アート・アーカイブ探求
狩野正信《周茂叔愛蓮図》悠遠の涼風──「山本英男」
影山幸一
2015年09月15日号
対象美術館
狩野派400年の始祖
権力を持った絵師集団であった狩野派の系図を開いてみる。室町後期から江戸時代を通して、武家の御用絵師として一世を風靡した絵師たち。以前は狩野派に抵抗があった。権力に対抗する勢力の前衛の新奇性に魅力を感じ、権力側の絵師の努力に目を向ける心の余裕がなかったのかもしれない。系図は略系図だが、それでも実子や養子、弟子を継いで一派が室町時代から近代の横山大観・菱田春草らまで脈々と続いてきたかと思うと、改めて絵師たちの心意気が伝わってきて壮観だ。
400年の長きにわたり継承されてきた狩野派とはどのように誕生してきたのだろうか。日本の絵画史のなかでも主軸であり続け、華々しく、ときに批判されもして日本の絵画の骨格をつくっていった。狩野派の始祖である狩野正信とは一体どのような人なのか。正信の代表作である国宝《周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)》(九州国立博物館蔵)に関心が向いてきた。本で見た絵は木があり池に小舟を浮かべている古色がかった特徴のない中国風の絵だった。しかし、実物を見る機会があり、なんとも言えないすがすがしさに足が止まった。
湾曲した池の岸辺に大きな二本の柳。遠方の山から吹く微風に葉がサラサラと揺らいで心地よいのだ。愛蓮図という主題であるが、素朴に無作為に描かれている蓮よりも、葉の無数の点描が美しい。白衣の高士と童子が乗る一艘の舟が、蓮の葉をわけて池を静かに漕ぎ出してゆくさまと、水面が遠景に同化して空と呼応し、人間と自然が調和した雄大な世界を爽やかに描出していた。狩野派といえば金色と大木の覇者の力強いイメージだが、始祖の作品は大自然に抱かれたような穏やかな気持ちにさせてくれる。
初期狩野派を長年研究している京都国立博物館の学芸部副部長・山本英男氏(以下、山本氏)に、狩野正信の《周茂叔愛蓮図》について見方を伺いたいと思った。山本氏は正信の子である元信にも詳しい日本中世近世絵画史の専門家で『日本の美術(No.485 初期狩野派─正信・元信)』の著者でもある。
絵画のスーパーマーケット
「海北友松展」の開催が2017年春に決まり、担当者としては定年も迎えることになったという、1957年岡山県倉敷市に生まれた山本氏。小学生の頃は、壁のシミをみて「雪舟の山水図のようだ」と感動し、雪舟の国宝《秋冬山水図》(東京国立博物館)の絵を年賀状に描いたという。その屹立する山容と不気味なまでの静けさを漂わせる室町時代の山水図の風景が、斬新なものに映ったことが記憶の片隅にあるそうだ。
山本氏の京都国立博物館における初めての展覧会企画が「室町時代の狩野派」。山本氏38歳、1996年の当時《周茂叔愛蓮図》は画商にあり、付き合いのない画商から借用することが怖かったという。
狩野派の始祖である正信の現存する作品は、伝正信を加えても十数点ほどと少なく、長男の元信は作品が多く残されている。正信の時代はまだ流派としての体制が完成していなかった。「正信は、漢画系主体で肖像画を多く描いているが、元信が、大和絵の領域へも進出したことが、狩野派繁栄の最大の要因であった。支持者をどんと取り込むことができるようになった。狩野派は絵画の専門店ではなく、スーパーマーケットのように何でもあるし、何でもやる。しかも圧倒的なプロフェッショナルとして質を確保した」と山本氏は述べた。
大和絵系漢画の系譜
狩野正信は、1434(永享6)年に生まれ、1530(享禄3)年97歳で没したと伝わる。出自や京都にいつ出たのか、師匠は誰かなど、いまだ判然としないが、東国出身で北関東とゆかりが深かったことや、室町幕府の御用絵師となった画僧周文(しゅうぶん、生没年未詳)や小栗宗湛(そうたん、1413-1481)の影響を受けたと考えられる。
奈良興福寺の大乗院門跡である尋尊(じんそん、1430-1508)が記した『尋尊大僧正記』には「狩野 土佐弟子」とあり、漢画系である絵師正信が、大和絵の主流的立場にあった土佐家の傘下にいたことが読み取れる。しかし正信の大和絵は皆無であり、史料の記録も見当たらない。
正信が初めて歴史上に登場するのは、1463(寛正4)年の正信30歳。室町幕府第三代将軍で金閣寺をつくった足利義満(1358-1408)創建の禅寺である相国寺の僧で、将軍の参禅を管理する蔭凉職(いんりょうしき) の地位にあった季瓊真蘂(きけいしんずい、1401-1469)の自坊である雲頂院(うんちょういん)の昭堂(開山堂)に、観音および十六羅漢の仏画を描いた。本格的に正信が活躍したのは、幕府御用絵師の宗湛が亡くなり、銀閣を建立し、芸術を愛好保護した室町幕府第八代将軍・足利義政(1436-1490)の御用絵師に就いて以降、義政の東山山荘常御所(銀閣寺の前身)に《潚湘八景図》などを描いた50歳近くのことであった。
正信は幕府関連の画事のほか、将軍を補佐する管領(かんれい)職にあった細川政元(1466-1507)や守護大名の赤松政則(1455-1496)、さらに相国寺僧らからの要請も受け、また正信の画法は水墨の障壁画や仏画、肖像画など多岐にわたった。レパートリーの広さと平明な画風は元信に受け継がれ、以後の家系と画系を両立させながら継承。共同制作の絵師集団・狩野派の基調となっていく。
【周茂叔愛蓮図の見方】
(1)タイトル
周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)。英文:Zhou Maosku Appreciating Lotuses
(2)モチーフ
池、舟、人、蓮、二本の柳、樹林、霞。舟の上の左の高士と見られる人物が周茂叔。
(3)制作年
室町時代、15世紀後半。
(4)画材
紙本墨画淡彩。掛幅。
(5)サイズ
縦84.5×横33.0cm。
(6)構図
縦長の高さを強調する南宋絵画の構図法で、小さな画面でも大きな空間をつくることができる辺角の景という対角線構図。宋元系の山水画の新様式を生み出した周文の構図の延長上にあることを示す。画賛はない。
(7)色彩
黒、藍、茶、灰色。明るく淡い色合いがさわやか。
(8)技法
水墨で描いたあと藍をリズミカルに点々と細かく木に彩色している。絵のパーツを組み合わせて構成した広い範疇でいえば馬遠様(ばえんよう)。
(9)落款
白文鼎(かなえ)印「正信」の印章。署名はない。現存している正信作品はすべて署名がない。
(10)鑑賞のポイント
中国・北宋時代(960-1127)に始まる新しい儒学、宋学の開祖・周茂叔(諱[いみな]は敦頤[とんい]、1017-1073)が、蓮をこよなく愛したという故事に基づく作品で、「陶淵明(とうえんめい)愛菊図」「黄山谷(こうさんこく)愛蘭図」「林和靖(りんなせい)愛梅図」とともに四愛(しあい)図のひとつに数えられる。詩人たちがそれぞれ花を愛する四愛図というのがあり、四幅対として一堂に展示鑑賞する場合もあるが、多くは一点ずつ鑑賞する。近景では茂叔が池に舟を浮かべ、蓮を愛でるところが表わされており、右方には風になびく柳、その背後の中景から遠景は靄(もや)に煙る樹林と、雲霞とも水際ともつかぬ景色が曖昧に描かれ、奥へ奥へと無限に続いている。柳の根元にある露根が独特のアクセント。この絵の魅力は霞(かすみ、図参照)であり、遠景に樹林を浮かばせて靄の果てに広がる深遠な空間である。また、柔らかなカーブを描く柳に施された瑞々しい彩色(図参照)と、明晰な空間構成に独自性が見て取れ、以後の狩野派が進むべき平明で明るい画面を決定づけた。正信の基準作であり代表作。国宝。
筆様という創作
白い蓮の花には泥より出でて染まらず、緑色の大きな円い葉の間からパッと咲く清浄さがあり、気品と風格が感じられる。周茂叔は高士たるものの気概を蓮の花にたとえ「愛蓮説」に書いた。《周茂叔愛蓮図》は中国の故事に基づく絵画として、その世界に憧れを抱いた人々により鑑賞された。
山本氏は「中国文化に深く傾倒していた室町時代の知識人たちは、こうした中国の故事を基にした絵画を多数制作させ鑑賞した。周茂叔が蓮を愛でるように正信も文人への憧れもあったろう。しかし正信はアーティストではなく、発注がないと絵を描かない職人だ。この絵の注文主はわからないが、季節は夏、涼しい風にふわーっと柳が舞ってすがすがしい。子どもに舟を漕がせて、蓮を分けて静かに舟は岸を離れる。「周茂叔愛蓮図」とはっきりわかるところが正信のよさである。室町時代の水墨画は奥行きを大事にしているが、この絵も空白を多くつくり絵に奥行きを与えて成功している。《周茂叔愛蓮図》は、南宋時代の宮廷画家・馬遠(ばえん、生没年未詳)の様式にならって、馬遠の特徴のきっちりした感じの山水人物図で色もきちっと付けている。柳の図柄が《周茂叔愛蓮図》とほぼ共通する中国絵画の模本《馬遠 柳下宿鷺》(東京藝術大学大学美術館蔵)の存在や、伝周文《四季山水図屏風》(兵庫・太山寺)があることから、南宋の宮廷画家の装飾的画風による絵画などを正信は学んでいたのだろう。絵を注文するときは、宮廷画家の夏珪(かけい、生没年不詳)や梁楷(りょうかい、生没年不詳)、画僧の牧谿(もっけい、生没年不詳)や玉澗(ぎょっかん、生没年不詳)など、特定の中国人画家の作風を「筆様(ひつよう)」として指定した。馬遠と同様のきっちりした筆遣いの夏珪。精妙な描き方と簡略な筆法を併せ持つ梁楷、茫洋とした牧谿、現代アート的な玉澗というレパートリーのなかから、意思の疎通をはかって注文主が絵師に発注する。それはただの模写ではなく、絵師なりの馬遠様があり、夏珪様があることだ」と語った。
端正で明るく平明
戦国時代の幕が開く狩野正信が活躍する15世紀半ば頃の画壇で行なわれていた画題と手法は、大きく3つに分類されるという。「(一)大和絵、(二) 仏画、(三)漢画の三つとなる。(一)は宮廷絵所を拠点とし、平安時代以来の伝統を持つ大和絵師が専ら手がけた。(二)は、奈良・京の寺院所を拠点とし、これも平安時代からの伝統を継ぐ絵仏師のレパートリーだった。(三)は、中世に宋・元・明の絵画の影響で生れ、足利将軍家の庇護のもと、禅林を場として発達した水墨画主体の新画風で、当時は唐絵と呼ばれていた」(辻惟雄『聚美』Vol.3、p.9)。
また「唐絵も似たようなもので、日本製だろうが、中国製だろうが、唐絵は唐絵なのである。上の図式(図参照)に従えば、中国製の唐絵と日本風の唐絵とは、「和」の中の「漢」の中の、「漢」と「和」ということになるだろう。それらは「絵画の国籍」という異なった分類の尺度をあてはめると、まったく別のものになってしまうのだ」(島尾新『日本美術館』P.442)。
漢字文化圏のなかに「和」と「漢」が入れ子の構造になっている。室町時代の唐絵には、中国製もあれば、中国風に描かれた日本の絵もある。室町時代に日本的な「和」と中国的な「漢」が融合されたといわれるが、和漢の二元論は固定化したものでなく、すっきりと割り切れるものでもない。
そもそも狩野派とは何か。「血縁関係で繋がった狩野家を中心とした絵師の専門集団で、常に幕府の仕事を行ってきた人たちのこと」(安村敏信『狩野派全図録 板橋区立美術館所蔵』p.6)とある。狩野派のネットワークは全国諸藩に広がっており、青森から鹿児島にいたる30藩の大名お抱え絵師が狩野門に学んだという実態が明らかになり、またひとつの流派がこれほど長期にわたって一度も途切れることなく、しかもどの時代も為政者の御用絵師であり続けたことは世界的にも例がないといわれている。「狩野派の画風は、端正で明るく平明。誰が見てもいいと思える万人受けする画風だ」と山本氏。それをつまらないという人もいるだろう。しかし400年間破綻せず持続してきた強靭な画風である。面白みを見抜けないのは現代人の目の問題かもしれない。狩野派の原点である《周茂叔愛蓮図》を見つめて美の極意を会得しよう。
山本英男(やまもと・ひでお)
狩野正信(かのう・まさのぶ)
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参考文献