2020年10月15日号
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artscapeレビュー

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」

2020年02月01日号

会期:2019/12/07~2020/01/18

EFAG East Factory Art Gallery[東京都]

百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。

興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。

《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。

ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。

《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。


公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja

2020/01/20(月)(山﨑健太)

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