アート・アーカイブ探求

萬鉄五郎《裸体美人》──縄文的斜めの前衛「千葉瑞夫」

影山幸一

2010年04月15日号

八木コレクション

 ある時、千葉氏が尊敬する盛岡出身の画家・奈知安太郎(1909〜1986)が、奈良にいる八木正治という萬作品のコレクターを教えてくれた。八木氏は萬が亡くなった翌年の1928年、大阪の朝日新聞社のホールで萬の遺作展を見て愕然とした。「日本にもこんなすごい絵描きがいたのか」と。そして大阪に萬の美術館を作ろうと考え、萬の作品を積極的に収集していった。ところが、八木家の人々が八木氏の作品収集活動について親族会議を開き、準禁治産者として八木氏の行動を止めてしまう。八木氏が所蔵していた多くの萬作品は萬家に返され、《裸体美人》や《もたれて立つ人》のほか4、5点は国へ寄贈(1954年度)された。
 千葉氏は、やっと連絡が取れた八木氏と会った。岩手国体での展覧会の説明をし、八木コレクションを展示したい旨を伝えた。八木氏は手元に残しておいた萬の作品を一点持って来て、そーっと千葉氏の前に置いた。絵具の剥落したぼろぼろの《木の間から見下ろした町》だった。千葉氏はそれを見てどうしようもないくらい感動した。「わぁーこんなすごい絵を描いたのが萬なんだ。なんとしてもこの絵は借りて帰らなくてはいけない」。その様子を八木氏が見て、任せてもいいと思ったのか、結果として八木氏が残していた萬の作品と、萬家へ返した作品も含めて、50点ほどの作品が選ばれ、岩手国体の記念展『萬鉄五郎と岩手の作家たち』を開催することができた。

不安定という魅力

 萬は1885年(明治18)11月17日、土沢の農海産物を扱う回送問屋の資産家の家系に生まれ、土沢尋常小学校の新田浅之助校長に初めて絵(水墨画)を習った。16歳の時に大下藤次郎の『水彩画の栞』を読んで大下に作品を送り批評を受けている。1907年22歳で東京美術学校に入学、27歳でヒュウザン会(後フュウザン会)に参加し、32歳で二科展にキュビスム風の作品を出品、37歳で春陽会設立に参加、画会「鉄人会」を起こして南画の研究を行う。1927年(昭和2)5月1日神奈川県で死去、41歳という若さだった。
 《裸体美人》は、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科の卒業制作であった。《自画像》とともにつくられたが、2点はセットではなく《自画像》は課題を与えられ、《裸体美人》は自由意志で描いたもので各々独立した作品である。在学中は優等生の萬だったが、その評点は72点と低く、本科卒業生19人中16番。萬にとっては反アカデミズムの表現であり、大学の教授陣や画壇に対する決別と、前衛であることの宣言だった。萬は卒業式に欠席し、画家の本道を貫く決意で教員免許状を受けなかったという。
 《裸体美人》のモデルとなったのは、学生結婚した妻よ志といわれている。1978年92歳で死去したよ志から千葉氏は直接この絵のことを聞いていた。「家の戸板を外して斜めにして、そこに青蚊帳を敷いて、その上に寝かされた。斜めになっているからずるずると落ちて行く。青蚊帳だから肌に食い込んで痛い、それを何日もさせられた。本当に辛い思いでした」。きれいな人だったというよ志。萬は、滑り落ちるまいと頑張っている妻の姿を繰り返しデッサンしており、エスキス(下絵)がたくさん残されている。
 千葉氏はこの周到に描かれた《裸体美人》を初めて見た時「おもしろいなぁー」と思った。その後、萬に引き込まれてから改めて見ても「やっぱり凄い絵だなぁ」と。絵全体、色も形もあるが、特に構図が特徴的であり、“斜めに”というところがおもしろいと言う。土沢の地形は、両側の河岸段丘が一つの特徴で、少し歩くと上がったり下りたりと坂道が多い。萬の作品にまっ平に寝ている《ねて居る人》はあるが、萬は不安定なところにおもしろ味を感じていたのではないか、と千葉氏は言う。平らに寝ているのではなく、立っているわけでもない。浮遊感がある不思議な斜めの感じ。不安定なところがひとつの魅力だ。萬には、人物に限らず静物や風景にも不安定な形がたくさんあるが、この絵がもっとも典型である。

【裸体美人の見方】

(1)モチーフ

人体。絵画を実現させる媒体としての全身像。このポーズは郷土芸能の神楽に見られるユーモラスなポーズのようだ。赤い雲、極度に曲がった手、大きな草(画像参照)など、不思議な形態と喜劇的な状況設定が特徴。



赤い雲《裸体美人》部分(左)、曲がった手《裸体美人》部分(右)、大きな草《裸体美人》部分(下)

(2)構図

寝ている人を立っているように配置した創意ある個性的な構図。真ん中にへそが位置しているが、人体は浮いているようで不安定。赤い雲は意味不明だが、ここにあることで画面全体を引き締めている。縦画面は人体がつくるジグザグとした形を効果的に見せる。

(3)色

補色である緑と赤が強調され、色を対比。土沢の郷土芸能である神楽の鳥兜などの色彩。

(4)技法

マチスに見られる明るい色彩と簡略化された表現など、フォービスムを日本で最初に採り入れた記念碑的な作品。草原の表現にゴッホの筆触など後期印象派の影響が見られる。

(5)サイズ

162×97cmの100号(当時50号が普通)。

(6)制作年

明治45年(1912)。制作は前年あたりからか、大正時代の絵ではない。

(7)画材

油絵具。

(8)音

途切れずに続く、弱い風の音。

(9)季節

夏。遠い山に雪が残っているが、実際土沢の舘山からは夏でも奥羽山脈の雪が見える。

(10)鑑賞

色や形のおもしろみもあるが全体を鑑賞する。特に構図の取り方は天性のもの。人体を傾斜のある草原に寝かせた、斜めな 不安定さが絵画に空間を作り出している。

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