隣り合う二つの館

今年の春、豊田市美術館の隣に豊田市博物館が開館した。美術館はミニマルかつ端正な美術館建築の名手として知られる谷口吉生、博物館は斬新な素材や工法で持続可能な建築を実現する坂茂が設計している。アメリカのランドスケープアーキテクトのピーター・ウォーカーが手がけた美術館の庭をずっと北に伸ばして博物館までつなげ、20世紀型のモダニズム建築と21世紀型のエコ建築が左右対称に並ぶ。博物館の外観は、大きさや高さ、プロポーションを水平垂直が際立つ矩形の美術館と調和させつつ、躯体は入り口から緩やかにカーブし、中に入ると地域産の木材による柱と天井が空間を覆っていて、有機的な印象を与える。美術館には、これまでも展覧会の内容に関わりなく建築愛好者の来館が多かったが、博物館ができたことで建築を目当てに訪れる人々がさらに増えるだろう。

豊田市博物館[筆者撮影]


豊田市博物館[筆者撮影]

豊田市には、ほかにも槇文彦による《トヨタ鞍ケ池記念館》(1974)、黒川紀章による《豊田スタジアム》(2001)、妹島和世による《逢妻交流館》(2010)、遠藤克彦による《豊田市自然観察の森ネイチャーセンター》(2010)などの建築があるので、美術館や博物館とともに建築探訪していただくのもお勧めである。豊田市の建築については、美術館のオンライントークで建築史家・批評家の五十嵐太郎に簡潔かつ詳細に語っていただいているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。



未完の始まり:未来のヴンダーカンマー

さて、今年の1月20日から5月6日にかけて、博物館の開館に合わせて「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」という展覧会を開催した。博物館は展示物により地域の伝統、自然、記憶を可視的に配置する一方、美術館は美術作品により芸術の歴史を跡付け、美的な経験をもたらす。どちらも展示品をもとの場所や文脈から切り離し、ニュートラルな空間の透明な格子に置き直すことで、体系的な分類と逸話的な統合を行う。昨今、文化人類学的アプローチや歴史研究的リサーチを行なう作家も現われ、これまで博物館の領域とされていたものに近づいている作品もある。かつて「博物館行き」は物の終焉を意味する言葉だったが、過去の事物や資料は未来を考えるための宝庫であり、作家たちはそれを翻案して新たな命を吹き込むことができる。彼らの作品は、博物館と美術館を架橋しながら、それぞれにどのような展示の力学が働いているのか、またそれらが鑑賞者に与える情報や体験の違いは何かを考えさせてくれる。

「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」ガブリエル・リコ 展示風景[撮影:ToLoLo studio]

展覧会タイトルの「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」は、絵画や彫刻などの美術品に加え、動物の剥製や植物標本、地図や天球儀、東洋の武具や陶磁器など、世界中からあらゆる美しいもの、珍しいものが集められた、15世紀ヨーロッパの邸宅の中の陳列室を意味する。ミュージアムの原型といわれるこの部屋は、見知らぬ広大な世界を覗き見る、小さいながらも豊かな空想を刺激する場所であった。

しかし大航海時代の始まりとともに他文化から持ち込まれた事物で構築されたヴンダーカンマーには、集める側と集められる側の不均衡や好奇の眼差しも潜んでいた。18世紀の啓蒙の時代に入り、王侯貴族の蒐集品の公開は、社会の進歩に資する道徳的・教育的意義があるとされ、今日の公共施設としてのミュージアムの制度が確立し、博物館と美術館は分化された。しかし、このときミュージアムの収集や設立資金を支えていたのも、さらに拡大した植民地主義であった。19世紀後半につくられ始めた日本の博物館も、18世紀に形成されたこれらヨーロッパのミュージアムに範を取っている。植民地主義はミュージアムの基盤になっただけでなく、ここから地球規模の流通、技術や情報の伝播が始まり、時を追うごとに速度と規模を増して現在に至っている。植民地主義は過去の遺物ではなく、いまも世界中で行なわれている経済活動はその構造を引き継いでいるといえる。本展では、植民地主義に支えられた美術品や博物資料の陳列室「ヴンダーカンマー」を現在のホワイトキューブに重ねて、世界の不均衡から始まった「未完」の現在地から未来のミュージアムを考えようとするものであった。

 

世界の均質化に抗する地域性

本展には、世界各地からそれぞれ異なる文化的背景をもつ5人の作家に参加してもらった。メキシコの先住民族と長く共同制作をしてきたガブリエル・リコ、旧ソビエト連邦下にあったダゲスタン共和国にルーツをもつタウス・マハチェヴァ、長大な技術史のなかに豊田の地域性と人類とテクノロジーの未来を織り込む田村友一郎、人類の発展を宇宙規模の叙事詩として謳いあげる中国のリウ・チュアン、そしてベトナム戦争から逃れてデンマークで育ったため東西の文化背景をもつヤン・ヴォーである。

ガブリエル・リコ《El Horóscopo de Jesús (Dan, Richard & Joseph)[イエスの星占い(ダン、 リチャード&ヨセフ)]》(2023/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

タウス・マハチェヴァ《Цlумихъ(アヴァル語で「鷲にて」)》(2023/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

左より、タウス・マハチェヴァ《Ясалъуляс(アヴァル語で「の娘の娘」)》(2024)、《42.6729165, 47.7314644》 (2023/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]


田村友一郎《TiOS》(2024/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]



田村友一郎《TiOS》(2024/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

リウ・チュアン《リチウムの湖とポリフォニーの島 II》(2023/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

本展における重要なテーマとして、植民地主義以降顕著になった経済活動に伴う人々や物の移動とそれにより起こる文化の混淆があった。ミュージアムの重要な使命のひとつに、国や民族、地域の歴史や伝統、文化を守り伝えることがある。各地に固有の文化や伝統は、そこに属する人々の誇りとなり、アイデンティティとなって、人々の紐帯を形づくる。すべてがグローバリズムに呑み込まれていきそうな現在、ローカルな文化や伝統は世界の均質化に対抗する手段になるだろう。国際的潮流と地域的伝統の絶えざる対話は、世界を多様で豊かなものにするはずである。ところが、文化的アイデンティティはしばしば硬直化し、それ以外の共同体や集団との間に境界や軋轢をつくりもする。グローバル化が急速に進むからこそ、いっそう民族的・文化的アイデンティティに基づく対立が強固に立ち現れてくることがあるのを、21世紀初頭に生きる私たちは知っている。そうしたなか、美術館や博物館は、どのように自文化や他文化に出会ってもらうことができるだろうか。本展では、近代化とともに語られてきたリニアな世界観を見直し、複数の伝統や文化を単純化や神秘化することなく見せ、かつ感情を揺り動かす文化的ナショナリズムから距離を取る作家たちを紹介した。ここからは、個人的体験や歴史を複雑なまま記号化・象徴化・物語化し、美しさとともに多層的に作品を構築するヤン・ヴォーの作品を例に、そのことについて考えてみたい。


花の可憐さと堕落

ヤン・ヴォー《untitiled》(2023/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

自然光溢れるホワイトキューブの中央に、格子状の木枠でできた立方体が設えられている。その内側には、ヤン・ヴォーの父による優雅な筆致で、薔薇、菊、撫子などのラテン語の名前が描き添えられた48点の花の写真が掛かっている。それらは、ベルリンにあるヴォーの住居の1階の花屋で売られている花々である。花屋はヴォーの友人のベトナム人親子が経営しているのだが、そんなふうにベルリンの安価な花屋の多くはベトナム人により営まれているという。ヴォーは数年前からベルリン郊外にあるギュルテンホーフにアトリエ兼庭を構えているが、以前、その花屋の友人に、自分の庭に咲き乱れている花々を売ってはどうかと勧めてみた。しかし、花を売るにはマーケットを通して流通させなければいけないことがわかった。野に咲く花も花屋の花も同じ花のはずなのに、これは奇妙なことである。そこでヴォーは、都市空間を生き抜くようつくられた、──どこか堕落していて現実的な──花屋の花々を写真に収めることにした。セロファンを巻かれ、値段表とともに写し取られた花々は、愛と喪失の象徴であり、ときに下心を秘めた商品にもなる、社会に堕した花々なのである。


手前より、ヤン・ヴォー《untitiled》(2023)、《2.2.1861》(2009/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]

それらの写真は、ベトナム戦争を推し進めた米国防長官ロバート・マクナマラが息子に譲ったという農場で育てられた胡桃の額に収められている。展示室の壁には、同じくヴォーの父が描き写した手紙が掛けられているが、その内容は1861年にベトナムで殉教したフランス人宣教師テオファン・ヴェナールが父に宛てた遺書である。そのなかで若き殉教者は、自らを庭師に喩えた神に摘み取られる春の花だと語っている。ここで、切り取られる花と斬首される首のイメージが、残酷かつ美しく重なる。ここにおいて、作家のヤン・ヴォー、米国官房長官のマクナマラ、そして時を遡って宣教師のヴェナールの、ベトナムという地を介した3組の父子の愛と悲しみが交差する。幼少時に父がつくったボートでベトナムから逃れてデンマークで育った背景を持つヴォーの作品には、彼らの存在を否応なく翻弄する強国の存在がいつも潜んでいる。人間も花も、自らの意志に関わりなく、世界の覇権や経済システムに巻き込まれ、ときに命を賭した移動を強いられることがあるのである。

出自や背景に関わりなく世界中を移動させられることになるのは、美術作品も同じである。花の写真で囲われた空間のなかには、いまや脚だけになった紀元2世紀頃のローマ時代の彫刻が置かれている。その大理石彫刻は、ヨーロッパの美術の源流を誇ってそれらしく台座の上に鎮座するのではなく、床に敷いた端材の上に事もなげに置かれている。この彫刻には、冷戦下の1986年にアメリカ海軍の全面協力のもと制作された戦闘機アクション映画『トップガン』の主題歌である「Take my Breath Away」の名が付けられている。古代彫刻とハリウッド大衆映画の崇高と俗なるものとの結合は、男性の肉体美を賛美するのと同時に、その称揚のなかにアメリカのミリタリズムを読み取る。ヴォーの人体彫刻はその権威を剥奪されてはいるが、破損した右脚には補修のための真鍮の留め具が施されていて、それはこの上なくシンプルかつささやかに提示された、世界の解体とその修復である。美は時折権力に利用されはするが、その矛盾を孕んだ美が、ホワイトキューブのなかで可能性の扉を開き続けるのである。

さて、図鑑から切り取られたような花々の写真とそこに描き加えられた学術名は、一見博物学的な比較と分類を思い起こさせるだろう。エドワード・サイードによれば、植物学者のリンネやビュフォンが、人間を類型(タイプ)化してやまない近代的視点を準備したという。しかし、ホワイトキューブの中に設えられた格子状の木枠は、世界を分類・序列化するためのフレームではない。そこに掛けられた花々の写真は、互いを比較し差異化を示すべく配置されているのではなく、ヴォーによって美的に、あるいは気まぐれに並べられている。ヴォーの父が描いた花の名前は、分類のためというより、ファーストネームで呼びかけるような親しみを込めた愛らしさが感じられる。格子状のフレームは、庭の東屋のようにその内側に鑑賞者を招き入れ、風通しよく内と外をつなぎながら、“枠”により“枠”を超えていく。フレームは乗り越えるためにあり、社会の構造に呑み込まれた花屋の花々は、──たとえ経済と共犯関係にあったとしても──、ただそれそのものの美しさとともにそこにある。


ヤン・ヴォー《Take My Breath Away》(2017/「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」より)[撮影:ToLoLo studio]


他者との距離

ヤン・ヴォーの作品は、作家の出自や背景を知らなければ理解が難しい象徴や記号に満ちている。例えば、ヴォーの父が描き写したフランス人殉教者の遺書はフランス語で描かれているため、その内容を理解できる来場者はそう多くはないだろう。しかし翻訳は掲示しておらず、監視員に尋ねてもらえばその日本語訳を読むことはできる。それは、すべての来場者にわかりやすく開かれた状況とはいえないかもしれない。しかし、ベトナムで書を生業とし、戦火を逃れてデンマークに移り住んだヴォーの父自身が、アルファベットで手紙を描き写すことはできるものの、そこに書かれている内容についてはまったく理解することができなかったのである。17世紀初頭に宣教師によりベトナムにもたらされ、以降公的に使用されることになったアルファベットにも、植民地主義の跡を読み取ることができる。

そして重要なことは、私たちの周りにも言語がわからない環境に身を置いている人々が、普段その背景にまで意識を向けていないだけで、この作品のように存在するということである。移動の範囲やスピードが互いに異なる世界では、特定の地域や人々について短時間で知るには限界があり、そこには理解と同時にすれ違いも起きてくる。そのとき、現代における啓蒙としての他者理解を求めすぎることなく、そこにある「わからなさ」をこの身に受け止めることも、また必要であると思う。ミュージアムがコミュニケーションの場になることがますます求められるようになっている現在、注意を向けなければ気づくことさえない距離が他者との間にあることにも意識を向けておきたい。世界の矛盾はそのままに、わかりやすく落とし込みすぎることなくそこに向き合うことで、単純化することなく思考し、きめ細やかな感受性を培う一助になるのではないかと思う。

地域の歴史や記憶を視覚的にわかりやすく伝え、そこに属する人々の紐帯を作る “みんな”の博物館と、個人として作品に向き合い能動的な考察が促される“ひとり”で考える美術館。現代の社会は、ますます“ひとり”になれる公共空間がなくなっていくように感じられる。筆者はこの4月から美術館から市役所に異動することになったため、展覧会を含む美術館の今後の活動に関わることはできないのだが、“みんな”の博物館が開館したかたわらで、鑑賞者がそれぞれ個人としての思考を確かめることができる“ひとり”になれる美術館であり続けることを、離れた場所から願っている。


未完の始まり:未来のヴンダーカンマー
会期:2024年1月20日(土)~2024年5月6日(月祝)
会場:豊田市美術館(愛知県豊田市小坂本町8-5-1)
公式サイト:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/wunderkammer/