アート・アーカイブ探求
作者不明《風俗図(彦根屏風)》無常の美──「髙木文恵」
影山幸一
2016年11月15日号
対象美術館
国宝となる絵画
絵を見るときは「その時代の人の目になり、現代の感覚で作品や画家を律しないことだ」と、かつて美術史家に伺ったことがある。画家の生きた時代に思いを馳せながらも、絵と向き合う体感を大事にしたい、と思っている。ところがこれがなかなか難しい。時代が変遷しても淘汰されず、なおも残されてきた絵には、一時代の価値観を超越した絵の力が生きている。文化財のなかでも特に「国宝」には、翻弄されることが多いようなのだ。さまざまな人々の審美眼に応えてきた「国宝」の絵画には不思議な魅力が宿っている。
「国宝」を調べると「①国家の宝。くにのたから。②重要文化財のうち、特に学術的価値が高いもの、美術的に優秀なもの、文化史的意義の深いものとして、文部大臣が指定した建造物・彫刻・工芸品・古文書など」と『広辞苑』(第五版)にあった。「国宝」の概念を考えたのは、東京大学で哲学や政治学を教え、狩野派絵画に心酔したアメリカ人美術研究家のアーネスト・フェノロサ(1853-1908)という。文化財保護法の前身で1897年制定の古社寺保存法で初めて法令上「国宝」の語が使用された。1950年までの文化財保護法では、国指定の有形文化財はすべて「国宝」と称されていたが、1951年6月9日付けで実施された“新国宝”では「国宝」と「重要文化財」が区別された。現在(2016.11.1)「国宝」は1,101件、そのうち絵画は160件である。
「国宝」の絵画のひとつに縦94cm・横271cmの小ぶりな六曲一隻の屏風絵、《風俗図(彦根屏風)》(彦根城博物館蔵。以下、「彦根屏風」)がある。江戸時代の遊里で男女がくつろぎ遊んでいる姿を描いている。鍛練された線描や、右から左へ流れる人物の配置、金地の背景に本格的な水墨画の屏風絵と、見所は多い。しかし、なぜか華やかな場面に人々の表情は冴えず、画面全体から深い陰翳(いんえい)を醸し出している。時代を経て「国宝」となった絵画は、複雑多様な物語をまとい苦みがある。
彦根城博物館の学芸員・髙木文恵氏(以下、髙木氏)に「彦根屏風」について話を伺いたいと思った。髙木氏は「彦根屏風─伝来と研究史」(『国宝彦根屏風』2008)など、「彦根屏風」に関する論文を執筆されている。また100年以上も6枚に分割され、額装されていた「彦根屏風」を2006年の保存修理時には、本来の屏風装に戻すという決断の場にいた。琵琶湖を望む彦根城(図1)へ向かった。
源氏物語の植物
滋賀県彦根市のJR彦根駅から徒歩15分、彦根城博物館(図2)は彦根城の城内にあった。江戸時代に建てられたという能舞台が博物館の中央に移築復元されている。
青森県八戸市生まれの髙木氏は、1992年京都大学の文学部美学美術史を卒業後、すぐに彦根城博物館の学芸員となった。京大を選んだのは、修学旅行で京都のお寺が心に焼きついていたから。そのときは平等院が、と当時を振り返った。京都で学生生活を始め、立派なお寺が多くて驚いたが、何より青森と植栽が違い、源氏物語などに出てくる植物が身近にたくさんあることに衝撃を受けたと言う。
子どものころから色彩に関心があり、絵を見るのが好きだったという髙木氏は、西洋の美術になんとなく違和感を感じていた。高校時代、美術の教科書が東洋と西洋の2冊本で、そのとき東洋美術の方が好きなんだ、と自覚したという。京都大学では、仏教絵画の来迎図に魅せられた。「果てしなく暗い中世。自分にとっては心地よいものだった」と髙木氏。「彦根屏風」との出会いもその大学生のときだった。京都国立博物館の常設展示室で、ぽつんとひとつ展示してあるのをたまたま見た。「ちょっとぞっとする印象だった。何かいわくがありそうな絵に見えて、じっくりとは見なかった」と髙木氏は言う。
寛永の絵師
「彦根屏風」の制作年代はいつか。三味線の海老尾の形態から貞享・元禄年間まで下げる意見も提示されたことがあるが、現在は寛永年間(1624-44)頃ということで諸説が一致しているという。四条河原の遊女歌舞伎の禁止と、六条柳町遊里の移転の動きが本格化するのは寛永年間に入ってからであった。狩野派中興の祖といわれる狩野探幽(1602-1674)が活躍した寛永年間。「彦根屏風」の絵師は岩佐又兵衛(1578-1650)と明治初期まで考えられていたが、研究が進み狩野派の絵師を前提として狩野山楽(1559-1635)、狩野興以(?-1636)、近年では狩野長信(1577-1654)の名が挙がっている。しかし、現在も作者や注文主ともに特定できていない。
「彦根屏風」の絵師の筆癖として、大阪大学教授の奥平俊六氏は、盲人の耳が特徴的だと指摘している。耳たぶを大きく、耳輪を薄く、顔側から張り出す軟骨を二つこぶのように「3」の字形に描いているが、こんな耳を描く絵師はいまだ見つからないという。
また、美術史家の狩野博幸氏は、「『彦根屏風』を描いた画人は、おそらく狩野派からドロップアウトした人物であるにちがいない。なぜなら、男女の背景に置かれた室町時代中期の様式を示す『山水図』屏風が、単にある作品を写しただけのものとしても、怖るべき作域の高さを示しているからである。寛永期にこれほどの筆致で室町山水画を生き生きと写しおおせる画人は、狩野派の、しかも格段の画技をもった人であることは疑いを容れない。しかも、『琴棋書画図』は狩野派のお家芸的画題であったから、『彦根屏風』の三味線・双六・手紙・屏風という道具立てによって、この画人は自分の素性を暗々裡のうちに語っているのである。もっと明快にいえば、『彦根屏風』のなかに描かれたかぶき者は、彼自身のひとつの投影だったのではあるまいか。(略)『彦根屏風』は、そんな画人の異議申し立ての絵画だったのではないだろうか」(狩野博幸『彦根屏風と遊楽の世界』図録p.52)と述べている。
【彦根屏風の見方】
(1)タイトル
風俗図(彦根屏風)(ふうぞくず〔ひこねびょうぶ〕)。英文:Genre painting(Hikone folding screen)
彦根藩主の井伊家に伝わり「彦根屏風」の名がつく。漆工芸家で画家の柴田是真(1807-1891)による命名との説がある。通称「彦根屏風」。江戸時代の一時期「揚屋之図(あげやのず)」と呼ばれた。国宝指定名称「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」。
(2)モチーフ
男女15人の人物と一匹の犬。最新の流行を生み出していた当世の遊里内の風俗。京都六条柳町(通称三筋町)と推定される。
(3)制作年
江戸初期の寛永年間(1624-44)。幕府の支配体制が次第に強化された時期。寛永11年の銘があり、双六を囲む三人の形態が本図と酷似する《角倉船図絵馬(渡海船額)》(清水寺蔵)、金地を背景に人物が緊密に配置されている俵屋宗達の《風神雷神図屏風》《舞楽図屏風》や、狩野山雪の《妙心寺天球院方丈障壁画》など金の効果は、寛永期頃の作品に通ずる。
(4)画材
紙本金地著色。質のいい顔料で、特異な画材は使っていない。
(5)サイズ
縦94.0×横271.0cm。六曲一隻。
(6)構図
画面は、大きく右二扇と左四扇の二場面に分かれている。人物像は、各人物の形状を考慮しつつ、相似、線対称、面対称の対応関係にある(相似:第一扇の女と禿〔かむろ〕
、三味線弾きの男と第五扇の三味線弾きの女など。線対称:かぶき者 と犬を引く女、第四扇の文を書く女と第六扇の禿など。面対称:第一扇の禿と犬を引く女、双六をする男女など)。屏風の山折りと谷折りの形態を活かし、それぞれが緊密に関連し、また右から左への視点誘導など計算された構図である。(7)色彩
金、黒、白、灰色、水色、緑、朱、黄、肌色など多色。
(8)技法
金箔地を背景に、髪の生え際の一本一本、細かな衣装文様の一つひとつなど、精緻を極める線描と着彩。顔貌表現や衣文線など人物描写の基本形式は狩野派の傾向を示し、狩野派の絵師の筆と推測される。
(9)落款
なし。
(10)鑑賞のポイント
戦国の世が終わり、徳川幕府が体制を整え、統制が厳しさを増す1640(寛永17)年、一種の文化サロンだった遊里は郊外の島原へ移転を命じられた。京の遊里の一室で、長い刀にもたれ身をよじるかぶき者が目を引く。当時流行の先端をいく絞りや摺箔(すりはく)の華やかな小袖や結髪、ペットの洋犬、キセルなどが江戸初期の空気を表わしている。画面では恋愛の一部始終が表わされていると指摘されてきた。出会いから、手紙を書く関係へと進み、双六に興じるような仲となり、やがて終焉を迎える。髪のほつれ毛(図3)や濡れた瞳(図4)、小袖の絞り文様(図5)や器物など、質感までをも表わす緻密な描写は、絵師の執念を感じさせるなまなましいまでの表現。第一扇、白椿を持ちうつむき加減に歩く禿の前を行く洗い髪の女性の小袖には、はかなく枯れていく芭蕉の葉の文様。世の無常を説く謡曲『芭蕉』。シテの「芭蕉の精」や雪と芭蕉を文様化した能衣装から能の世界を想起させる。画中画の屏風絵は、本図が制作された時期よりも100年以上前の室町時代の画僧・周文の様式に見られる中世に好まれた隠逸世界をイメージする水墨山水画。「彦根屏風」では、三味線・双六・恋文・山水図屏風を、古来中国の知識階級がたしなむ4つの技芸「琴棋書画(きんきしょが)
」に見立てており、三味線の調弦をする盲目の男が、見えぬ目で見ている情景を想像させる。人物の目線は焦点を結ばず、口もとは開き、その表情は、能面のようで明らかな感情を表出せず倦怠感を感じさせる。伝統的で教養的な要素を当世の遊里に置き換えて描いた機知に富む絵画。世相を反映させ、華やかな遊里に幽玄な世界を創り出し、人間の深い内面までを表わしている。1955(昭和30)年に国宝に指定。「近世初期風俗画」の傑作。
井伊直亮「揚屋之図」
「彦根屏風」が制作されてからおよそ400年、実証的研究が始まって100年が経った。彦根藩主井伊家に伝来し、明治以降は東京の井伊家本邸の土蔵に保管されていた。1923年の関東大震災では奇跡的に焼失を免れた。井伊家に入って以降は捲(まく)り
道具帳を修理し、近年井伊家12代井伊直亮(なおあき。1794-1850)が「菊岡」という出入りの楽器商から「彦根屏風」を購入したことが判明した。その記録には「揚屋之図、マクリ」と記されていた、と髙木氏。
「彦根屏風」と同時代の江戸初期の類似作品に《男女遊楽図屏風》(細見美術館蔵)、《文使い図屏風》(プリンストン大学付属美術館蔵)、《かるた遊び図》(立命館大学ARC蔵、図6)がある。特に掛軸の《かるた遊び図》は「彦根屏風」に最も近い画風であり、同一作者の可能性もあると髙木氏は言う。六条柳町の遊里が、1641(寛永18)年に島原へ移転する以前の様子を描いている。掛軸に表装される前は手箱に貼ってあった小形の絵。左の女性から「小藤」「吉野」「野風」と墨書があり、京の著名な遊女の名という。「彦根屏風」では双六に興ずる2人と文を持つ女が同一人物と思われる。
「『彦根屏風』は、なぜ国宝なのですか?」と髙木氏は質問されることが多いという。一言では言えないと回答している。精細な描写、絶妙な配置、よく表わされた風俗など、いろいろとあるが、見どころは見えないところ。奥に何かがあると思わせるところが、この屏風の白眉と髙木氏は言う。「江戸時代の絵は見たままの明快なわかりやすさの方向に行くのに対し、薄気味悪くも思われてしまう『彦根屏風』は、まだいろんなものを含んでいる意味では中世を引きずっている絵だと思う。ひとりの手で描かれた絵ではなく、第三扇から第六扇の筆は第一扇と第二扇と比べて優っている。仕掛けのある風俗図、第五扇の双六をする男のほつれ毛の線や、双六をする女の小袖の絞りの凹凸感のある表現、そのセンスに鳥肌が立つ。双六をする男女の小指と人差し指が近くて、どきっとさせるが、卑猥には見えない。見る人が面白さを見つけて『彦根屏風』に内在する豊かな世界を楽しむことだ」と髙木氏は語った。
彦根城博物館開館30周年記念 特別展「コレクター大名 井伊直亮──知られざる大コレクションの全貌」(2016.10.28〜11.27)に《風俗図(彦根屏風)》が展示されている。
髙木文恵(たかき・ふみえ)
作者不明
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献