発行日:2024/05/30
発行所:講談社
公式サイト:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000389278

百瀬文の作品ではしばしば、言葉と身体感覚とが密接に結びついたかたちで提示される。言葉が無色透明な媒体としてではなく、具体的な手触りを持ったものとして扱われていると言い換えてもいいかもしれない。例えば、ろうの女性とその恋人である男性の対話を映した《Social Dance》。そこで用いられる手話という言語において、言葉と身体感覚とが切り離せないものであることは言うまでもないだろう。あるいは、鍼の施術を受けながらイヤフォンから流れる音声を聞く体験型のパフォーマンス《鍼を打つ》。その鑑賞者は、問診票に並ぶ言葉/イヤフォンから聞こえる言葉と鍼が打たれる部位との対応関係を(それがいかに不明瞭なものであれ)否が応でも意識させられることになる。それは言葉によって鍼を打たれ、己が身体の輪郭を改めて知覚していくような体験だ。さらに、まばたきによるモールス信号でI can see youとメッセージを発し続ける女性の姿をバストアップで捉えた映像作品《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》では、鑑賞者はメッセージの内容というよりはむしろ、まばたきを続ける顔面の運動と向き合うことになる。そもそもメッセージの内容は鑑賞に先立ってタイトルとして伝達されてしまっているうえ、鑑賞者の多くはモールス信号を解さないからだ。画面の上で歪む女性の顔には、聞き届けられることのない言葉を発し続ける苦痛と、鑑賞の対象として一方的に見られ続けることの苦痛とが身体化され表出しているかのようだ。

言葉と身体感覚とを撚り合わせることで世界認識の新しい回路を開くような百瀬のアプローチは、文字のみを媒体とするエッセイにおいてもいかんなく発揮されている。『なめらかな人』は文芸誌『群像』での2022年から2024年までの2年間の連載をまとめた百瀬の初のエッセイ集。収録された24本のエッセイのテーマは(疑似)家族、恋愛、死、価値観がまったく異なる人(ナンパ師!)との交流、花への距離感、カラオケ、ヌード等々と多岐にわたり、美術に直接関わるものもそうでないものもある。多くのエッセイでは複数の話題が並走し、読者の思考はときにその並びを通じて思わぬ方向へと誘われていく。

冒頭に置かれた本書と同タイトルのエッセイ「なめらかな人」から、私は予想外の話題と遭遇することになる。そのタイトルから私は、人当たりの良さや何事にも臨機応変に対応するしなやかさをもち合わせた人物を思い描いていたのだが、このエッセイのテーマは「剃毛」である。ここで言うなめらかさとは文字通りの、物理的なそれだったのだ。さらに、剃毛をめぐる触覚的な記述は具体的な形や手触りを通じてときにまったく無関係と思われる事柄の記憶を呼び込み、剃毛にまつわるイメージを撹乱していく。陰部用のシェーバーの形状はアップルの試作品に喩えられ、男性の髭剃り用シェーバーと酷似した機構によってカットされる陰毛は男性の髭と「単純な物質としてみれば交換可能なものなのかもしれない」と見なされる。隠毛が刈られる感触は稲のそれと重ね合わせられ、「なめらか」になった肌の質感から想起されるのは医療用シリコンや百瀬が美大時代に実習で磨いたプラスチックの表面だ。百瀬は陰毛を永久脱毛しようとすることを「性的に成熟した身体を拒絶するような、あえて第二次性徴を迎える以前の身体でとどまろうとするような、そういう態度」だという。剃毛をめぐるイメージの撹乱もまた、そこに結びつけられた複数の具体的なイメージを回路に、性的なまなざしをはぐらかす実践として機能するものでもあるだろう。

最後に収められた「砂のプール」もいかにも百瀬らしい一編だ。そこで百瀬は自身の死後に実現するものとして、火葬した後に遺る自らの骨を使ったインスタレーションを構想してみせる。それは幼少の頃に抱いていたという骸骨への恐怖を自らの手でつくり変えるような試みでもあるのかもしれない。骸骨への恐怖は、死後の姿が具体的なかたちで自らの体に埋め込まれているという事実に由来するものだった(「骨が怖い」)。あらかじめ埋め込まれた死のかたちはどうすることもできないが、死後のかたちを自らの意志で指定することはできる。構想される百瀬の死後のかたちは、どこまでも具体的な手触りでもって「生き生きと」描き出されるだろう。

本書で扱われるテーマには、性や恋愛、家族など、広く社会に根づいたステレオタイプと無関係ではいられないものも多い。もちろん百瀬自身もその引力の圏内にいて、百瀬が同居する斎藤玲児・金川晋吾・森山泰地との生活や関係についての一連のエッセイには、ときに悩みときに衝突しながら自分たちなりに居心地のよい関係を模索し、あるいはそれが変化していく様子までもが綴られている。人と人とが既存の概念の枠内には収まりきらない「新しい」関係を結んでいくこと。それは無関係と思えるイメージの間に両者をつなぐ回路を開くことにも似ている。ときに連想ゲームのように言葉を連ねていく百瀬のエッセイは、そうして読者をステレオタイプの外側へ、未知のイメージへと連れ出していくのだ。

執筆日:2024/07/25(木)


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百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年02月01日号)