2020年10月15日号
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アート・アーカイブ探求

伝藤原隆信《伝源頼朝像》秘めた感情と威厳の美しさ──「宮島新一」

影山幸一

2010年10月15日号

似絵

 宮島氏は2005年10月にオープンし、太宰府天満宮と隣接することでも話題を集めた九州国立博物館の設立準備室総主幹と副館長を兼務するという大任を果たし、2006年の定年退職後から、山形市内にある山形大学教職大学院で教授を務めている。これまで国立博物館全4館すべてに勤務してきた唯一の学芸員でもあり、美術史家としてはユニークな存在だ。1946年愛知県に生まれ、今もコーラスを楽しむ音楽好きと言う宮島氏が肖像画と出会ったのは、京都大学在学時の京都国立博物館でのことだった。宮島氏は大学での専攻を決めたもののなかなか入口の見つからない日本美術に苦しみ、卒業論文は墨の線のみで完成させる《鳥獣人物戯画》などの「白描画(はくびょうが)」について書き、また修士論文は「白描画」に関連して、《随身庭騎絵巻(ずいじんていきえまき)》などの「似絵(にせえ)★1 」について書いた。肖像画に属するこの似絵の修士論文の不出来さが、リベンジで「肖像画」へ向かわせたと宮島氏は振り返った。肖像画がすごいとか、ことさらに好きとかではなかったらしい。
 宮島氏は大学院生時代に京都国立博物館で《伝源頼朝像》を見ており、その第一印象を次のように述べている。「よくわからないが、随分納まりのいい絵だなあと思った。でかい絵です。平安時代の絵は画面からはみ出すように描かれていて、鎌倉時代になると納まるようになる。その納まり方が行き過ぎるとつまらないが、非常に画面の大きさと画像の大きさのバランスがいい。細部が見えず全体像の印象しかないが、色はちょっと冷やかなところがあり冷たい印象があった」。

★1──鎌倉時代に宮廷社会を中心に流行した大和絵肖像画で、対象に似せることを目的とした写生的・記録的要素の濃いスナップ写真的なもの。神護寺三像はいずれも像主が亡くなってから描かれており、そこが本来の似絵とは異なる。

鎌倉時代の筆線

 日本で最も古い肖像画は、8世紀の早い時期に制作したとみられる《聖徳太子像(唐本御影)》で、立ち姿に中国の影響が見られる。「日本の肖像画の保有率は高い。中国は意外にも少ない。ある身分以上の人に取っては、必需品だったのだろう」と宮島氏。
 《伝源頼朝像》が制作された鎌倉時代は、高僧の肖像である頂相(ちんぞう)や似絵が盛んに制作され、鎌倉時代を「肖像画の時代」と呼ぶそうだ。これまで頂相は描かれていたが、頼朝のような世俗の人間を描く行為はなかった。人間自身が礼拝の対象となった、人間の精神世界における世界史上画期的な出来事である。その特徴は、美しい筆線にあると宮島氏は指摘している。精細な線による凹凸感や張りつめた線によるスピード感など、多様な表現で容貌を的確に写し出すが、なぜか人物の内面性には無関心なのだと言う。
 《伝源頼朝像》を描いたと言い伝えられている藤原隆信は、一瞬に人の特徴を捕まえる似絵の名手であり、恋多き歌人でもあった。歌人の藤原定家(1162〜1241)は異父弟であり、当代屈指の歌人の家系にあったようだ。隆信は、1142年生まれで1205年に亡くなっている。《伝源頼朝像》の制作年を宮島氏は1226(嘉禄2)年としているので、藤原隆信が《伝源頼朝像》を描くことはありえない。現時点では作者は「わからない」と宮島氏は言った。
 そして《伝源頼朝像》をはじめとする神護寺三像は、後鳥羽上皇(1180〜1239)が鎌倉幕府討幕を謀って敗れた1221年の承久の乱後、幕府方の公家たちが流罪となった天皇たちの怨霊を鎮め、祖先を守護霊とすることを目的に描かせたもの、と宮島氏は考えている。後白河院(1127〜1192)の御所にあたる神護寺境内の仙洞院(せんとういん)に三像が安置されたことがそれを裏づけると言う。《伝源頼朝像》の制作を依頼したのは後高倉院(1179〜1223)の遺志を継いだ北白河院(1173〜1238)と、幕府を勝利に導き、頼朝を義理の伯父にもつ西園寺公経(きんつね, 1171〜1244)の一家と見ており、北白河院による神護寺復興時の1226年を《伝源頼朝像》の制作年と宮島氏は推測している。

【伝源頼朝像の見方】

(1)モチーフ

世俗人物。宮廷の官人の正装である束帯(そくたい)姿の男。冠をかぶり笏(しゃく)を持ち、上着の袍(ほう)は強装束(こわそうぞく)で太刀を付け、畳の上に坐す。

(2)題名

伝源頼朝像。足利直義(ただよし)という説もある。神護寺に関する最古の記録『神護寺略記』には、神護寺の境内にある仙洞院(せんとういん)に、後白河法皇、平重盛、源頼朝(1147〜1199)、藤原光能、平業房の肖像画が安置され、藤原隆信(1142〜1205)が描いたと記されている。また大英博物館に所蔵されている南北朝時代に制作された源頼朝像は、《伝源頼朝像》を元に描かれた。

(3)画家

不明。しかし伝藤原隆信筆と今でも必ず入る。平緒(ひらお)の彩色が13世紀のものであることなど、1205年没の隆信が描いた可能性は乏しい。当時有名人の隆信は貴族で絵は余技、似絵の祖と呼ばれるが残された絵はない。表看板は歌人で歌集などの資料は残っている。

(4)構図

無背景の画面に座った人物が中央に等身大として描かれている。立ち姿の多い中国とは異なり、畳の上に座っている肖像画は日本独自のスタイル。無背景により、直接人に向かうことになる。

(5)色

足元に垂れる平緒の宝石のように美しい複雑な青色や、輝いて見える金色で桐鳳凰を表わし見事(図参照)。薄墨と濃墨で黒色を巧みに使い分けている。


平緒《伝源頼朝像》部分

(6)模様

黒の袍に輪無唐草文(わなしからくさもん)が規則正しく、浮き出て見えるように濃墨で描かれている。

(7)描法

横一文字の笄(こうがい)をもつ垂纓冠(すいえいかん)や精細な平緒の文様、整然とした筆致で描き込まれた袍や表袴など、鎌倉時代の線は素晴らしい。大胆かつデリケートなこの線表現は西洋にはない。繊細で鋭い毛描き線など線によって膨らみや凹みを表わし、その技術は独特。唇など陰影を施さずして線で厚みを表わしている(図参照)。1979、80年の修理時、顔の部分の裏彩色と、太刀の柄(つか)の部分に改変の跡が認められた。


顔《伝源頼朝像》部分

(8)サイズ

143.0 x 112.8cm。巨大な肖像画がつくられたというのは特記すべきこと。

(9)制作年

鎌倉時代。嘉禄二(1226)年と見ている。西洋のルネサンスに先駆け、神護寺が大々的に復興する時期に安置された。

(10)画材

特注品の一枚の絹、筆、墨、岩絵具など日本画の画材。

(11)画風

少しずつ筆を進めて慎重に輪郭を決める大和絵の手法によって、対象に似せて描く似絵に、人物の内面を意欲的に加えようと中国(宋)の理想化を取り入れた。気品と威厳のある肖像画。無背景で定型的、畳に坐しているのが日本的。

(12)音

無音。音のない世界で純粋に対象と対面する。

(13)落款

なし。落款が出てくるのは鎌倉時代の後期であり、それも中国的なものである。当時の日本人は自分が描いたことをあまり主張しない。

(14)国宝

1951(昭和26)年6月、神護寺が所蔵する《伝源頼朝像》《伝平重盛像》《伝藤原光能像》の三幅の肖像画が国宝の指定を受けた。

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