2017年09月15日号
次回10月2日更新予定

キュレーターズノート

「大地に立って 空を見上げて 風景のなかの現代作家」、「フードスケープ 私たちは食べものでできている」

住友文彦2017年01月15日号

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 この日は別の場所に立ち寄ったため、いつも群馬県立館林美術館に行くときに通る国道とは別のルートでこの展覧会を見に行った。その道沿いには畑や林が並び、その間には少し古い住宅が点在していた。住居が密集する場所は少なく、畑で土を耕す作業や冬野菜の手入れをする農家の姿が目につく以外に、歩く人の姿はほとんど見ない。コンビニやチェーン店なども少ない。

 見通しのいい場所が多いので、木々に囲まれた祠や石碑、あるいは放置された車両や粗大ごみなど時間が堆積した場所がむき出しになっているように見える。そして、この展覧会のタイトル(「大地に立って 空を見上げて」)の通り、冬の晴れた日の空は広く高く、そしてどこまでも平地が広がっているように感じる。遠くに低い山が見えるが、関東平野の乾燥した大地で人々が農耕に必要な土地を確保しながら各地へ散らばってきた軌跡をそのまま見ているようにも感じた。お互いに干渉し合わないような十分な距離で隔てられ、人の姿が少ないにもかかわらず、あまりプライバシーを覆い隠すこともなく生活の匂いはあちこちに顔をのぞかせている。

ALIMO


 この道中の体験は、美術館の敷地を歩き建物に向かい展覧会の会場にまで続いている。つまり周囲の風景と、美術館の空間や展示作品がうまく呼応し合うように感じられる展覧会だった。もちろん、過去作も含む作品を出した参加作家がそこまで展覧会の意図や周囲の風景を意識したかどうかは分からない。おそらく、広々とした平野を進むうちに得られたのびのびとした私の気持ちにすっと入り込んでくるような作品が多かったということなのかもしれない。そのなかで、3名の作家だけここでは言及してみたい。まず、ALIMOの《人の島》は作家自身が「アニメーション・タブロー」と呼ぶ方法でつくられた作品で、循環的な時間を感じさせる効果がとても利いていた。油彩の絵を描いては消すことを繰り返す過程をコマ撮りしていくことで、絵の具の重なり合いや擦れが独特のテクスチャーを生み出している。海辺にたたずむ男の回想をたどるストーリーは断片的なもので、シュルレアリスムのように不可思議な物体や空間が画面に配置される。舞台が海か大地かの違いはあるが、誰もいない場所で繰り返される営みや、いつのまにか遠くへと押しやられていくような記憶は、美術館の外に広がる風景と響きあうものだった。


ALIMO《人の島》(2011)撮影=長塚秀人

スタン・アンダソン


 スタン・アンダソンは、かつて編集者を介して英訳をしていただいたこともあり、いつか会いたいと思っていながら結局2015年9月に急逝してしまった人物だ。彼は山深い群馬県六合村に住んでいたのだが、この展覧会ではそこで制作された木や樹皮、あるいは動物の骨などを組みわせたオブジェや陶器の作品を展示していた。自然がつくりあげた曲線や亀裂などがそのまま活かされた素朴な形の作品は、混沌とした森の気配を持ち込むようにほかの展示室よりも濃い密度で置かれていた。自然の大いなる力を人間が抑え込むのではなく、できるだけありのままの姿に寄り添うような造形がとても印象的だった。また、アトリエに遺されていたと思われる書籍などの資料も展示されていたため、それらを見ると彼が各地の原始文化に強く関心を寄せていたことがよく分かる。


スタン・アンダソン展示風景、撮影=長塚秀人

笹岡啓子


 笹岡啓子は東日本大震災の被災地で撮影した写真と、美術館の周辺で見られる風景を撮影した写真を展示していた。大槌や大船渡で撮られた写真には、建物が破壊され破片が散らばる住宅地の向こうに小高い山が静かにたたずむ。また、利根川や近隣の沼地の多々良では野焼きをする人々の姿、各地で釣りをする人の姿を風景の中に見つけられる。どれも自然と人の営みによって生まれたものであり、それらを見ていると大震災のような稀な出来事も、長い時間のうちに人が自然と向き合うなかで体験した一コマのように感じる。しかも、写真で見るイメージが展示室のすぐ外側へと続く時間と空間の循環的な感覚をここでもおぼえる。ただ、不思議なのは笹岡の写真に現われる風景も、外に広がる風景も、何か明瞭に名指されるような特徴を持つものとは言えない。特定の意味や理想を投影させることで成立する風景なら、あちこちに見つけられる。しかし、笹岡の写真はそうやって固定しえないイメージとして現われていた。もっと踏み込んで人に焦点を当てれば、その営みが主題になるだろう。あるいはもっと引いて風景の全体像が分かれば、自然が主題になるだろう。そのどちらでもないために、なんらかの主体が自らの意識を投影する「風景」とはならないのである。


笹岡啓子《多々良 Tatara, Gunma》(2016)

風景のほつれ


 この北関東一帯の地域は、郊外と呼ばれる通勤圏よりも外側で、大都市圏の消費のサイクルからも隔てられている。かつて、松田政男は連続射殺事件の被告が見たであろう風景を追ったドキュメンタリー(映画『略称連続射殺魔』(1969))を出発点に日本各地の風景のなかに国家権力を見出した。たしかに、農業でも川でも道でも鉄道でも、高度成長期の日本の地方には権力が充満していた。もちろん、いまでもそれは変わらないだろう。それから時代を経て、グローバル資本が大地を覆い尽くす時代に私たちは生きている。松田が、政治の季節を風景に反映させて語ったのと同じように今なら資本の働きが風景を形作っていると言えるかもしれない。特に私は近年、ヨーロッパで「art in rural」と言われる動向に関心を持っている。「rural」とは、都市に通勤する者たちが住む「suburb」ではなく、田舎や田園といったニュアンスを持つような場所である。そうした都市文化と距離をおくことで、芸術と社会双方の近代化がもたらしたものを批判的に再考し、近代の始まりとともにあり得たかもしれない生活と結びついた芸術のあり方を模索する活動が、近年目立つようになっている。下記の記事で触れるワプケ・フェーンストラが行なっている「Myvillage」という活動もそれに類する。

 アーティストは風景の意味を遠くから見いだすことはしない。もっと局所的だったり、視覚で捉えられないものだったり、その感性が他者と交感するために見いだすものは、意味の充満から逃れるものだ。理想や意味を投影することで成立する風景のほつれのようなものが、この展覧会で見られたのは救いだったかもしれない。

大地に立って 空を見上げて 風景のなかの現代作家(終了)

会期:2016年10月8日〜2016年12月4日
会場:前橋市群馬県立館林美術館
群馬県館林市日向町2003/Tel. 0276-72-8188

学芸員レポート

 アーツ前橋で開催した「フードスケープ 私たちは食べものでできている」は、8名のアーティストが新作で参加し、そのほか廣瀬智央、小沢剛、ゴードン・マッタ・クラークの作品、当館収蔵作品、民俗資料、埋蔵文化財を合わせて展示した。「服の記憶──私の服は誰のもの?」(2014)、「ここに棲む──地域社会へのまなざし」(2015)という、着ること/住むことに焦点をあてた展覧会につづき、今回は食べることを取り上げた。例えばファッションや建築のように形があるものを展示するのとは違い、食べものは消えてなくなるものであり、かつ生きているものと関わる。美術館の展示保存するための機能が、そうした有限のものといかに関わり、規定しているかについて考えざるを得なかった。また、前橋という地域は農業生産者が数多く住んでいる場所であり、都市の消費者からの目線とは違う角度から考えることも重要だった。しかし、こうした困難はあっても今取り組むにはとても魅力的なテーマだったとあらためて実感している。それは、食糧危機、自然災害、放射能被害などの影響によって、現在食べることの価値観が大きく動いているからである。人々の感じ方が揺れ動くときこそ、アーティストの感性のはたらきは重要な意味を持つ。ここでは、新作として発表されている作品に限って紹介する。

中山晴奈


 中山晴奈は、生活の身近にあるはずなのに私たちが食べていないものを取り上げた。展示室いっぱいに並べられたテーブルには、パンの上に食べられるものと食べられないものが付着している。しかし、その区別が明瞭なものはむしろ少なく、そのあいだのグレーゾーンが大きく広がっている。道端にありそうな雑草は稲科で食べられるし、昆虫のように栄養価も認められているものもある。多くのものは食べられても消化に良くない、不潔である、あるいは生産、流通、加工が難しいなどの理由が立ちはだかる。あるいは、アレルギー源や宗教などを理由に嫌われるものもある。大量に生産可能で、実際に食卓まで届けられているものは複合的な理由で限定されている。何を理由に食べていないかを知ることは、食の供給システムを私たちがどのようにつくりあげているかについて考えるきっかけを与えてくれる。


中山晴奈《edible or not 食べられる境界》(2016)撮影=木暮伸也

風景と食設計室 ホー


 酒粕を川に流す神事から地域の名前が付いたと言われる粕川は赤城山の南麓に広がるエリアである。「風景と食設計室 ホー」は、山の中に分け入り大きな滝へと向かう道にあるお不動様の御堂を使い9月に3日間行なったツアーパフォーマンスを再現している。彼女たちは、地元の農家が年末年始の習慣を記した日記をもとに、お膳を囲む参加者に向かって儀式的なパフォーマンスを行なった。昔からの言い伝えや農業の営みには、自然とのつながりを確認し感謝するメッセージが込められている。人びとの風習のなかに根付いた行為のなかで、神の存在を認めることは広くあちこちに見いだせることである。しかし、赤城山信仰の重要な場所だったはずの滝をより近くで見るための道路が設置されるなど、自然を通して遠くに仰ぎ見てきた神の居場所は失われたようにも感じる。ホーの神事は、神なき時代にもう一度自然との関係性を回復する新しい儀式である。


風景と食設計室 ホー《見えない神さま》2016年09月17日、撮影=木暮伸也

マシュー・ムーア


 アリゾナ州で大規模農業を行ないつつ、アーティスト活動を行なうマシュー・ムーアは、初来日のときにすでに日本の農業が直面している課題を調べていた。彼は農業に適した土地が非常に狭い国なのにその半分の土地で米を育て、もっと生産性や栄養価が高い作物を育てないのはなぜなのか疑問を抱えてきた。リサーチのための来日では、複数の前橋の農家を訪ね歩き、その日々の暮らしに耳を傾け、土を触り、農家と土地の関係性をなんども問いかけた。その結果、合理的に土地を利用するのとは違う価値観を認め、これから日本の農業が進むべき道筋を明確に選択することを来場者に求める作品を展示している。この作品は、じつに多くの異なる考えが共存しているにも関わらず、これほど大事な土地の利用に関する決定を私たちが明確に意識せずにいる現状を見事に照らし出している。

南風食堂


 南風食堂は、高齢者がこれまで何を食べてきたかを尋ね、そのエピソードを記し、写真を撮影した。それぞれがいきいきと語るエピソードを読むと、結婚の話、戦争の話、好きな音楽の話が食べものの記憶と結びついている。長い人生は、つねに食べものとともにあった、と言ってもいいかもしれない。特に農家だった人が多いため、多く収穫した野菜を保存する手段に南風食堂は眼を向けた。つまり、漬物などの発酵食である。色とりどりの発酵食が並び、日々形を変える。微細な発酵活動は地球上の生命に共通する細胞の分化を想像させる。長い長い時間をかけて変化するだけでなく、大きな循環のなかに生命を位置づけるような見方も私たちに与えてくれる貴重な活動である。

ワプケ・フェーンストラ


 オランダ北部の農家に生まれたワプケ・フェーンストラは、オランダとベルギー周辺の土地が長い年月をかけ、地殻活動だけでなく、海の侵食、降雨、火山活動の影響、そして風や気候の変化を受けながら変化する様子を、分かりやすいアニメーションで示した作品を展示している。また、アメリカとオランダで農業を継ぐことを決めた若者がそれぞれの国を訪れる様子をドキュメタリーとしてまとめた映像作品がとても好評である。ある時は誇りを持って大型機械を扱い、自分がどのように牛や馬を扱っているかを説明するいっぽうで、今どきの若者らしい表情や身振りをとらえ、マスメディアが伝える農家のステレオタイプを拭い去るのにもってこいである。農業に誇りを持ちつつ、等身大の肩の力が抜けた自然な彼ら、彼女らのライフスタイルがとても魅力的に見える。また、フェーンストラは前橋の農家を取材し、その日々の生活とその畑の土を詳細に調べて展示に活かしている。


ワプケ・フェーンストラ《地元の農家たち》(2016)撮影=ワプケ・フェーンストラ

岩間朝子


 岩間朝子はこれまで食べることをめぐり、人間の根源的な活動、例えば労働、民族、戦争などを考えるトークイベントを実施している。長くオラファー・エリアソンのスタジオで食事をつくってきた彼女は、『TYT Vol. 5: The Kitchen』という本を通して、たんなるレシピ集ではなく食べることを思想として捉える切り口を鮮明に提示している。今回は、人間が必要な17種類のミネラルの分子模型と太陽系の模型を暗がりの中に展示している。それは、有機生物である生き物のなかに大地をつくる無機質が入り込んでいることで、私たちがこの足元の土から分化することで生命として存在している壮大なスケールの想像力を喚起させるものである。


岩間朝子《わたしたちの身体は小さな宇宙》(2016)撮影=木暮伸也

フェルナンド・ガルシア・ドリー


 展示室の最後にはフェルナンド・ガルシア・ドリーが、自分が生まれた過疎の村を再生させるためにヨーロッパ各地で実践を始めている「インランド」というプロジェクトの提案をしている。彼は3年前にも前橋に滞在し、地元の農家やアーティストと農業の諸問題を話し合う機会をつくった。今回も農家の体の動きをもとに舞踏家にワークショップをしてもらうなど、農業と芸術の生産を密接に結び付け、農家のなかに蓄積している豊かな知識や経験を伝えていこうとするのが「インランド」である。資本主義の流通システムを使いながら、必要以上に生産することなく、生産活動の文化的な意味を共有していくことで過剰な負荷をなくす循環を見出していくことが目指されている。

食べながら食や農業の問題を考える


 そして、もちろん食べられる作品もある。パレ・ド・トーキョーのレストランの仕事もしていたジル・スタッサールが地元の生産者に特別に注文してつくってもらった材料を使ったサンドイッチがカフェで食べられる。これは本をイメージして頁を重ねるように形づくられ、食べながら少しずつ味の変化を体験できる。一つひとつが丁寧につくられているためそれぞれの味が独立していながら、それらが統合されるときの美味しさもある。ちなみに注文すると、生産者を紹介する小さな本も付いてくる。このコンセプトと併せてご賞味いただきたい。また、デザートとしてはかつて盛んだった養蚕業に由来するお蚕のパウダーが練り込まれたタルトも提供され、もしかしてご当地グルメとして流行るかも(?)。

 なにはともあれ、農業や食の流通の問題を身近に感じ、年末年始は自分でも酵素ジュースをつくってみたり、私自身かなり考えさせられつつも、とても楽しめる企画だったのは間違いない。かつて宗教画や風俗画などの重要な主題であった「食べること」の営みが、再び人間の欲望と深くかかわる芸術の主題として、その意義を認められることを期待している。

フードスケープ 私たちは食べものでできている

会期:2016年10月21日〜2017年1月17日
会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144

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住友文彦

1971年生まれ。アーツ前橋館長。あいちトリエンナーレ2013、メディア・シティ・ソウル2010(ソウル市美術館)の共同キュレーター。NPO...

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