会期:2024/03/10〜2024/03/28
会場:PARCO劇場[東京都]
公式サイト:https://stage.parco.jp/program/tokyoronde/

5人ずつ10組の男女の情事の前後の光景を描いたオーストリアの劇作家アルトゥル・シュニッツラーの戯曲『輪舞』。十景のそれぞれで性行為が繰り返し描かれ(とはいえ行為自体が舞台上で行なわれるわけではないのだが)、しかもその多くが一夜限りの関係や不貞行為であるというこの作品は、1920年の初演以降数度にわたりその「スキャンダラスな」内容をめぐって一大騒動を巻き起こしたのだという。だが、いまこの作品が上演されたとして、それがスキャンダラスと評されることはまずないだろう。『輪舞』で描かれた男女やその関係のあり方は現代にも通じる普遍性を宿している一方、あまりにありふれて陳腐なものになってしまった。作品がもっていた社会風刺や挑発の力は、その意味ではすでに失われてしまっている。

では、どのようなかたちであれば現在形の『輪舞』は可能か。現代を舞台とした『輪舞』の翻案には1998年に初演されたデヴィッド・ヘア作の『ブルー・ルーム』という先行作品があり、日本でも2001年にデヴィッド・ルヴォー演出、内野聖陽と秋山菜津子の出演で上演されている。『東京輪舞』(作:山本卓卓、演出・美術:杉原邦生)ももともとは『ブルー・ルーム』を演出しないかという杉原へのオファーからはじまった企画らしい。だが、戯曲を読んだ杉原が「いまこの作品を上演するのであれば2024年の日本版『輪舞』を」と提案し、山本による新作書き下ろしが実現したのだという。この提案は見事にハマったと言っていいだろう。『東京輪舞』の上演は『輪舞』に対する2024年の日本からの優れた応答であり、同時に2024年の日本を生きる人々への挑発でもあった。それは未来に向けた変容を人々に促す力をもった作品だったということだ。

PARCO PRODUCE 2024『東京輪舞』[撮影:岡千里]

『東京輪舞』はその日食べるための金にも困っている十代(清水くるみ)が食べ物の代金と引き換えにデリバリーの配達員(髙木雄也)と公園のトイレで事に及ぶ第一景「十代と配達員」にはじまり、以下、家事代行(清水)、息子(髙木)、作家(清水)、夫(髙木)、クィア(清水/髙木)、インフルエンサー(髙木/清水)、俳優(髙木)、社長(清水)と第十景「社長と十代」まで連なっていく。すべての登場人物を二人の俳優の一人複数役で演じるのは『ブルー・ルーム』を踏まえた趣向だ。ナンパからの情事(第二景「配達員と家事代行」)、雇い主による性行為の強要(第三景「家事代行と息子」)、不倫関係(第四景「息子と作家」)に夫婦関係(第五景「作家と夫」)と、休憩前の第五景まではよくも悪くもいかにもありそうな男女の関係が描かれていくのだが、休憩を挟んだ後半では様子が変わっていく。

PARCO PRODUCE 2024『東京輪舞』[撮影:岡千里]

第六景「夫とクィア」では第五景で登場した夫と不倫相手のクィアとの会話が描かれる。「クィア」とされている彼女はどうやらトランス女性らしい。夫は以前、トランス男性とも不倫関係にあったのだと言い、クィアと出会って改めて自分はクエスチョニング(性的指向や性自認が定まっていないこと)かもしれないと気づいたのだともいう。次の第七景では、インフルエンサーとクィアの二人が行為に及ぼうとして服を脱ぐも結局やめてしまうのだが、その際に発せられる「違うと思ってたけど、似すぎてる。私たちは」という言葉は両者に何らかの共通点(クィア性?)があることを示唆している。劇中で明示されることはないものの、会場で販売されていた公演プログラムによればインフルエンサーはトランス男性らしい。そのインフルエンサーと第八景で関係をもつ既婚者の俳優はポリアモリー(関係する全員と合意のうえで複数の相手と恋愛関係を結ぶこと)を実践しており、しかもおそらくバイセクシュアル(男女両方が恋愛/性愛の対象になる)かパンセクシュアル(性別に関係なく恋愛/性愛の対象になる)だ。俳優のパートナーである社長は泥酔した挙句に十代と寝てしまうのだが、十代の若者に手を出してしまったことには動揺する一方、女同士での性行為については特に抵抗を感じている様子はない(そのことについて十代を慮るような発言はある)。このように後半五景では、何らかの意味でマジョリティ的な、つまりはシスヘテロモノガミー的なそれとは異なる性愛のあり方が描かれていく。

加えて、髙木と清水の役の交換という演出的な(といってもそれはあらかじめ戯曲で指定されたものなのだが)企みは、観客の認識をさらに揺さぶることになるだろう。第七景で服を脱いだクィアとインフルエンサーはそのまま互いの服を交換して身に着ける。これはクィアとインフルエンサーによる衣服の交換ではなく、清水と髙木による役の交換を意味している。つまりそれ以降、クィアを演じていた清水はインフルエンサーを、インフルエンサーを演じていた髙木はクィアを演じることになるのだ。そうして第十景まで辿り着いた観客は第一景で登場した十代と再び出会うわけだが、ここで十代を演じるのは清水ではなく髙木になっている。

PARCO PRODUCE 2024『東京輪舞』[撮影:岡千里]

PARCO PRODUCE 2024『東京輪舞』[撮影:岡千里]

重要なのは、このような舞台で展開される物語を理解しようとすれば、観客は自ずと目の前で起きていることを、そして舞台上でそのように存在している人々の姿をそのままに受け入れるしかないということだ。ジェンダーやセクシュアリティについて知識を得ることはもちろん重要であり、そういった知識をもっていた方が『東京輪舞』の物語は理解しやすいだろう。だが、たとえ十分な知識がなかったとしても、多様なセクシュアリティを否定することなく尊重し、そのままに受容する姿勢をとることはできる。いや、セクシュアリティが人によって多様に異なるものである以上、そのような姿勢こそがまず第一にあるべきものであり、知識を更新し続けるよう努めるのはその次の段階だろう。『東京輪舞』はその上演を通して多様なセクシュアリティを表象し可視化するだけでなく(それもまたきわめて重要なポイントであることは改めて指摘しておこう)、それを観る観客の側にも多様なセクシュアリティをそのまま受け容れる姿勢を要請する作品だ。未知のものを受け容れることはなかなかに難しい。だがそれが清水と髙木という多くの人に愛される二人の俳優によって演じられるとき、人は喜んでそれを受け容れるだろう。『東京輪舞』という作品がPARCO PRODUCEという多くの観客に届けられるプロダクションのかたちで上演され、清水と髙木の二人によって演じられたことの意義は大きい。

鑑賞日:2024/03/11(月)