会期:2024/07/12~2024/08/04
会場:CON_[東京都]
公式サイト:https://www.contokyo.com/p-l-r-a-e-y/

新井健と谷川果菜絵のユニット「MES」による個展「祈り/戯れ/被虐的な、行為」は、一見して率直なメッセージに溢れているのだが、それだけにとどまらない生々しい質感、縮減不可能な複雑さ、いうなれば不気味なものの気配がある。詩・(半)立体・インスタレーション・映像・パフォーマンスといったかたちへと広がる本展の試みについて、ここではひとまず「熱の交換を通じた接触のモードの展開」とでも呼んでみたい。この質感は、英題「P-L/R-A/E-Y」によくあらわれているように思う。ここには、Pray / Play / Prey といったワードの重なりが読み取れる。それらは、会場にゆらめく蝋燭の炎のように、またたきながら入れ替わり続ける。薄暗い空間の中で、わたしは自分の感じているものがなんなのか、わからなくなる。

会場構成は、階段を昇りきった正面から壁に沿って時計回りに5作品が並び、中央の空間で不定期にパフォーマンスが催されるというシンプルなものだ。入口近くの壁に展示された《THE BOUNDARY BETWEEN YOU AND ME MELTS AWAY(あなたとわたしの境界線が溶けていく)》では、木枠に流し込まれた蝋が部分的に溶け、タイトルと同一のテキストが彫り抜かれている。反対側の壁の同名作品では制作過程がそのままインスタレーションされており、これらの文字がレーザー光の熱によって刻まれていることがわかる。灰色の蝋はコンクリートを剥き出しにした会場空間に溶け込むかのように見え、融解した窪みの奥からは赤黒い蝋が漏れ出している。抉られた傷口。身体加工の一種であるスカリフィケーション(瘢痕文身)の類を想起させるそれは、作品タイトルを真に受けるのであれば、あなたとわたしのあいだの境界としての皮膚である。ごく一般的に、作家は作品を介して鑑賞者と接触する。しかし本展は作品が溶け落ちることで始まるのであり、そこにおいて作家と鑑賞者は新たな接触の様態を探し求めることになる。

次の《IMMOLATION(Collage of Pyrosexual)》では、アルファベットを象った黒い蝋燭が壁面に並べられ、短い英詩のようなテキストがあらわされる。このテキストはハンドアウトのとおり、Nigel ClarkとKathryn Yusoffによる論文 “Queer Fire: Ecology, Combustion and Pyrosexual Desire” に登場する単語のコラージュによって制作されている。ClarkとYusoffは、資本主義社会の継続のみを目指す限定的なエコロジー/エコノミー概念において、火の放埒さや性の多様性はこれを揺るがすものとして危険視されてきたと述べる。そして、この弾圧されてきた火と性のエネルギーを転換することによって、生命の存続(=既存のシステムの延命)を目指す生殖行為としてのセックスを離れ、火を媒介とする宇宙的・非生命的な欲望とエネルギーの交換様態としての “Pyrosexual” の可能性を示唆する。生殖を前提とした異性愛的なセックスと、生命の象徴としての水。それらを転倒させるものこそが “Queer Fire” だというわけだ。同論文では、ジョルジュ・バタイユによる太陽を核としたエコロジー/エコノミー観(とりわけ全般経済学の概念)が援用されているのだが、ここで、バタイユの太陽に対するオブセッションがよくあらわれた著作『太陽肛門』を見てみたい。バタイユは「繋辞(主語と述語を接続する動詞、日本語では『〜である』が相当)」に着目し、このフランス語 “copule” が同時に「交接」という意味を持つことを背景に、レトリックの中に潜む欲望を暴露する。バタイユが「私は太陽である」と書くとき、それはレトリックを超えて「私」が「太陽」へと差し向ける愛欲へと姿を変える。本作においては、コラージュという技法もまた、そうしたテキスト同士の交接を示唆して見えるだろう。「犠牲」を意味する “Immolation” の題のもとに掲げられた蝋燭の文字たちは、そのひとつひとつが生贄であるとともに、自らの融解によってテキストそのものの交合を実演する “Pyrosexual” な使徒である。

ひときわ目を引く巨大なディスプレイでは、五本の手指の先それぞれにC, E, A, S, Eの文字を象った黒い蝋燭を立て、それが燃え尽きる様を捉えたモノクロ映像《CEASEFIRE》が繰り返されている。燃えるCEASEで “CEASEFIRE(停戦)” になるというユーモラスさと同時に、これがパレスチナ虐殺へのアクションであることが直感される。興味深いのは、“cease-fire” つまり「火を止める」というワードが他ならぬ着火によって完成されるという作品の皮肉な構成だろう。しかもそれは映像化された消えない火(もしくは消えた瞬間に再び再生可能な火)である。あるいは、原理的に終わらない争いをそれでも止めようとすること? しかし直前の《IMMOLATION(Collage of Pyrosexual)》を踏まえるなら、火を破壊の象徴として見立てること自体がすでに、既存の社会(=戦争を避け難い社会)によるレッテルなのだ。それらすべてを燃やし尽くす火。「止めること」さえも燃やす消えない炎。自己矛盾的な映像の奥には、そうした「外なるもの」の気配が燻っているように思える。

《THE BOUNDARY BETWEEN YOU AND ME MELTS AWAY(あなたとわたしの境界線が溶けていく)》と同じく、レーザーによる蝋へのアプローチを行うのが《ICARUS_走光》である。ここでは床に置かれた円形の金属プールに青い蝋が満たされ、天井から差す青いレーザー光によって文字が刻まれる。ハンドアウトによると、ここで刻まれているテキストは三島由紀夫の長詩「イカロス」の英訳であるという(わたしの鑑賞時点ではまだ一文字目が刻まれ始めたところだった)。三島の「イカロス」はその名のとおり、太陽に近づきすぎたことで蝋で固めた翼を溶かされ海に墜落した、ギリシャ神話のイカロスの逸話にもとづいている。文中においてイカロス=三島が渇望する天は「絶えざる青の注視」「一点の青い表象」と表現されており、本作の構成は、光源へ向けて一直線に翔ぶイカロスとその背景の海原を思わせる。《THE BOUNDARY BETWEEN YOU AND ME MELTS AWAY(あなたとわたしの境界線が溶けていく)》と異なるのは、本作では溶け出た蝋が重力によって流れ落ちないため、表面には火傷のようなうっすらとした痕跡だけが残される点だ。この痕跡は一見、墜落したイカロスの立てる水飛沫のようにも受け取れるが、ここにはいくつかの複雑さが潜んでいる。レーザー光によって融解することで蝋は液体=海として振る舞えるようになり、同時に、熱せられて蒸発することで二酸化炭素と水になって天へと昇っていく。つまりここで蝋は、イカロスであると同時に、海であり天でもありうる存在として位置付けられる。また、レーザー光による融解はごくゆっくりと進行するため、その実態は認識できず、光と蝋の接触点はその反射によって白飛びを起こし、視認することができない。イカロスは昇天と墜落のあいだで宙吊りとなり、わたしたちの目もまた、それに触れることができないのだ。

そうして作品を周遊しているうちに、パフォーマンス《WAX P-L/R-A/E-Y》が始まる。空間中央に敷かれた灰色のカーペットの上で、新井と谷川が黒い蝋燭に火を灯す。二人は蝋を垂らして身体をコーティングすると、その上に C, E, A, S, E の5つの蝋燭を固定しそれぞれに火を灯す。タイトルが “wax play / pray / prey” の重ね合わせとして読めるように、その様子は厳かな祈りや戦争犠牲者への追悼、あるいはその苦しみの一部を自らの身にうつし取ろうとする身振りであると同時に、SM的な加虐−被虐の悦びの質感を纏って見える。二人はパフォーマンスについて、実験を重ねるなかで適切な融点を持つ蝋の配合や芯の素材の選択ができるようになった、と語る。また、身体に火を灯しながら空間を歩く二人の動作は、蝋の垂れ方や火のゆらぎに絶えず影響されて見える。つまり二人は、火を馴致すると同時に火に馴致されている。火が身体化され、身体が火化される。ここまでの作品に照らすなら、それはあなた身体わたしの境界線が溶けていくことであり、火と交合することで “Pyrosexual” な身体へと変ずることであり、蝋が溶けることによってはじめて飛翔するイカロスであると言えるかもしれない。指や腕を蝋で覆われ、火を灯しながら歩く二人の姿を見たわたしは、それをある種のサイボーグとして理解した。わたしたちの身体は生まれた瞬間から不可逆に人工物と溶け合っているわけだが、そうした人工物の源泉としての火──ここで天界の火を盗んだプロメテウスを想起せずにおれようか?──と、もう一度交わり直しているのだと。

蝋は火によって溶けるが、すべてが蒸発するわけではなく、かたちを変えて再び固体化する。蝋は感応する物質であり、そこにはエネルギーの記憶が保存されている。また、現代の蝋燭に用いられる蝋の多くはパラフィンであり、これは石油から分離された精製物である。展示とパフォーマンスを通じてひたすらにエネルギーを与えられ、蕩尽される蝋たち。熱を通じたその接触は、蝋を溶かし、作家の肌を炙り、鑑賞者へと到達する。それは、作品の背後の記憶への手招きであり、堆積した微生物によって保存された歴史への接続であり、資本主義的エネルギーサイクルの要としての石油を脱臼させ、その外部へと向かう準備である。

鑑賞日:2024/07/12(金)

★──パフォーマンス後、来場者との会話の中での発言。