〈歴史〉の未来

第2回:MAD動画化される世界

濱野智史(日本技芸リサーチャー)2009年09月15日号

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ネタ化されるサバルタン

 シンポジウムの場では、登壇者の有元典文氏や飯野賢治氏から、こうしたリミックス動画を面白がって消費する昨今のネットカルチャーの風潮に対し、強い批判の声が上がった。それは「ブリトニーファンの女の子の誠実で悲痛な思いを、ネタ的に笑うことでないがしろにしてよいのか。彼女の真剣なメッセージはどこへ行ってしまうのか」という問いかけである。
 筆者もこうした批判に完全に同意するが、現状では残念ながら、こうした批判によってネット上の「N次創作」の流れを食い止めることは望めそうもない。動画共有サイトでは、しばしばこうした実在の人物による「悲痛な叫び」がネタ的に消費され、「N次創作」なり「リミックス・カルチャー」なりの格好の餌食となってしまう。このほかにも著名な例としては、ネットワークゲームで負けた悔しさをパソコンに向けてぶつける「キーボードクラッシャー」と呼ばれる少年[動画4]や、「World of Warcraftのアカウントを母親に消されて発狂した少年」[動画5]など、枚挙に暇がない。


4──キーボードクラッシャー


5──「World of Warcraftのアカウントを母親に消されて発狂した少年」

つねにすでに現在として更新されていく世界

 さて、ここまでは「MAD動画」なり「N次創作」の否定的な面を挙げて論を展開してきたが、もちろんそれだけを指摘するのはフェアではない。いうまでもないことだが、実際にはコラージュや引用といった行為こそが、新たな歴史的文脈を形成することもある。
 そもそも前回紹介した「七色のニコニコ動画」は、むしろこちらの肯定的な評価に値する作品である。「七色のニコニコ動画」の作者が約1年に1回制作しているメドレー的MADムービーは、毎回極めて高い人気を博することで、「ニコニコ動画を代表する楽曲」をなかば「公認」するような効果を有している。前回も触れたように、むしろこのメドレー作にアーカイヴとして登録されることで、多くの人々に知られていく作品も少なくない。その範囲はニコニコ動画の内部に限ったものであり、とりたてて社会的に評価すべき理由はないが、とはいえニコニコ動画上における新たな、そしてささやかな「歴史」を生み出す役割を曲がりなりにも発揮しているといえる。

 そこまではよいとして、筆者が「七色のニコニコ動画」に着目する理由はそこにはない。むしろ筆者が興味深いと考えているのは、ニコニコ動画ではそう一筋縄にMAD動画によって「歴史の生成」がうまく事を運ぶわけではないという点にある。
 それはこういうことだ。ニコニコ動画上あるMAD動画が人気を集めると、たいてい元ネタとなった動画に対してもアクセスが集中し、ランキングに再浮上することもしばしばである。すると元動画には、たとえば「七色のニコニコ動画から」といったコメント(どこからこの動画にやってきたのかを表明するコメント)や、「なぜ上がったwww」といったコメント(なぜいまごろこの動画がランキングに上るほど人気が出たのかに対しツッコミを入れるコメント)が大量に寄せられることになる。しかし、それは基本的にニコニコ動画では歓迎されないことも多い。
 それはなぜかといえば、ニコニコ動画が次のようなアーキテクチャ上の機構を備えているからだ。筆者がかねてから「擬似同期」と呼んできたように、ニコニコ動画では実際には「非同期で(ばらばらのタイミングで)」動画を視聴しているにもかかわらず、動画の再生とともにコメントが流れる仕様によって、あたかも「同期的に(同じ時間を共有しながら)」視聴者間でコミュニケーションを交わしているかのような感覚を得ることができる。しかしニコニコ動画では、ひとつの動画上に保存・表示されるコメントの最大数には限界があり、古いコメントは新しいコメントによってつねに置き換えられていく仕様となっている。たとえば「最大1000個まで」と設定されている動画では、1001個目のコメントが投稿された時点で、最初の1個目のコメントは動画上からは退出させられてしまうのだ(消えてしまったコメントは過去ログには保存されるが、有料のプレミアム会員にならないとその参照はできない)。
 そのためニコニコ動画では、MAD動画で取り上げられた古い過去の動画に、「××から」や「なぜ上がったwww」といったコメントが大量につくことは歓迎されない(実際、「××から」のようなコメントは「荒らし」に準ずるものとして慣習的に禁じられている場合も多い)。なぜなら、そうして新たに大量に付与されたコメントによって、もともと存在していたはずのコメントが次々と消去されてしまうからだ。もともとその動画を愛好していたファンからみれば、それは新参勢力による「共同体への侵入・侵害」とみなされてしまう。それはいってみれば、(コメントというコミュニケーションの集合体であるところの)「記憶/記録の共同体」を大きく書き換えてしまうことを意味する。

 もちろん、ここで筆者が取り上げた事例は、「歴史」の問題を考えるうえではあまりにも取るに足らないような、ごく小さな問題ではある。しかし、近い将来、あらゆる映像がネットワーク上で実況放送され、保存され、そしておそらくはニコニコ動画のようにコメントつきで受容されるような時代が訪れたとき、世界のあらゆる事象が擬似同期的なコミュニケーションに包囲されていく可能性は高いと思われる。そのとき上で見てきたような問題は、はたして「歴史」にいかなる影響を与えるのだろうか。そこでは、歴史を生成するはずの言葉は過去ログとして「堆積」することなく、つねにすでに「現在」へと更新される。過去を参照することで新たな歴史を生成するはずのコラージュ的行為は、同時に過去の記憶の共同体を破壊してしまう。つねに「現在性」だけが再生産され続ける擬似同期的環境において、それでも「歴史性」が残るとすれば、はたしてそれはどこに宿るのか。いまからこのような思考実験を行なっておくことは、それほど無駄なことではないと筆者は考えている。

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濱野智史

1980年千葉県生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。著書=『アーキテクチャの生態系』...

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