会期:2024/03/15〜2024/03/17
会場:森下スタジオ[東京都]
公式サイト:http://buru-egonaku.com/2024/01/22/creation-at-morishita-studio/

「夢は現実から影響を受けて、現実を手がかりに形作られていく。そしてその反対も無いとは言い切れない。現実は夢から影響を受けて、夢を手がかりに形作られていく」。ブルーエゴナク『波間』の登場人物のひとりのセリフだが、ここでいう夢はフィクションとも言い換えられるものだ。作・演出を担当した穴迫によると『波間』は「『夢』という捉えどころのないテーマから、フィクションによる現実への影響、及びその反対を検証しながら描くことで、今日のわたしたちの救いの一端を導き出す試み」なのだという。それは人生の、他人の、そして世界のままならなさをめぐる物語でもあるだろう。

上演は青年(大石英史)の「音楽」という言葉に合わせて音楽が流れるところからはじまる。そこは青年の眠りのなか、夢の世界らしい。青年の言葉に合わせて音楽がかかるのも、そこが青年のコントロールする世界だからだろうか。彼は夢から覚めたら死のうと思っているという。自ら死を選ぶということもまた、人生を自らの意志でコントロールしようとする試みのひとつだと言えるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。その選択には多かれ少なかれ周囲の環境が影響しているはずだ。『波間』という作品はその冒頭から、何事かをなそうという意志と、人生のままならなさとの間で揺れている。たとえ世界が夢であったとして、それもまた自分の意志でコントロールすることのできない、ままならないものであることに変わりはない。

[撮影:金子愛帆]

夢らしく論理的整合性に乏しい場面の連なりから浮かび上がってくるのは、かつて青年が中学生だった頃、久保田(深澤しほ)と東(田中美希恵)という同級生にいじめられていたらしいということ、そして同じようにいじめられ、しかし青年と仲良くしていくれていた曽根ちゃん(平嶋恵璃香)がすでにいまは亡くなってしまっているということだ。近所のコンビニ(?)や中学校の教室などを行き来しながら、夢のなかで青年は曽根ちゃんと再会を果たす。そして曽根ちゃんは久保田と東がクラス内での地位を失ったことを青年に告げるのだが、それは果たして現実の記憶だろうか、それとも青年の夢だろうか。

[撮影:金子愛帆]

過去そのものと溶け合っているかのような夢の世界はやがて、いじめの発端らしき出来事へとたどり着く。青年はクラス内のアンタッチャブルなグループに使い走りのような扱いを受け、ほかのクラスメイトへのいじめに加担していたようだ。久保田はそれをやめさせようと青年を糾弾するが、そのやり方をめぐって友人だった曽根ちゃんと対立してしまう。その後、久保田は同じくいじめの被害者だった東と急速に距離を縮め、そしてクラスの頂点に君臨する。曽根ちゃんと青年はそうしてクラスでの居場所をなくしたのだった。誰もそんな結末は望んでいなかったはずなのに。

その後のことは多くは語られない。曽根ちゃんはすでに亡くなっているらしい。青年は目覚めたら死のうと思っている。一方で青年は、夢に出てきた曽根ちゃんたちが自分を止めに来てくれたとも思っている。そして青年はノックの音で目を覚ます。そのノックは10年以上ぶりに再会することになる東のものだ。東が青年のもとを訪れたのは、曽根ちゃんの遺品の夢日記に自分がそうすることで、青年の自殺を止めようとすることが書かれていたからだという。他人の、世界のままならなさが人をどうしようもない状況へと追いやっていくさまを描いてきた物語は、最後の最後でそのままならなさを、ままならない他者との関わりをかろうじての希望へと反転して幕となる。

[撮影:金子愛帆]

[撮影:金子愛帆]

他人やこの世界はもちろん、自分の人生すらままならないのは、それが自分ひとりで完結するものではないからだ。演劇の上演も同じである。それは上演に関わるたくさんの人々──劇作家、演出家、俳優、スタッフ、観客など──の意志が関わり合う、そのままならなさから立ち上がってくるものだ。しかしそれでも「今日のわたしたちの救いの一端」を、その波間にこそ見出すこと。『波間』にはそんな願いが込められているように思う。最後に響くノックの音、開かれたカーテンから差し込む光は、ままならなさの可能性を開くものだ。

さて、しかしだからこそ私は、今回の『波間』東京公演があまりに美的完成度の高いものであったことに少々引っかかってしまうのだ。もちろん、上演の完成度が高いことは一義的にはよいことである。私の観劇した回では機材の不調で上演が中断するトラブルがあったのだが、それでも最後まで集中して観劇することができたのは、緩みない演出とスタッフワーク、そして俳優のパフォーマンスの強度ゆえだろう。だが、それはつまり(機材トラブルがあったとはいえ)上演のすべてが十全にコントロールされていたということを意味している。このことは『波間』という作品で描かれていた「ままならなさ」とどう関わるのだろうか。

あるいは、舞台の上の調和は、クリエーションの過程でそこに参加する各々が「ままならなさ」と向き合った末に訪れたものなのかもしれない。実際、今回の東京公演のクリエーションは、作・演出の穴迫のビジョンを実現していくのではなく、参加メンバーによるディスカッションをベースに進められていったのだという。その意味では『波間』東京公演が立ち上げていた世界もまた、間違いなく「ままならなさ」から生み出されたものだ。だから、問うべきは次のような問いだということになる。「ままならなさ」から生まれたものから「ままならなさ」が排除されている(ように見える)のは望ましいことか。正解がある問いではないだろうがもう少し考えてみたい。

[撮影:金子愛帆]

[撮影:金子愛帆]

[撮影:金子愛帆]

ブルーエゴナクの次回公演は11月。『波間』に連なるシリーズ「ここは彼方(Here Is Beyond)」の新作を京都・神奈川で上演予定。

鑑賞日:2024/03/16(土)