移植と受容
日本の近代洋画の起点となる絵画について田中氏に伺ってみた。意外にも明治以前に遡り18世紀の中頃、江戸時代の司馬江漢の絵なのだと言う。幕末明治の高橋由一の《鮭》が起点になると思っていたが、それは銅版画や油絵という技法からのアプローチで、透視遠近法や陰影法といった描写法からのアプローチでは司馬江漢、あるいはさらに100年ほど遡り眼鏡絵にたどり着くそうだ。
では日本の近代洋画の草創期に黒田の存在意義は何であったのか。「功としては明治の時代に新しい美術とその思想を日本にもたらしたこと。罪としては、土方定一が黒田を否定的にとらえたように、中途半端だったこと。しかしそれは土方が〔移植〕思想だからだ。西洋画を日本に植え替えていないと見たことだ。印象派の筆触分割の技法を採り入れず、科学的でもなく、写実主義と印象主義との中間的な作風を日本に紹介した。黒田が印象派をいかにもたらしたのか、という点で言うと確かに《舞妓》の方がいい。《湖畔》は〔移植〕からは影が薄い。でも〔受容〕という視点では黒田の独自性が出ている。このぼわーとしたところが、印象派を昇華して日本的に表現されている。〔受容〕は受け入れる側の主体性が出てくると思う」と田中氏は語っている。
二面性
黒田の《湖畔》のブルーは涼しく感じる。しかしよく見ると画面半分を占める浴衣姿の婦人は斜めに腰かけて思考中なのか、硬い表情で水平線上に遠くを見つめ、画面全体は靄がかかったように湿潤な大気が表わされており、決して爽快な絵ではなかった。うっすらとフラットな筆使いに、紫色の微妙な色合い、黒い髪は光を吸収し、萩の花が描かれた白い団扇は光を反射する役割を果たすなど、外光派と呼ばれる黒田の光の描写はモネの「光の奥義」とは異なる楚々とした日本の光を感じる。
幕末から明治の洋画界を孤軍奮闘していた高橋由一(1828〜1894)と40年近くの年齢差がある黒田は、高橋の時代とは環境が異なっていた。1876(明治9)年に開校した工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバルビゾン派風の作品が旧派や脂派として主流をなしていた中で、黒田は新派または紫派★2と言われる仲間があり自由であったようだ。しかし、アカデミズムの制度を築く公的な指導者としての役割と、リベラルな個の表現者としての画家、この二面性が黒田特有のものであると田中氏は述べている。
1907年黒田は文部省美術展覧会(文展)の開催に尽力、1919年不振に陥った文展を解消するため、帝国美術院が設けられ、黒田が院長の要職に着く。その一方1920年には貴族院議員となり、政治家としても多忙となった。意外にも農村の労役を神聖に描いたバルビゾン派のミレーが好きだったという黒田は、1924(大正13)年7月15日、58歳で亡くなってしまった。東京・麻布の長谷寺に埋葬されている。画家として長命であればどのような絵を描いたのだろうか。「受容」の視点からその絵を見てみたかった。
黒田没後の1927年、落成したばかりの東京府美術館で開かれた「明治大正名作展」で、《湖畔》は《避暑(湖辺婦人)》という題名で展示され、広く知られることになる。黒田は遺産の一部を美術奨励事業に提供することを遺言したため、遺言執行人樺山愛輔は東京・上野公園内に美術の基礎研究機関として、1928年に黒田記念館を開設。1930年には同館に帝国美術院附属美術研究所が設置された。このとき寄贈された《湖畔》は、初めて「湖畔」という題名として台帳に記載され、今日に至っている。
1977年から毎年1回、日本のどこかで黒田清輝展が開催されていると田中氏が教えてくれた。今年も7月17日から岩手県立美術館で「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」が開催され、《湖畔》も出品される。毎回図録の表紙やリーフレットには《湖畔》が定番のように印刷されるのだそうだ。黒田と言えば《湖畔》という方程式は出来上がっている。
★2──黒田清輝を中心とする明るい色調の外光派風の作品とその画家たち。新派、南派、正則派とも呼ぶ。
主な日本の画家年表
画像クリックで別ウィンドウが開き拡大表示します。
田中 淳(たなか・あつし)
(独)国立文化財機構東京文化財研究所企画情報部長。1955年東京生まれ。1983年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。同年東京国立近代美術館研究員となり、1994年東京国立文化財研究所に異動、2001年(独)文化財研究所東京文化財研究所美術部黒田記念近代現代美術研究室長を経て、現在に至る。所属学会:美術史学会, 明治美術学会。主な編著書:『新潮日本美術文庫35 萬鉄五郎』(新潮社, 1997)、『画家がいる「場所」──近代日本美術の基層から』(ブリュッケ, 2005)、 『黒田清輝《湖畔》美術研究作品資料第5冊』(中央公論美術出版, 2008)など。
黒田清輝(くろだ・せいき)
明治の洋画家、教育者、美術行政家。1866〜1924。鹿児島市生れ、幼少時に上京、薩摩藩士で後に子爵となった伯父黒田清綱の養嫡子となる。法律の勉強のため、17歳(1884年)でフランスに留学。翌年、日本人画家の通訳として、フランス人画家ラファエル・コランを知る。20歳のとき、養父の反対を押し切って画家に転向。コランに師事し、アカデミックな写実主義の伝統に外光表現を加味した印象派的な視覚を学ぶ。パリから約70キロの小村グレーに滞在し、《読書》《赤髪の少女》など制作。9年後(1893年)に帰国し、日本の洋画界に新派として迎えられ、「白馬会」を結成(1896年)。同年、東京美術学校に新設された西洋画科の指導者となる。1900(明治33)年のパリ万博に《智・感・情》《湖畔》を出品、その他の代表作に《昔語り》(1898年完成、1945年焼失)や《舞妓》。1910(明治43)年には、洋画家初の帝室技芸員や、貴族院議員、帝国美術院長など美術行政家として活躍。
デジタル画像のメタデータ
タイトル:湖畔 。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:黒田清輝, 1897年制作, キャンバス・油彩, 69.0 x 84.7cm, 重要文化財。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:東京文化財研究所。日付:2010.7.10。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop, 7.6MB。資源識別子:4×5カラーポジフィルム (Kodak, 111L)。情報源:東京文化財研究所。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:東京文化財研究所, 東京国立博物館
【画像製作レポート】
《湖畔》を所蔵しているのは東京国立博物館であるが、写真についての窓口は東京文化財研究所の資料閲覧室。東京文化財研究所のホームページにある資料閲覧室から「写真原板使用および所蔵図書等の撮影について(申請方法)」を選択し、「申請書(団体用)」をプリントアウトして郵送する。一週間もせず4×5カラーポジフルム(カラーガイド付き)が届く。代金は1画像3,150円。
フィルムのスキャニングはプロラボへ。300dpi・10MB・TIFF、1枚で1,050円。iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって調整後、画像の色調整作業に入る。モニター表示のカラーガイドと作品の画像に写っているカラーガイドを目視により色を調整し、縁に合わせて切り抜く。Photoshop形式:7.6MBに保存する。モニター表示のカラーガイド(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)は事前にスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN, 8bit, 600dpi)。
額縁に長年はめ込まれていたためか、絵の上下左右の四辺がかすれたように絵具が剥落しているのが確認できた。今回初めて原寸大画像をポジフィルムから製作してみたが、表示モニタにより画像サイズが変化するためスケールを表示して対応した。反射近赤外線画像は、書籍『黒田清輝《湖畔》美術研究作品資料第5冊』からスキャニングして掲載した。実物では見られないこうした研究用画像は作品の新たな魅力を引き出して見せてくれる。
セキュリティーを考慮して、画像には電子透かし「Digimarc」を埋め込み、高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」によって、コピー防止と拡大表示ができるようにしている。
[2021年4月、Flashのサポート終了にともない高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」に変換しました]
参考文献
矢代幸雄『近代画家群』1955.11.18, 新潮社
黒田照子「名作のモデル 〔湖畔〕のこと」『現代の眼』42, p.2, 1958.5, 国立近代美術館
隈元謙次郎「黒田清輝の生涯と芸術『現代日本美術全集16 浅井 忠/黒田清輝』」p.74-p.80, 1973.12.25, 集英社
原田 実『近代洋画の青春像 東京美術選書26』1981.7.30, 東京美術
菊畑茂久馬『絶筆──いのちの炎』1989.4.10, 葦書房有限会社
三輪英夫「黒田清輝 湖畔」『國華』1150号, p.44-p.47, 1991.9.20, 國華社
木村重信「世界美術史 この一点 黒田清輝の〔湖畔〕」『信濃毎日新聞』1994.12.5, 信濃毎日新聞社
図録『結成100年記念 白馬会──明治洋画の新風』1996, 日本経済新聞社
塩谷 純「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展─1 湖畔」『山陽新聞』1998.10.25, 山陽新聞社
井口智子・加藤淳子・歌田眞介・三浦定俊「黒田清輝〔湖畔〕調査報告」『保存科学』第38号, p.137-p.143, 1999.3.31, 東京国立文化財研究所
田中 淳「〔近代日本美術〕史の成立を考えるためのノート─〔名作〕という評価と〔移植〕という言葉」『日本における美術史学の成立と展開』p.335-p.350, 2001.3.31, 東京国立文化財研究所
山梨絵美子「黒田清輝の風景表現とその影響」『日本近代美術と西洋 明治美術学会国際シンポジウム』p.121-p.128, 2002.4.10, 中央公論美術出版
図録『黒田清輝展 鹿児島が生んだ日本近代洋画の巨匠』2002.7, 黒田清輝展実行委員会(鹿児島市・鹿児島市教育委員会・鹿児島市立美術館・南日本新聞社・MBC南日本放送)独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所
橋本 治「ひらがな日本美術史 連載その百六…日本人の好きなもの 黒田清輝筆〔湖畔〕」『芸術新潮』第55巻第7号, 通巻655号, p.138-p.145, 2004.7.1, 新潮社
「〔湖畔〕ここで描いた 箱根・芦ノ湖 黒田清輝の研究家が特定」『朝日新聞(夕刊)』2004.8.31, 朝日新聞社
田中 淳「序論 黒田清輝の生涯と芸術」図録『近代日本洋画の巨匠──黒田清輝展』p.10-p.18, 2004, 新潟県立近代美術館・東京文化財研究所
図録『黒田清輝、岸田劉生の時代──コレクションにみる明治・大正の画家たち』2005, 財団法人ポーラ美術振興財団ポーラ美術館
田中 淳『画家がいる「場所」──近代日本美術の基層から』2005.6.10, ブリュッケ
高階秀爾『日本近代美術史論』2006.6.10, 筑摩書房
Webサイト『黒田記念館』2007(http://www.tobunken.go.jp/kuroda/index.html)2010.7.10, 東京文化財研究所
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所企画情報部編『黒田清輝《湖畔》美術研究作品資料 第5冊』2008.3.25, 中央公論美術出版
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所編『黒田清輝フランス語資料集』2010.3.31, 中央公論美術出版
2010年7月