キュレーターズノート
夏の夜の夢──CAAK Lecture 35 中崎透「遊戯室について」(Dialogue Tour 2010 第4回)を聴講して
中井康之(国立国際美術館)
2010年09月15日号
それにしても暑い夏だった。暑さにかまけてフィールドワークを怠ったつもりはないのだが、結果的に考えれば近畿圏の動きを押さえていたとは言えない状況になっていた。最初に自己弁護しておけば、仕事で大阪を離れていた時間が長かったのがおもな理由であるのだが、そのような動きが見透かされていたかのように、このartscapeで始まった開設15周年記念企画、Dialogue Tour 2010の金沢での対談を聴講してレポートせよという命が下ったのである。
その特集の第一回に登場している後々田は、学生時代からの長い付き合いであり、一年程前から国立国際美術館の近傍で「梅香堂」という小さなアートスペースの運営を行なっていたことは当然知っていた。そのような事由により、このプロジェクトに対してある関心を持っていた。彼は、地方美術館からICC(NTT インターコミュニケーション・センター)というメディア・アートに特化した企業美術館、さらには大学の教員として美術館学を論じるといった過程を経て、上記スペースの運営を始めたわけであるが、そこに大きな展望を抱いているというようなことはないであろうと感じていた。彼の思考をあえて代弁するならば、そのような近代主義的な意味での成果を求めないというスタンスを取っていると考えていた。同時にそのようなテーゼが、「梅香堂」というミニマムなスペースの運営方針であると感じていた。もちろん、ただ単に反近代主義的な立場から成果を求めないというだけではその存在意義はないに等しい。問題は、「芸術作品」という存在が成立する場所をどのように現実化させていくか、という点に集約されるだろう。
戦後、日本の都市部においていわゆる現代美術といわれるような既成の表現様式からの脱却を目指した作品を発表する場所として、貸画廊という特殊な形式の展示空間が発生し、おそらくは読売アンデパンダンが終了した1963年前後から1980年頃までは、その画廊空間を介在して作家や評論家、美術館学芸員、美術記者、作家予備軍としての美大生そして市井の現代美術ファンまでもが共通の理念を追い求めて、ある共同体を形成していたと考えることができるだろう。そのような熱い時代の雰囲気が、公立美術館の企画にまでなんらかの影響を及ぼし、例えば京都国立近代美術館(当時の正式名称は国立近代美術館京都分館)で1960年代に毎年開催されていた「現代美術の動向」展や、東京国立近代美術館で開催された「1970年8月──現代美術の一断面」展のような、いまから考えればアナーキーとも言える展覧会が実現し、貸画廊を中心として発表されていた先鋭的な表現が、公的な空間で時間を置かずに再検証されるシステムがそれなりに機能していたと考えることができる。
そのような想像の共同体ともいえる世界が脆くも崩れ去ったのは、1980年代後半から日本中を覆ったいわゆるバブル景気の影響が大きかっただろう。先に述べた、1960年代後半から沸き起こっていった日本の現代美術は、経済的な結びつきはほとんどなかった。社会的な動きを考えれば、1970年の大阪万博に参画した、特に当時の最新のテクノロジーと結びつきを持っていた一部の作家たちは、その恩恵を受けたようであるが、その場凌ぎで担ぎ出されたテクノロジー・アートはその巨大なイベント施設で消費されたに過ぎず、なにも生み出すことはなかった。そのような国家的イベントとは無関係であった多くの現代美術の作家たちの存在も、その反動で急激に人々の意識から消え去っていったのではないだろうか。そのようなことは周辺的なことに過ぎないと考えるのは正しくないように、いま私は考える。後に「もの派」と総称されるようになった作家たちの揺籃期である1960年代は、社会全体がそれを生み出す機能を果たしていたのではないだろうか。はたして、彼らに続く世代が、あらゆる意味で彼らを継承し、あるいは凌駕するような存在として生まれ得なかったのは、われわれがそれを必要とはせず、用意を怠ってきたからだと考えることもできるかもしれない。1970年代の日本の現代美術の状況は、「もの派」の追随者たちによって袋小路にはまり込んでいったような解釈もされることもあるが、その背景としては彼らを生み出してきた社会的機能が失われてしまっていたと考えることがきるのではないだろうか。
1980年代中頃に始まる投機的な絵画ブームは、本質的にはここで考えている現代美術を成立させる種々の問題とは積極的な面ではまったく関係はない。このように断言してしまうと、2000年前後からの中国現代美術の台頭と中国経済の発展に見られるような蜜月とも言えるような関係性と比べたくなるだろう。本ウェブサイトでも特集で紹介されている有力なコレクターの存在というのは結果的なことに過ぎず、彼らの作品がプロブレマティックな存在で在り続けたのは(過去形させてもらうが)、文化大革命あるいは六四天安門事件など、彼らの表現に対して常に政治的な圧力がかかっていたことが、皮肉にも大きな要因であったことは、いくら強調してもしすぎということはないだろう。詳述は避けるが、その悲劇を糧に、20世紀末において奇跡的にも具象表現による大きな物語を描くことが許され、それが国際的な評価を勝ち取ることとなったのである。思い返してみれば此の国の1968年もそのような政治的な問題が前景化した時代であった。ただし、その問題というのは、中国と比べれば根源的なものとは言えず、表現する者たちも、直接的に政治的なテーマを持ち出すことはほとんどなかったであろう。それでは、その時代の作家たちが求めていたものはなにかといえば、それは、此の国の美術、日本独自の表現様式を創造するという大前提を掲げていたように思う。しかしながら、そのようなメタ化した日本の美術のための美術のような繰り言は、その問題意識を共有し、あるいは支持する共同体のようなものが崩れてしまった後には、表面的には完全に消え去った荒地のような状態となったのである(もちろん確信的に仕事を続けた作家の存在を否定するものではないのだが、ここではそのようなものが生まれる場を中心に考えている)。
季節は巡り、1990年代後半から、マイクロポップというようなまるで美術現象であるかのような命名なども施されることによって、此の日本に新しい美術ブームが訪れたかのように見える現象が続いている。しかしながら、この奈良・村上現象とも言うべき状況も、一歩引いて俯瞰するならばヨーロッパを中心とした日本のマンガやアニメに対する多くのファンによる高い評価が背景としてあるのだろう。彼らの作品に対する評価は、そのようなさまざまな価値基準も整った広範なマーケットが存在することによって生まれた、ある意味自然発生的な現象であったかもしれない。しかしながら、商品として利用価値が大きいと認知された時点からは、高級消費財を生産する企業体の資本により巧妙な宣伝活動がなされ、それがあたかも文化的な活動であるかのように洗脳されていく過程は、この高度資本主義経済社会といわれる世界の巧妙な常套手段だと思われる。もちろん戦略としてはそれに迎合していく方法もある、というか一個人の芸術家がそれと闘うためには、それしか方法がなかったかもしれない。しかしながら、そのような場所は、それとわからないような処理が複雑に為されながらも、資本を供出した側の最終的な目的は、マーケットによって支持された画像によって自動的に生み出されるメタ化した剰余価値を搾取することにあるだろう。この関係性を作家の立場からどのように逆転することができるのか、末永く見物していきたいと所望している。
閑話休題。金沢のCAAKに向かったのは夏も終わりかけた週末だった。そこは戦前からの町屋造りの街並みが続く一画にあり、古くは商店として用いられた、ほとんど手を加えることなく保たれた建物で、エアコンを設置していないので無造作に壁に穴を開けたり軒下に傍若無人な室外機を設置したりすることはなかった。そのような古い日本家屋が自然体で使われている場所と本当に久しぶりに出会ったと思う。日が沈む頃から中崎氏の話は始まったのだが、扇風機の生暖かい風と、蚊取り線香の匂いが妙に懐かしく、正直な話、少しノスタルジックでもあった。個人的な記憶と言ってしまえばそれまでだが、此の国に50年前ほど前に生まれて育った市井の一個人に取ってのノスタルジーというものは、朽ち果てて屋根の堕ちた教会建築物などではけっしてなく、古い日本家屋の畳の間で感じる生暖かい扇風機の風と蚊取り線香の匂いであることをいまさらながらに感じながら、既述してきたような日本の美術が生まれる場所をつらつらと考えていた。
じつは、そのような懐古的な気分になったのは、中崎自身の活動に関するレクチャーにも一因がある。その内容についてはこのウェブサイト上で詳細に報告されると思うので、順を追って説明する愚は避けようと思うのだが、彼がいま、水戸で運営している「遊戯室」というオルタナティブ・スペースが生まれた経緯を聞いていたときに、ある既視感に襲われたのである。これは、筋を追って説明しなければならないと思うのだが、中崎が最初に行なった個展で、作品をゆっくり見てもらうための場をつくり出したことがきっかけとなり、大学院においては、その場を運営する(ギャラリー・スペースとして貸し出す)をことが目的化してしまったということであった。そう、それは作品の質をある程度維持しながら展示空間を貸し出している、貸画廊の初期形態をイミテーションしているようにも感じられるだろう。しかしながら、私が既視感に捕らわれたと言っているのはそのようなことではない。そうではなく、美術大学のアトリエという何重にも制度の垢にまみれた場所で、極めてアナーキーな行為が、表面的にはおそらく緩い表情を保ちながらも、粛々と実施されていたことに対してなのである。それは、1968年の日大全共闘によって全学がバリケード封鎖されているなか、学内のアトリエに潜り込んで黙々と《スカイホーク》をつくっていたという原口典之の学生時代の話が思い出されたのである。原口のようなハードコアな作家と中崎は対蹠的な位置にあると思われるかもしれないが、表現というのは外面的なスタイルを見ることではなく、その外面的なスタイルを通して精神性を看取するものであるとするならば、中崎のアナーキーな態度は懐かしく、また待たれたものであるかもしれないとそのとき感じたのである。
いや、少し熱くなってしまったかもしれない。そういえば冒頭で例示した「梅香堂」において、1カ月ほど前に呼び出しがかかり、ICCの畠中と「サウンド/アートの臨界点」という話をしたのだが、ウェブサイト上で1週間ほどの告知をしただけで、広いとは言えない会場ではあったが、少なくない人が集まり、よもやま話に耳を傾けてくれたことを思い出す。希望的観測を語るならば、このようなミニマムなアートスペースは、運営する者の意識が維持される限りにおいて、現代美術を担う人々を重層的に生み出す可能性があるのかもしれないと、いまあらためて思い返すのである。