会期:2024/03/02~2024/04/14(前期:2024/03/02~03/24、後期:2024/03/26~04/14)
会場:板橋区立美術館[東京都]
公式サイト:https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000016/4001737/4001747.html

会期終了1週間前の日曜日のせいか、館内はかなり混んでいる。日本のシュルレアリスムってこんなに人気があったのか、と思ったら隣の公園で花見していた人たちが流れてきたようだ。いや、花見の前に軽くシュルレアリスムで景気づけってノリか。悪酔いしそう。どっちにしろ日本の前衛美術展なんて人気がないんだから、花見客でもなんでも人さえ入ってくれればいい。どうせサクラだし。

同展の出品作家は計89人。ひとり1、2点の出品で、展示替えもあるとはいえ、決して大きくない美術館で120点もの作品に加えて資料も並べているので、かなり窮屈。しかも知名度のある画家は古賀春江、福沢一郎、靉光らごくわずかで、大半は初耳の作家だから、質より量で勝負しようとしたともいえるが、上から目線で上質の作品だけを厳選するのではなく、幅広く集めて日本のシュルレアリスムはどうだったのかを検証してみようという意欲もうかがえる。個々の作品はともかく、展覧会全体としてはとても見応えがあった。

アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を出したのが、ちょうど100年前の1924年のこと。1920年代末には日本にも入ってきて、1930年代には美術学校の学生をはじめ若い前衛画家たちのあいだで急速に広まっていく。ただ、日本に欧米の前衛芸術が紹介されるとたいていスタイルの模倣に終始し、そのエッセンスが浸透しないのが常。逆に日本の土着性と結びついて独自の進化を遂げることもある。

シュルレアリスムも、ブルトンのいう「心の純粋な自動現象(オートマティスム)」という核心が伝わらず、あるいは誤解され、マグリットやダリのように夢や幻視をそのまま絵に描いたような幻想的レアリスムが大半を占めていく。逆にミロやマッソンのようなオートマティスム絵画や、エルンストの試みたフロッタージュやデカルコマニーなどの技法は偶然性が高く、わかりづらいせいか敬遠されたのだろうか。そんななかで北脇昇の《周易解理図(泰否)》(1941)のような突然変異も生まれてくる。それは荒川修作の「ダイヤグラム」やコンセプチュアルアートを先取りするような「図式絵画」で、あらゆる意味で時代から浮いていた。

不幸なことに、日本にシュルレアリスムが広まる1930年代は同時に軍国主義の高まる時代でもあった。シュルレアリスムにとって軍国主義は逆風そのものだったが、それゆえに独自の緊張感もあったに違いない。福沢一郎や古賀春江ら指導的立場だった画家を除き、出品作家の大半は1900〜1910年代の生まれなので、1930年代にはまだ10代後半から30代の若さ。彼らは不穏な社会状況のなか、ある意味わかりやすく自分の心情を表現できる手段としてシュルレアリスムを捉えていたのではないか。しかし日中戦争が始まればそんな悠長なことはいってられず、彼らの多くは戦場に送られ、何人かは戦病死した。

一方、戦争画に手を染めたものは福沢一郎や小川原脩など意外に少ない。シュルとはいえレアリスムが基本だからもっと戦争画に走る画家がいるかと思ったら、そこはやはり人間精神の解放と自由を求める運動だから拒否したのだろうか。あるいはそもそも美校上がりのまだ若い彼らシュルレアリストには依頼すら来なかったのかもしれない。

展覧会の最後は「戦後のシュルレアリスム」として、岡本太郎《憂愁》(1947)、阿部展也《飢え》(1949)、山下菊二《新ニッポン物語》(1954)などが並んでいる。戦争が終わったからといって戦前のシュルレアリスムの続きを再開するというようなノーテンキな画家はさすがにいなかった。戦争という最大の悪夢を経験してしまった画家たちは、もはや白昼夢程度の絵など描いても意味がないと悟ったに違いない。彼らは敗戦時と復興期の絶望や不安をシュルレアリスティックに表わし、それがやがて社会の歪みを告発する1950年代のルポルタージュ絵画につながっていく。

鑑賞日:2024/04/07(日)