部にひそむ無限に、複雑なイメージを発掘したものと言える。清潔なリリシズム(抒情性)と孤独感にあふれたアンチーム(親密)な世界を持っている。

(9)季節

季節感は、拒否してきたと思われる。

(10)鑑賞時の光

「グタイピナコテカ」の内部は、白壁で蛍光灯に、白熱灯の灯りが少し配置されていた明るい空間だった。

(11)鑑賞の順番

全体を見て、そのイメージを記憶してから細部を注視し、改めて全体のバランスを見直す。強い絵で引き込まれていく感じがする。

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