2018年11月15日号
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アート・アーカイブ探求

目賀多信済《山水図屏風》みなぎる清新の気──「遠藤友紀」

影山幸一

2018年02月15日号



目賀多信済《山水図屏風》(上:右隻・下:左隻)
1828(文政11)年、紙本墨画金彩、六曲一双、各隻161.0×353.0cm、米沢市上杉博物館蔵
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満ちている神気

今年(2018)5月に丸10年となるこの連載「アート・アーカイブ探求─絵画の見方」は、多くの方の協力を得て120回を迎える。毎月日本の絵画を1点採り上げているが、約1,200年前奈良時代の正倉院の宝物から現代美術まで、時空を超えた画家の出身地を振り返ると、47都道府県のなかで山形県出身の画家の絵を探求していないことに気づいた。

山形美術館から送っていただいた図録『郷土日本画の流れ展』の資料には、「南北目賀多家を通じ最も傑出した画技」と注釈に記された画家がいた。その名は目賀多雲川信済(めかたうんせんのぶずみ。以下、信済)という米沢藩の御用絵師。ネットで検索すると米沢市上杉博物館に作品が所蔵されており、目賀多の展覧会(「米沢ゆかりの絵師たち 4」展、3月18日まで)を準備している最中という。サムネイルで見た画像には、神気が満ちている大自然が描かれていた。早速、目賀多信済の代表作といわれる《山水図屏風》の特別観覧を申請し、雪の米沢へ向かうことにした。東京駅から新幹線つばさ号で2時間ほどである。

JR米沢駅の観光案内センターでは長靴を貸してくれていたが、ウォーキングシューズのままバスを待たずに米沢城を目指して約2キロの雪道を30分ほど歩いた。米沢城は天守閣のない平屋建ての城で、お濠のみが現存する。初代仙台藩主となる独眼竜の伊達政宗(1567-1636)が出生した城であり、最強の戦国武将で米沢藩の藩祖として祀られている上杉謙信(1530-1578)や、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」で有名な第9代藩主の上杉鷹山(ようざん、1751-1822)といった名将、名君ゆかりの地である。

米沢城二の丸の跡地に建てられたのが、米沢市上杉博物館だ。狩野永徳(1543-1590)筆の国宝《上杉本洛中洛外図屏風》をはじめ4万点以上の収蔵品を有している。その博物館の畳のある部屋で《山水図屏風》が迎えてくれた。展覧会の企画を担当している主任学芸員の遠藤友紀氏(以下、遠藤氏)に《山水図屏風》の見方を伺った。


遠藤友紀氏

目賀多家との出会い

遠藤氏は、1980年山形県南陽市に生まれ、父が材木商を営む8人家族に育った。三人姉妹の次女である遠藤氏は、子どものころから絵を描くのが好きで絵描きになりたいと思い、絵や手芸をしていた祖母から絵の手ほどきを受けていたそうだが、中学生になると姉を真似て剣道を始め、結婚するまでずっと剣道を続けた。現在、3歳の子どもの母でもあり、学芸員としても美術と教育普及を担当し、近世から郷土ゆかりの現存作家までと幅広い研究をしている。

20世紀以降の美術に興味があったという遠藤氏は、入学した筑波大学で美術史や芸術理論を学び、卒業論文はイサム・ノグチ(1904-1988)について書いた。2003年に筑波大学を卒業し、米沢市上杉博物館[図1]へ就職した。目賀多という米沢藩の御用絵師を知ったのは博物館に入ってからである。遠藤氏は、2009年に目賀多家に焦点をあてた「米沢ゆかりの絵師たち 3」展を担当し、本格的に目賀多作品に接したという。

一般的に米沢では「目賀多」を「めがた」と濁音で呼んでいる。しかし江戸時代以前の文献や粉本(手本・模写・下書き等の総称)などを見ていくと「目加多」「目方」という記載が散見され、清音の「めかた」ではないかとの指摘が以前からあったという。遠藤氏は、目賀多家のルーツや関係者をたどり調べたところ、「めかた」と濁らずに読んでいた可能性が高いことがわかった。米沢藩の御用絵師だった目賀多家は、狩野探幽を祖とする江戸の鍛冶橋狩野家に入門し、狩野派の画風を継承している。北目賀多家(幽雲系)と南目賀多家(雲川系)の二家に分かれ、北が本家で南が分家にあたる。信済は南目賀多家であった。

《山水図屏風》について遠藤氏の第一印象は「墨で描く楽しさみたいなものを感じた。描き方が面白く、結構すごいのではないか」。10年ほど前は、現代美術が好きで近世絵画に対する苦手意識を克服中だったそうだが、絵の迫力を実感したことは覚えているという。


図1 米沢市上杉博物館

雪舟を目指した狩野派

目賀多信済は、1786(天明6)年出羽国(山形県)米沢に生まれた。藩主の身の回りの世話をする小納戸(こなんど)役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信与(信與)の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。

1801(享和元)年、信与の隠居に伴い16歳で家督を継ぎ、1805(享和4)年第9代藩主上杉鷹山による席画が催され、のちに第11代藩主上杉斉定(なりさだ、1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、34歳のときに信済は自由な教育をしたという鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道(1785-1836)に入門。浮世絵や文人画などにも刺激を受けて修業を積んだと思われる。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、信済の弟子には若井牛山(ぎゅうさん)、百束幽谷(ひゃくそくゆうこく)らがいた。

信済は、豪放にして酒を好み、気宇高邁、興が湧き、意に適したときにのみ筆を執ったといわれ、画風は中国の南宋時代(1127〜1279)の諸大家や明時代(1368〜1644)の浙派(せっぱ)★1など、多様な様式学習を経た雪舟(1420-1506?)を範としていた。好んで竜を描いたが、壬辰の日に筆を執り、雨が沛然(はいぜん)として雷鳴(らいめい)の轟く日を選んで点睛したといわれ、逸話や日記など周辺資料が多く残っている。

遠藤氏は「信済は、豪放な天才というよりは、古画を勉強しながら雪舟を理想とし、狩野派の画風を堅実に守りつつ描くことに努力した人。8冊の日記があるが、最初の日記は24歳のとき。その頃は80歳で亡くなった父の看病に明け暮れる毎日だったことが書かれている。父が没した年の12月29日には、年が明けると自分は25歳になるのに、絵の技量の拙さ、絵師としての行ないの未熟さが嫌になると書いている。また、先祖の絵手本をよそで見せてもらい、本当は家のものなのに誰かが手放して、よそにあることが情けないと嘆くなど、信済は決して豪放ではない印象を受ける。生活は大変だったが、信済は絵に関しては勉強熱心だったと思う。のちに法橋に叙されたというが、典拠記録は現在不明」と述べた。1847(弘化4)年信済62歳で死去。米沢の信光寺に眠る。

★1──中国の明代画壇の流派。浙江出身の戴進に始まり職業的な画家より成り、技巧主義的な画風。

【山水図屏風の見方】

(1)タイトル

山水図屏風(さんすいずびょうぶ)。

(2)モチーフ

山、川、岩、木、楼閣、家、舟、馬、人。

(3)制作年

1828(文政11)年。信済43歳頃。

(4)画材

紙本墨画金彩。

(5)サイズ

六曲一双。右隻左隻ともに縦161.0×横353.0cm。

(6)構図

右隻は夏から初秋の景、左隻は冬から初春の景。広々とした眺望が立体的に見えるパノラマ的な広角構図。近景を大きく濃墨で描き、遠景を小さく薄墨で描いて、遠近感を強調している。

(7)色彩

黒、灰、金。深みのある濃い黒と、自然の大気を思わせる細かい金が特徴。金は、右隻に黄色みを帯びた金を、左隻に赤みを帯びた金を装飾的に用い、季節感と呼応させている。

(8)技法

水墨技法、切箔(きりはく)、砂子(すなご)★2

(9)落款

各隻ともに「信済筆」の署名と、「適意」の朱文ひさご形印の印章[図2]。適意(てきい)とは「心のまま、迷わず思いどおりにする」という意味が込められている。

(10)鑑賞のポイント

勢いのよい筆運び、一気に描き上げたような迷いのない筆遣いである。スピーディで大胆な描き方ながら、墨の濃淡の巧みな使い分けにより大地、水、光、霞が表現され、民家や舟[図3]、人馬[図4]と人々の生活も細やかに描写している。幽寂な情景に神聖な気持ちが湧いてくる。男性的で強固な右隻と、女性的で柔軟な左隻。離れたり近づいたり、あるいは右から左へ、左から右へと身体を動かすと、見えてくる風景が異なり楽しさがある。所々に描かれたアクションペインティングのような激しいタッチ[図5]は、ライブ感が伝わってきて、江戸時代の作者との距離が縮まり、時空を超える感覚になる。雪舟を思わせる強い筆致による簡略化された皴法(しゅんぽう)★3や、調和のとれた画面構成に華やかな金の砂子を加え、伝統を踏まえた山水画は高貴な理想郷となった。目賀多信済の代表作。

★2──金銀の箔をいろいろな形に切り、糊(のり)を薄くはいた地に振り落として文様とする装飾技術で、正方形や長方形に小さく切ったものを切箔、箔を細かい粉状にしたものを砂子という。
★3──墨のタッチにより岩石や山岳の凹凸感・実在感を表わす手法。


図2 落款(《山水図屏風》左隻部分)

図3 舟(《山水図屏風》右隻部分)

図4 人馬(《山水図屏風》右隻部分)

図5 アクションペインティングのようなタッチ(《山水図屏風》左隻部分)

「適意」は思いどおりにすること

「目賀多家門人で、明治・大正期に日本画壇旧派の指導者として活躍した下條桂谷(げじょうけいこく、1842-1920)は『墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり』(『米沢市史 第三巻 近世編2』p.834)と信済を激賞した。桂谷が弟子入りしたのは年代や桂谷の回想録から、信済の次の世代の目賀多幽雲信清と判断されるが、名手と伝わる信済の作品にしばしば触れていたのであろう。信済は、作画期は長いが、参勤交代で江戸へ行くことはあっても、基本的には米沢にいた絵師であり、米沢で名人でも全国的に知られている存在ではなかった。《山水図屏風》の制作背景についてはよくわかっていないが、信済の日記から推察すると、しかるべきところからの注文制作だったと思われる。屏風を保護する畳紙(たとうがみ)の表には『山水之画 雲川信澄筆』[図6]と、裏には『文政十一戊子(つちのえね)年 張師 佐藤幸四郎』[図7]と記されており、制作年代がわかる。信済の作品はほとんどが墨彩で、大抵『雲川』あるいは『信済』と署名しており、印章は『適意』、思いどおりにすることを意味している」と遠藤氏は語った。

《山水図屏風》は、裏側にも作者不明の絵が描かれていた。信済の実像や作品解釈など、まだ課題は残されているが、研究は少しずつ進められている。

現在、米沢市上杉博物館のコレクション展「米沢ゆかりの絵師たち 4」(2018.2.3〜3.18)では、目賀多家の仕事と暮らしが展示され《山水図屏風》も鑑賞できる。水墨画であるが金彩の表現にも着目してもらいたい。屏風における金の存在感を強化した狩野派の影響だろうか、墨のタッチやグラデーションと同様に金砂子の集密や色調の変化にも配慮が見られる。狩野派に雪舟様を併せた信済の《山水図屏風》は、壮大で清新の気がみなぎっている。

図6 《山水図屏風》畳紙の表

図7 《山水図屏風》畳紙の裏

遠藤友紀(えんどう・ゆき)

米沢市上杉博物館主任学芸員。1980年山形県南陽市生まれ。2003年筑波大学芸術専門学群芸術学コース卒業。2003年米沢市上杉博物館学芸員、その後現職。担当:美術と教育普及。所属学会:美術史学会。主な担当企画展:「悲喜交々のアート─まなざしの共有」(2015)、「生誕 100 年 浜田浜雄展〜造形の遊技場」(2015)、「生誕100年 遠藤桑珠展─大地に立つ 空を仰ぐ」(2017)など。

目賀多信済(めかた・のぶずみ)

米沢藩御用絵師。1786〜1847(天明6-弘化4)年。出羽国(山形県)米沢生まれ。小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信与(信與)の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。1801(享和元)年信与の隠居に伴い16歳で家督を継ぐ。のちに第11代藩主上杉斉定の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道に入門し、修業を積む。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、目賀多家の門人である下條桂谷は「墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり」と激賞、南・北目賀多家を通じ最も傑出した名人と伝わる。弟子に若井牛山、百束幽谷らがいる。62歳没。米沢の信光寺に眠る。主な作品:《山水図屏風》《布袋図》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:山水図屏風。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:目賀多信済《山水図屏風》1828(文政11)年、紙本墨画金彩、六曲一双、各隻161.0×353.0cm、米沢市上杉博物館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:米沢市上杉博物館、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop形式:右隻25.9MB、左隻25.9MB(1,000dpi、8bit、RGB)。資源識別子:右隻:P02482(A1967-326(2)目賀多信済 山水図屏風-右ori)、左隻:P02483(A1967-326(2)目賀多信済 山水図屏風-左ori)、ともに1451 KODAK、カラーガイド・グレースケールなし。情報源:米沢市上杉博物館。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:米沢市上杉博物館。



【画像製作レポート】

《山水図屏風》は、米沢市上杉博物館が所蔵する。博物館に問い合わせ、数日後郵送されてきた「米沢市上杉博物館資料掲載等許可申請書」に必要事項を記入し申請。約1週間後に博物館から「米沢市上杉博物館資料掲載等許可書」とともに4×5カラーポジフィルム2点(右隻・左隻)が郵送されてきた。フィルムをDNPでスキャニングし、デジタル画像とした(右隻:58.2MB・左隻:55.8MBのTIFF画像〔1,000dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし〕)。使用料無料。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって画面を調整。右隻は0.4度、左隻は0.3度時計回りに回転させ、屏風の縁に沿って切り抜く。Photoshop形式:右隻25.9MB、左隻25.9MB(1,000dpi、8bit、RGB)に保存。墨の濃淡の諧調がきれいに出るように注意して色調整を行なう。
セキュリティを考慮し、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用いて、拡大表示も可能としている。



参考文献

・『米澤市史』(名著出版、1973)
・中村忠雄「名人目賀多信済(米沢絵師の最高峰)」(『米沢史談 第三集』置賜郷土史研究会、1975、pp.215-219)
・『美術資料目録1──山形大学附属博物館所蔵目録2』(山形大学附属博物館、1981)
・清水澄「目賀多雲川守息」(『米沢市史編集資料 第十号』米沢市史編さん委員会、1983、pp.105-106)
・図録『郷土日本画の流れ展:山形美術館蒐集作品三百五十点公開』(山形美術館、1990)
・『米沢市史 第二巻 近世編1』(米沢市、1991)
・浅倉有子「御用絵師と絵図編纂」(図録『特別展 絵図でみる城下町よねざわ』(米沢市立上杉博物館、1992、pp.25-32)
・『米沢市史 第三巻 近世編2』(米沢市、1993)
・沖田良夫「上杉藩御抱絵師狩野派目賀多家について─信済の『慷慨』『敬記』─」(『懐風』第二十一号、御堀端史蹟保存会、1996、pp.39-46)
・「(2)コレクション展「米沢藩のお抱え絵師─目賀多家─」(『米沢市上杉博物館 年報 VOL.22』米沢市上杉博物館、2010、p.11)
・図録『米沢ゆかりの絵師たち 4』(米沢市上杉博物館、2018)
・Webサイト:「コレクション展『米沢ゆかりの絵師たち 4』(米沢市上杉博物館)2018.2.5閲覧(http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/103eshi4.htm




主な日本の画家年表
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