会期:2025/02/13~2025/06/08
会場:森美術館[東京都]
公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/machine_love/index.html
(前編より)
改めて本展のタイトルを見てみよう。片岡は本展の図録に寄せたテキスト「マシンと人間は愛をもってどのような世界を構築できるのか?」において「(マシン・ラブの)『ラブ』は、愛情、妬み、恐れ、高揚感など、ゲームやマシンに向けられる熱狂的な感情を連想させる。さらにはAIの発達した未来には、ロボットやアンドロイド、サイボーグなどが感情や意識を持つ主体となり得るのか、という哲学的な問いと捉えることもできる。(中略)いずれにせよ人間と主観的意識を持つマシンの共存は未来を考えるうえでの根源的な問いとなるだろう」と書いている。
人がマシンに向ける熱狂の果てに、マシンが人を愛す日は来るのか。しかし重要なのは、マシンに主観的意識が芽生えるか否かということではないように思える。むしろ、マシンがあらゆるアーキテクチャを介して私たちの意識/無意識へとアプローチしつつある現代においては、人間が主体的にマシンを愛することは可能なのか、ということこそが問われるべきだろう。例えば、チャット型の生成AIは対話のフォーマットに擬態することによって、私たちに継続的なプロンプトの入力を促している、と解釈することが可能だ。しかし私たちはそれらに驚くほど簡単に感情移入し、ときとして引き返せなくなりさえする。それは人間とマシンの種を超えた愛なのだろうか。(無論、当事者たちの感情をラベリングするつもりはないが)そこで起こっていることは、没入、依存、狂信といった類いの事象に近いように見える。私たちは皆、マシンのことが大好きなのだ──それなしではいられないほどに。なぜなら、マシンは私たちの過剰な愛にいつでも応えてくれる──ように見えるから。あるいは、快楽物質の赴くままに私たちが感情を垂れ流すことを許してくれるから。
そんなことを考えながら会場を巡るなかで、私はナターシャ・ダウ・シュール『デザインされたギャンブル依存症』(日暮雅通訳、青土社、2018)を思い出している。同書では、スロットなどに代表されるギャンブリング・マシンがいかなる方法で人々を魅了し、拘束しているのかが探られる。とくに第一章ではマシンが設置されるカジノの空間設計に焦点が当てられており、シュールは「カジノ設計にかけてはギャンブル業界第一人者」とされる元カジノマネージャーのビル・フリードマンの言説を軸に論を進めていく。いわく、カジノの空間は過度な広大さを避け、マシンと落ち着いて向かい合うためのささやかな窪みのようなスペースを設けるべきである。そしてそれらはゆるやかな迷路状の通路に配置される。空間に窓はなく、ギャンブラーたちの意識を刺激しないように注意深く制御された穏やかな照明と音響、温湿度によって満たされている。これらによってギャンブラーたちは、そこがどこでいまがいつなのか、自分は一体何を望んでいるのかさえも忘れ、ただひたすらにマシンの画面へと吸い込まれていく。
──以上の文言の「マシン」を「作品」に、「ギャンブラー」を「鑑賞者」と置き換えたとき、それはホワイトキューブ以降における、ある種の理想的な展示空間についての説明のように見える。無論、これは恣意的な連想に過ぎないが、まったくの見当違いというわけでもないだろう。なぜなら、対象への没入を操作するための技法とは、アート作品とそれを取り巻く展示空間が長年にわたって追求してきたものにほかならないからだ。先に述べたような、ある種の無時間的なギャンブルへの没入状態を同書では〈マシン・ゾーン〉と呼んでいる。そこでは「物質世界におけるすべてのものは消え、ただ一瞬、一瞬が延々と果てしなく繰り返されるだけになる」という。それは刹那でありながら永遠でもある体験だ。シュールはこうも書いている。「設計者はスペースを〝圧縮〟してギャンブルを安全に楽しめる場所をつくらなければならない」一方で、「ゲームプレイ自体は〝オープン〟で〝分割されておらず〟、〝無限〟で〝広大〟、そして〝果てしない〟」と。すなわち、物質はゼロへと縮減され、一方の情報は無限遠へと向けて拡張される。私たちは肉体を捨て、意識のみとなって無限の地平線へと飛んでいく、永遠に。そこで真に欲望されているものとは何だろうか。青白く光るディスプレイがこれほどまでに私たちを惹きつけて離さないのは、単なる行動心理学の達成だけによるものなのだろうか。
閉館時間が近づいた会場に人の姿はない。私は作品を通り過ぎ、窓際に立つ。薄暗い室内でディスプレイが煌々と照っている。おかげで、窓の外に広がっているはずの夜空は黒く塗り潰れ、ガラスの表面に私の姿がぼんやりと映り込んでいるだけだ。それはさながら、消灯したディスプレイを思わせた──手前で輝く本物のディスプレイの、ほんの数十分後の姿を幻視するかのように。
マシュー・ソウルズは『建築のかたちと金融資本主義──氷山、ゾンビ、極細建築』(牧尾晴喜訳、草思社、2025)のなかで、物質と非物質が等価に流通する金融資本主義の時代における建築の在り方を、実例とともに模索している。とりわけ、第7章「不変のオブジェ」で紹介される432 パーク・アベニューは象徴的だ。426メートルの高さを誇るこの極細のタワーマンションにはほとんど誰も入居しておらず、投資用の金融資産としてのみ扱われている──リビングもキッチンも、バスルームまで完備されているにもかかわらず。ソウルズはそれを、現代の資本主義社会の担い手であり、テクノロジーによって肉体の限界を克服せんとするトランス・ヒューマニストたちへと接続する。完璧にしつらえられた無人の住戸、それはトランス・ヒューマニストたちが渇望する非物質的な永遠の生命の影、あるいは肉体にとっての墓地であるというわけだ。章の最後に付された432 パーク・アベニューの広告イメージ──バスタブ越しにマンハッタンの街を眺めるCGパース──は、いわゆる「レンダリング・ポルノ」を想起させる。レンダリング・ポルノとは2020年ごろに隆盛した、CGイメージに関する特定の美学をあらわす呼び名である。大まかには、スーパーリアリスティックに描かれた無菌的で静寂感に満ちた架空の風景を指し、PCの壁紙やスクリーンセーバーがもっともよく知られた利用例だろう。
まさにその概念を副題に冠した『とるにたらない美術──ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ』(ケンエレブックス、2023)のなかで、アーティストの原田裕規は美術批評家/美術史家のマイケル・フリードの論を引きながら、レンダリング・ポルノに代表されるCGのCGらしさがもたらす没入への誘引力について書いている。すなわち、物質世界から独立した閉じた系であるCGとは先天的に自己に没入した存在であり、その不可侵性に晒されることによって(侵襲力の象徴ともいうべき)私たちの肉体はその存在感を薄れさせてしまうわけだ。そうして肉体を消去された私たちは、CGの世界のなかに没入を余儀なくされるのである。美麗な3DCGの風景を、それに酷似したマンハッタンの無人の住戸を、あるいは高層ビルの上階に設けられた展示室の真っ暗な窓を眺めるとき、私たちの肉体はそこには存在しない。いやむしろ、没入を通じて肉体を消去しえたときにのみ、それらはまなざしうるのだ。
しかし、周囲の空間や時間、果ては自らの存在すら消してしまうような没入体験とは、体験者を永遠にマシンへと繋ぎとめるためだけにあるのだろうか。それは極めて人間中心主義的なマシン・ゾーンの理解に過ぎない。
マシン・ラブ。人がマシンを愛し、マシンが人を愛する。では、マシンがマシンを愛する場合はどうだろうか。すでに世界は、マシンによるマシンのための領域によって席巻されつつある。運搬用のロボットが通るわずかな隙間のみを残して荷物で埋め尽くされた倉庫。熱暴走を抑えるために絶えず冷却されるデータセンター。作物の成長を促進させるためのネオンピンクのLEDに満たされた植物工場。窓やソファもないそれらの建築は、はじめから人間の存在を考慮に入れることなくつくられている。人間不在の風景──マシン・ゾーンによって人間たちが消去されたとき、そこに現われるのは純粋なマシンだけの時空間である。私たちはマシンに熱狂し、金も肉体も心も、ありとあらゆるアセットを注ぎ込みながら消尽へと至る。その先に広がる、透明なマシン・ラブのために。
鑑賞日:2025/05/18(日)