会期:2024/05/25〜2024/07/26
会場:Marian Goodman Gallery[パリ]
公式サイト:https://www.mariangoodman.com/exhibitions/560-thomas-struth-nature-politics/
Marian Goodman Gallery(パリ)で開催された写真家トーマス・シュトゥルートの個展「Nature & Politics」は、先端技術が扱われる場所の風景を視覚的なモノグラフィーとして描く。複雑性から意味を剥奪することで、一転して平凡で日常的な風景へと変質させていた。
作家が2007年から継続して取り組んでいる同名のシリーズ「Nature & Politics」では、物理実験所、製薬工場、宇宙ステーション、造船所、兵器庫、手術室、原子力施設など、専門的な科学技術を扱う施設を題材に、高度な技術が空間に与える影響を美学的に探求している。本展ではシュトゥルートが近年継続して撮影し続けている、世界的に権威のある二つの科学研究機関に焦点が向けられた。これらの場所は人新世の風景を体現するかのように、人間の知的な探究心を表わす象徴であるが、シュトゥルートはそれらを無機質で触れられざる場へと変容させる。
フランスとスイスの国境をまたいで位置するジュネーブの欧州原子核研究機構(CERN)は、素粒子の衝突やブラックホールの生成実験、原子力研究を行なう世界最大の物理実験所である。同所の中でも最大の建物であるEHN1エリアの風景を撮影した横幅が数メートルにも及ぶ巨大な壁画のようなパノラマ写真の作品群は、テクノロジーの発展によって生まれた人工的な風景を描いている。ある種の測量とも呼べるほど精密に水平垂直が意識された構図のもとでは、フレーム内の風景に映るすべてのディティールが露光され、一つひとつの細部が意味をなさないほど大きな巨大数としてのみ提示される。科学技術の意味が切り離され、緻密であると同時に抽象性をも感じさせるような捉えどころのない希薄なイメージが築かれている。
《Brillenbär (Tremarctos ornatus), Leibniz IZW, Berlin》(2018)[筆者撮影]
続く作品群では、実験施設内のコンテナの中で積み重なる実験機器や道具、素材のスクラップを真上から見下ろした構図によってミクロな風景がフレーミングされる。湾曲したパイプ、油圧計、絡まり合ったケーブル、パイプ椅子、ステンレスの部材など、用途を失い施設の片隅で取り残されたオブジェクトが構築する風景が映される。あたかも対象の構成(コンポジット)にのみヴァンテージポイントを設定するかのような、物語性のない画面は、モホイ゠ナジ・ラースローのフォトグラムやジャン・グルーバーの写真を想起させる即物的な作品となっている。
もうひとつの撮影地であるベルリンのライプニッツ動物園・野生動物研究所(IZW)は、野生動物のなかでも希少種の繁殖や保全活動、遺伝子解析を通して人や環境への影響を調査する研究機関である。この研究所で行なわれる実験のなかでも際立って特徴的である、自然死した動物の検死解剖。これに立ち会い撮影された写真は、単一の画面構成から成り、解剖を待ち静かに横たわる動物の遺体のイメージ群となっている。灰色の背景が敷かれ、死という共通のテーマによって類型化されることで、一定の調律のもと沈着かつ美的な側面が浮かび上がる。シュトゥルート自身がデュッセルドルフ美術アカデミー在学中に、タイポロジーをベッヒャー夫妻から学んだという背景をもつ。その手つきを感じさせるベッヒャーシューレ的な静かなイメージがここには見られる。そのいっぽう、連作のなかに動物の頭部に焦点を当てたスナップや解剖直後の動物の脳を写した鮮烈なイメージも同列に並べられることで、そのタイポロジーのあり方は解体されもする。このようなイメージの操作のあわいで動物の肉体が問いかけているのは、生命の死を研究対象にする人間のありようと、動物の尊厳との双方であるように感じた。
同シリーズは、人類の発展的な技術進歩の場をいたずらに称揚するのではなく、ただ視覚的に抽出し日常的で平凡なものへと変質させることで、複雑さを複雑なまま捉えるあり方を示す。言い換えるなら、シュトゥルートは実にシンプルに「私たちはいったい何を見ているのだろうか?」と、写真というメディア本来の問いかけを再定義することで、人類の営みの複雑性を複雑なまま捉えようとする。
風景から意味を切り離す。意味が生じるその前の、一種のプロローグとして、人の手を離れてもなお残る痕跡を写し出す。そうすることで、人間が作り上げた視覚的風景の永続性について、おそらくシュトゥルートは思考している。
鑑賞日:2024/07/26(金)