会期:2024/04/13~2024/05/12
会場:Gallery PARC[京都府]
公式サイト:https://www.galleryparc.com/pages/exhibition/ex_2024/2024_0413_hayashiyuki.html

他者の撮った写真や動画をSNSや動画投稿サイトで日々大量に共有することが当たり前になった現代。一方、映画の発明以前、映写機やプロジェクターの原型である「幻灯機(マジック・ランタン)」によって、人々はイメージを暗がりのなかで共有していた。幻灯機は、17世紀にヨーロッパで発明され、19世紀を通して隆盛した投影装置である。箱の内部に光源(蝋燭やランプ)を入れ、ガラスに描いたイメージを、レンズを通してスクリーンに投影する。アルガン・ランプやライムライト(石灰灯)といった強力な光源の発明により、多くの観衆に向けたショーが可能になった。スライドの絵は、物語や寓話、名所の風景、災害や戦争などのニュース、教育目的、子ども向けの童話など多岐にわたり、写真の転写が可能になると、図像のバリエーションと産業化はさらに拡大した。

映像作家・林勇気は、「映像の原体験」といえる幻灯機に着目。明治時代の幻灯機を参照し、蝋燭の灯を光源とするオリジナルの幻灯機を制作した(制作協力:山内鈴花)。投影されるのは、エピソードとともに募集した「忘れられない一日」の写真。展示会場では、写真から制作したガラス製映写用スライドが計11枚、エピソードとともに展示された。また、1時間ごとに、幻灯機に蝋燭を灯し、任意の1枚のスライドの映写が行なわれた。蝋燭が燃え尽きるまでの約10分間、暗闇におぼろげなイメージが映し出される(映写中以外の時間帯は、林と写真提供者がスライド上映を鑑賞する映像が、エピソードの朗読音声とともに展示された)。また、会期末の5月11日には、林自身の映写により、すべてのガラス製スライドを投影する上映会が行なわれた。映像の原体験であり、アノニマスな他者の記憶の共有や、映像メディアへの自己言及という近年の林の関心が幾重にも折り重なった、この濃密な上映会の体験を本稿では取り上げる。

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

上映用の小さなスペースで、10数名の観客が暗闇のなか、幻灯機を取り囲む。林が蝋燭に火を灯し、蝋燭を入れたカンテラを幻灯機の中に入れ、レンズを覆う蓋を外す。投影されるイメージは、蝋燭の灯が光源のため、オレンジ色がかり、光量も弱いために不鮮明で見えにくい。炎の揺らぎとともにイメージもかすかに揺らめき、炎が弱まるにつれて彩度と明度が落ち、夕闇に飲まれるように薄れていく。かと思えば、一瞬、赤みが差す。おぼろげに陰っていくイメージには個体差がある。突然プツッとかき消えるもの。無彩色に陰る時間が長く続くもの。(2本入れた蝋燭の燃焼時間の差があるため)画面の半分が日蝕のように暗く侵食されるもの。残像のようにおぼろげなイメージが完全に消えると、暗闇と静寂に包まれる。林がスライドと新たな蝋燭を入れ替えるあいだ、消えたイメージを惜しむ気持ちと、次のイメージへの期待がない交ぜになった感情を味わう。

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

ロウの焦げる匂いが漂い、私たちは普段、無臭化されたイメージを見ていることを改めて意識させられる。空や水辺の光景が何度か登場し、「日が暮れていくまで」の時間を早送りで見ているような感覚を覚える。あるいは、「記憶が色あせ、曖昧に薄れていく」時間の圧縮。私たちは「イメージを見ている」と同時に、「時間そのものを見ている」。それは、次第に衰弱し、「死」へ向かうイメージを見届けている体験だ。観客は、映像を共有する原体験と同時に、イメージの「死」をみんなで看取っている。スイッチひとつの機械的な電源オフではなく、「蝋燭の灯の揺らぎ」がその生々しさを感取させる。

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

「写真に撮られた誰かの記憶を(再び)見る」という体験は、原田裕規の映像作品《One Million Seeings》(2019-)とも共通する。不用品回収業者や産廃業者から「捨てられるはずだった写真」を原田が引き取り、「写真との関係性が結ばれるまで見る」 というレギュレーションのもと、1枚ずつ手に取って見続ける様子が、固定アングルで淡々と映し出される。その多くは、家族や友人とのスナップ、旅行や行事の記念撮影、風景や花などのアマチュア写真だ。家庭の親密圏からも市場価値からも見放され、「もはや誰の目にも触れることがなくなった写真」に、「最後の眼差し」を注ぎ、「死」を看取ること。「写真を見る原田」を入れ子状に見ることで、観客も「看取り」を追体験する(ただし、24時間という上映時間は、体験の完全な共有は不可能であるという皮肉や逆説をはらむ)。

「捨てられる写真/大切な思い出」という落差はあるが、林の本作と原田に共通するのは、「イメージの看取りに立ち会っている」という体験だ。原田の場合、机の上に積み上げられたプリントの堆積は、「かつてどこの家庭にもあった紙焼き写真」という物質的なメディアの死も示唆する。一方、物質性よりも 現象 ・・ として体験させる林の作品の背後にも、他者の記憶とデジタルメディアをめぐる過去作品のテーマが伏流のように存在する。《15グラムの記憶》(2021)では、「祖父の遺品のフロッピーディスク」に保存されていた川の画像と撮影日誌をたどり直す「孫の私」によって、「水/氷」「流体/固体の状態変化」「氷=データの解凍」「グラス=保存媒体」といったメタファーを通して、記憶やデータの保存形式の複数性や動態的なあり方について自己言及的に語られていた。フロッピーディスクが「死者の遺品」であることは、専用のドライブを取り寄せないと再生不可能という「メディアの(仮)死」のメタファーでもある。

また、林は、一般市民から募集したホームビデオを用いて現代美術作家が新たな作品を制作する企画展「テールズアウト」に参加した際、記録媒体や記憶について自己言及的に語る《瞬きの間》(2022)を発表した。水で満たされたプラスチックのコップの中に、さまざまなホームビデオの断片が揺らぎながら映し出される。プラスチック製コップと、DVDやフィルム、磁気テープなどの記録媒体の原材料が同じ化石燃料であることに着目した仕掛けであり、ナレーションで語られる「溶けて燃えてしまうプラスチックのコップ」は、記録媒体の物質的な可燃性や損傷性を示す。

記録媒体の劣化や保存形式のアップデートにより、保存したデータはいつか読み込めなくなり、死を迎える。また、林は、「映像機器の電源を落とす」というルーティンを展示の 内部 ・・ に組み込む試みも行なってきた。個展「電源を切ると何もみえなくなる事」(2016)では、「1日3回、決まった時間に映像機器の電源が落とされる」操作がなされ、電源オフの時間帯はブルー画面が表示されることで、映像=光の非実体性、電気の安定的な供給に依存する脆弱性、検閲や規制といった暴力的な介入についても示唆した。この「電子的な死」の先に、「蝋燭の灯をともす」ことで、映像の原始としての影絵、さらに再生と鎮魂を示すのが、個展「君はいつだって世界の入り口を探していた」(2022)である。閉館30分前から林自身が映像機器の電源を落とし、その傍に蝋燭の灯をともし、燃え尽きるまでを立ち会った観客とともに鑑賞する。暗闇のなか、墓石や墓碑のように佇む床置きのプロジェクターやモニターと、その傍らにともされた灯は、「命を絶たれた」映像に代わる「別の光の再生」であり、追悼や贖罪の灯でもある。

その灯で、もう一度、原初の映像体験を「再生」してみること。それはイメージや他者の記憶の共有であると同時に、「イメージの死を看取る体験」でもある。どれほどかけがえのない記憶であっても、やがて薄れて消えていく。記録媒体や再生機器、電気の供給といった映像メディア環境が潜在的にはらむ「死」。死や消滅が幾重にも折り重なりつつ、掌中の個人デバイスで見る孤独さではなく、「見えづらい」像として他者の記憶をともに見つめることに、救済がかいま見えた。

[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]

関連レビュー

林勇気「君はいつだって世界の入り口を探していた」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年10月15日号)
ホームビデオ・プロジェクト「テールズアウト」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年03月15日号)
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林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年05月15日号)

鑑賞日:2024/05/11(土)