アート・アーカイブ探求

久隅守景《夕顔棚納涼図屏風》軽みの奥深さ──「松嶋雅人」

影山幸一

2011年02月15日号

トーハクの懐

 トーハクにはよく行くが、本館の2階にある研究室には初めて入った。休館日でとても静か。窓やドアのデザイン、歴史を感じる天井の高い空間、薄暗い休日の博物館はコワタノシイ。
 松嶋氏は、1966年大阪市生まれ。現在、東京国立博物館の特別展室長。手塚治虫がいたという大阪の北野高校に通い、金沢美術工芸大学を卒業、同大学院を修了後、東京藝術大学大学院で博士後期課程の単位を取得した。1999年より東京国立博物館の研究員として業務にあたっている。特別展全般を管轄する部署にあって、今は古美術の魅力を一般の人へ伝えてゆくために全方位的に考え、できることは積極的に行なっていくと言う。
 松嶋氏は、中学校から大学時代までバスケットボールをやってきた体育会系の古美術研究家である。学生の頃は、目に入るすべての視覚造形に関心があったようだ。近現代や古美術、アニメーションや映画などの区別はまったくしていなかったと言う。「人生の目標が定まらず、モラトリアム状態が続いた」と言ってのける、トーハクでは異色のキャラクターなのだ。こんな人がトーハクにいたのかと思った。トーハクの懐の広さを知り、何か未来が開けたような気持ちになった。「古美術というよりもエンターテインメント系かも」と、笑いを誘う松嶋氏は、謎の守景について話を聞く最適任者であったように思えた。
 松嶋氏が守景の作品に出会ったのは、大学院の修士論文の時だと言う。金沢にいて何ができるかを考えた時、守景がいた。金沢には守景作品が数本ある。石川県立美術館で守景の代表作のひとつである《四季耕作図》を見させてもらった。そうして修士論文を書いているときに、《納涼図》にも触れた。実物の《納涼図》を意識的に見るようになったのはトーハクに就職してからであった。その時の感想は「汚い絵だな」。400年過ぎているので当たり前なのだが、近世絵画前半の作品は、焼けていたり、汚れていたり、剥落していたり、破れていたり、リタッチがあり、きれいな絵は少ないそうだ。しかし専門家になると目が慣れて、汚れが目に入らないらしい。最近松嶋氏は、《納涼図》を見て絵が痛々しく見えると言った。

加賀で開く

 守景は、生没年や活動した地もよくわからない謎の絵師である。何らかの事情によって、狩野派を破門され、赤柄組という侠客の一党に属したとの伝承がある。晩年は金沢、京都で過ごしたといわれる。17世紀の寛永年間(1624〜45)から、元禄期(1688〜1704)頃にかけて活動し、俗称を半兵衛といい、無下斎(むげさい)・無礙斎(むげさい)・一陳翁(いっちんおう)・捧印(ぼういん)と号した。
 守景の師は、狩野探幽(1602〜74)である。雪舟に私淑していたと伝わる守景は、その傑出した画才が認められ師の名「守信」の一字を譲られて「守景」の画名を称することになる。探幽は徳川将軍家の御用絵師として、画壇に君臨し、計り知れないほどの大きな存在であった。そのなかで、守景は探幽門下の四天王の一人として名が知られていた。また守景は、探幽の妹である鍋と、四天王の一人である神足常庵(こうたりじょうあん)の娘である国をめとった。守景と国との間には、娘の雪(清原雪信)と息子の彦十郎が生まれ、二人とも探幽の門下となった。しかし雪の多感、彦十郎の放蕩や不祥事が、守景を悩ませ責任を取るかたちで狩野派から離れさせたのではないかと思われる。
 御用絵師である狩野派の正当な流れから外れていた人と考えられてきた守景だが、松嶋氏は、守景は狩野派の流儀から一歩も出ておらず探幽の流れにいる人だと言う。田園風俗画家として知られる守景の絵は、町衆や農民のための絵ではなく、将軍や大名のための絵であるのだ。
 守景は、加賀(現在の金沢)の地を訪れ、《納涼図》や一連の《四季耕作図》などの名作を描いたと考えられている。当時の加賀藩は、文化政策で徳川幕府を追い越そうとの気概をもって名工の招聘や名品の蒐集に意欲的に取り組んでいた。守景の気骨と加賀藩の文化風土とが響き合い、加賀の地で守景は画業を開花させたと見ることができる。朴訥とした画風ながらも日本人の心の琴線にふれる高い精神性を打ち出していった。

【夕顔棚納涼図屏風の見方】

(1)モチーフ

風景。家族、月、小屋、夕顔、瓢箪などを用いて調和のある日本の景色を描いている。男は守景の自画像、女は娘の雪、子は彦十郎に見える(図参照)。


家族《夕顔棚納涼図屏風》部分

(2)題名

夕顔棚納涼図屏風。本来名づけはない。夕顔はウリ科の植物で、その実は楕円形、瓢箪はその変種。季節の転回点を予感させる行事である“納涼”は、未来を垣間見るもの、来るべき季節を暗示するもの。

(3)構図

アンバランスな構図。広くとった余白に大きな丸い月と、四角い小屋を対比するよう対角線上に配置。夕顔の曲線表現によって、棚の細い4本の支柱の直線を強調し、また手前から女、男、子どもと身体を接するように描いて画面に奥行き感を与えている。

(4)色彩

墨の黒、唇の朱、葉の青など最小限の色彩。男の襦袢の青色は、後代に描かれたものと思われる。

(5)技法

人物の髪の毛、月、竹竿の支柱、夕顔など、それぞれのモチーフがすべて異なる技法(外隈〔そとぐま〕★1など)の線で描かれており、また余白をたっぷりととり、すっきりと洒脱な趣を画面に与えている。

★1──表わそうとする物の形の外側を濃淡の墨の面で取り囲み、紙や絹の素地の白を積極的に活用するもの。
(6)サイズ

二曲一隻。縦149.7×横166.2cmの大きく正方形に近い画面。屏風によって絵を立体的に見せている。

(7)制作年

不明。晩年の作といわれている。

(8)画材

紙本墨画淡彩。

(9)季節

晩夏から初秋。

(10)音

静寂。

(11)落款

画面右下に「守景筆」の署名と「久隅」の朱文長方印(図参照)。


落款《夕顔棚納涼図屏風》部分

(12)鑑賞のポイント

粗末な小屋の傍らに設けた瓢箪の生える軒下で、むしろを敷き、家族が一筋の涼風に身をまかせている。一見ありふれた庶民の日常生活を、ほのぼのと詩情豊かに描いた作品に見える。歌人の木下長嘯子(きのしたちょうしょうし:1569〜1649)の和歌「夕顔のさける軒はの下すゝみ男はてゝれ女はふたの物」を主題として描かれたようだ。ててれは男の褌、あるいは襦袢、ふたの物は女の腰巻を指す。「天下の至楽」を謳った歌にも関わらず、画面は、満月の上空が薄暗く、いずれ漆黒の闇が訪れることを暗示し、寂しげな気配が漂っている。秋の景を示す満月や、夏の夕暮れに白い花を咲かせる夕顔が、ここでは実を結び晩夏の風物となっている。夏から秋への季節の流れと、一日の時間の推移を切り取りコラージュしたような、日本の農民の家族団欒を描いた当時としては珍しい絵画である。

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